番外 今はもう遠いあなたへ・後編 −不忍彩香
「ただいまー」
「おかえりなさいませ……あら」 すぐに彩香の新しい眼帯に気が付いたニーナが微笑んだので、彩香は照れ臭くなって、みたらしの足を拭くためにかがむことで誤魔化した。 「綺麗なマスクですね。よくお似合いですよ」 「ありがとう。水渓さんが作ってくれたんだ」 「それはよかったですね」 うん、と頷く顔が、どうしてもニヤニヤしてしまう。彩香は気持ちが落ちつくまで、いつもより念入りにみたらしの足を拭くことになった。 持ち帰ったキュウリとトマトをニーナにサラダにしてもらい、スティック状にしたキュウリは、味噌をつけて食べてみた。しょっぱくて、なかなか美味しい……が。 (いつものマヨと混ぜてみよう) どうしてそう思ったのかはわからないが、両方つけて食べてみたところ、双方の尖ったところが丸くなり、実にアメージングな味わいになった。これが、彩香と味噌マヨとの出会いであった。 頬を緩ませながらポリポリとキュウリを齧る彩香に、ニーナもさりげなく追加のスティックを置いていく。 「他に、食べたいキュウリの料理はありますか?」 「うーん、タコとわかめを入れた酢の物がいいかな」 「かしこまりました」 先日、みんなで集まって中華料理を食べた時に、巨大なタコやイカの話になっていた。彩香も久しぶりにタコが食べたくなった。 サラダと冷たい茶碗蒸しと赤しそのおにぎりで昼食を済ませた後は、やはり眠くなってしまって、彩香はみたらしと少し昼寝をした。 こちらの世界へ召喚されたのは、五月の半分を過ぎたくらいだった。それからは、毎日が宿題のない夏休みで、彩香はのびのびと暮らしてきた。 でも、そろそろ退屈を覚えもしている。なにしろこの世界には、TVも携帯ゲームもないのだ。スマートフォンは電波がなくて使えないので、充電がきれるまま、荷物の奥へ放ってある。一緒に町に住んでいる人たちに連絡をしたければ、ショーディーから支給されたタブレットを使うか、ニーナに頼めばいいのだ。 (定番と常道かぁ……) ピアノの前で五線譜を眺めながら、彩香は次に提出する曲を考えた。中学に上がった時に教室は辞めてしまったが、ピアノの演奏は今でも好きだ。 (『大きな栗の木の下で』、『きらきらぼし』、『大きなのっぽの古時計』、『ふしぎなポケット』、あとは、『さくらさくら』とか、『蛍の光』とか? うぅーん……) ミモザで出会った母子は、死にかけていたところをショーディーが買い上げてくれたという。遠い外国で内戦に巻き込まれ、奴隷として連れてこられたなんて、彩香にはまるで実感がわかなくて、かわいそうだな、としか思えなかった。 (なんで、かわいそうって思ったのかな?) 故郷にいられなかったから? 人権を奪われたから? 安定した生活がおくれなかったから? たしかに、それらは事実なのだろう。だけど、ショーディーに感謝していると微笑む若い母親と、元気な幼女を見て、彩香の胸にしみ込んだものは、なんだったのだろうか。 (そうか。ショーディーくんに会うまで、誰にも助けてもらえなかったからか) それは、彩香と同じだった。 それまで知っていた人たちからは顔を背けられ、孤独でしかたがなかった。ただ生きていくだけの糧は与えられても、本当に望む救済は与えられなかった。 ただ生かしてくれた人を恨むわけではないけれど、そのどうしようもない虚しさは、いまでも彩香のどこかに居座っているような気がする。 (よし、決めた) うろ覚えだったり、楽譜に書き起こしたりするのは大変だが、そこはスキル【感性/音楽】がいい感じにカバーしてくれるだろう。 「ふーんふーんふーん、ふふふーふふんふんふーん♪」 日本ではフライドチキン屋のCM曲として有名だが、元はプランテーションで働く奴隷たちの生活を歌ったものではなかったか。歌詞も現代では差別的だとして、一部改定されていたような気がする。 「まだ夏だけど、クリスマスにはフライドチキンがいいなぁ。七種さんに再現してもらえないかな?」 彩香にとってはチキンだが、この曲を聞いた金木が「来年からはケンタッキーダービーも見られねえ!」と少し落ち込むのは、数日後の話。 それともう一曲。こちらはイギリスの歌だが、故郷にいる元恋人に「不可能事ができれば本当の恋人だ」と伝えてという内容だ。妖精騎士が少女の求婚を断るために無理難題をいう内容の、別の歌が元ネタだそうだが、どちらにしても、離別、決別、の意味合いが濃い。 (ギターで演奏できればいいんだけどなぁ。そういう弦楽器と弾ける人がいないかな。ショーディーくんに聞いてみよう) 彩香はニーナに呼ばれるまで記譜に没頭し、夕食後も夜遅くまでピアノに向かった。 「ああ、いいですねぇ。この曲は、カバーされたのも結構昔なんですが、よく知っていましたね」 「軽音部の先輩が、音楽の先生に習ってアコースティックギターで弾いていたんです。