121 怯懦を捨てて −アレッサンド


(どうしてこうなった……)