それで、私も原曲を知りたくて、図書館でCDを借りて聞きました」 「そうでしたか」 出来上がった楽譜を提出して、音源を枡出に聞いてもらった彩香は、「これだけで夏休みの自主課題はクリアですね」と言ってもらい、満面の笑みを浮かべた。頑張ったかいがあった。 「この歌には、『パセリ、セージ、ローズマリーにタイム』という、ハーブの名前が何度も出てきます。これは、魔除けの意味もあるそうですよ。面白いですね」 「いい香りだと、魔物が寄ってこないんですか?」 日本の魔除け植物だと、松とか柊とか南天だろうか。あんまり香りが強い植物のイメージは、彩香にはない。 「日本では、ヨモギやショウブなどが相当しますかねえ。香りのあるハーブは食べ物の臭み消しや、防腐、虫除けに使われていますし、土葬のお墓に植えて、野生動物に掘り返されないようにもしていました。そういったところから、魔除けの着想を得たのではないでしょうか」 「なるほど。じゃあ、この世界でも、香りの強い植物があって、活用されているんでしょうか?」 「いい質問ですね。私たちは直接見に行けませんから、この世界の冒険者に聞いてみましょう」 「はい」 彩香は枡出と一緒に『学徒街ミモザ』に行き、手の空いている引退冒険者たちからこの世界のハーブについて聞き取っていった。その中には、ミントやローズマリーに相当しそうな植物もあれば、ショーディーがムタスで手に入れた山葵みたいな香りがするハーブもあった。 ただ、「魔除け」や「幸運のシンボル」といった、ゲン担ぎや願いを込めることはないらしい。それは、稀人の知識に対して 彩香は思わず、渋いものを噛んだような顔になってしまった。そこまで稀人の知識というものを妄信されると、なんだか背中が気持ち悪い感じがしてくる。 「まさに狂信。そして、言論や思想の抑圧。これが、この世界の現状です。ショーディーくんは、これを何とかしたいのでしょう」 やはり苦い表情になっている枡出に、彩香も大きく頷いた。 こうした学習活動は、なにも彩香だけのためのものではない。彩香の学習の方法が、いつかこの世界の子供たちの学習の助けになるのだ。 数カ月前までは、誰も話を聞いてくれない、誰も助けてくれない、と疲弊していた彩香だったが、この世界で生活するうちに、あらたな繋がりの中にいることを、少しずつ心地よく感じるようになっていた。 (もうむこうの世界には、私はいない) それはショーディーが断言していた。『いないことが正常になってしまった』と。 感傷がないとは言わないし、ふとしたきっかけで懐かしい気持ちがわくこともある。 (私がいない方が、お母さんも幸せかもしれないし) そう一度ならず思い、枡出にも言ったことがある。 しかし、枡出は「彩香の母親が反省し、彩香に謝罪する機会が奪われた」ことは、許されることではないと言っていた。彩香は祝福されて生まれてきたはずで、その喜びや思い出すらも、この召喚は彩香の母から奪ってしまってしまったのだと。 (そうかもしれない) 彩香の母に空いた、彩香の形をした穴は、しかし、すぐに塞がってしまうかもしれない。でも、彩香はそれを、少し寂しいとは思っても、嫌だとは思わなかった。 (私も、お母さんを許してあげなくて、いいもの) 彩香は母親のせいで酷い目にあった。もう生きていたくないと思えるほどの苦痛を味わった。 そしてなにより、彩香がいないことが正常と見なされれば、養父が誹謗中傷を受けずに済む。これだけで、彩香の心はずっと軽くなった。 (私の右目は、むこうに置いてきた) 水渓にもらった、綺麗なマスクに覆われた右半面に、そっと手を当てる。 (もう関わらない……関われない。手切れ金かな) 不便ではあるが、これはこれで良かったのではないかと思えるようになってきた。そう思える、心の余裕が、できてきた気がする。 「おーい、彩香ちゃーん。ニーナさんから依頼が出てた、ピクルス液のレシピ持ってきたよ!」 「えっ、ありがとうございます!」 案内所に提出された七種のレシピを受け取った彩香は、ついでにと依頼を出すことにした。 「『白いスーツのおじさんが店の前に立っているフライドチキンの味の再現』? ぷは! おーけー、おーけー!」 「クリスマスに間に合えばいいので、ゆっくりで大丈夫です」 「りょーかい。あー、私もチキン食べたくなってきた」 クスクス笑う七種と別れ、彩香はみたらしと一緒に帰路についた。 「お漬物ってちょっと苦手だけど、ニーナがピクルス作ってくれるなら、食べられそうだなぁ」 「ワウッ」 新しい町で始まった、新しい生活。 手放さなければならなかったものも多かったけれど、彩香は今の生活に充分満足しているし、心が穏やかだと自覚できている。 このひのもと町で残りの生涯を過ごせることに、とても感謝していた。 「ただいま、ニーナ!」 「おかえりなさないませ、お嬢様」 この左目だけの視界に映るものが、いまの彩香を大切にしてくれる者たちなのだから。 |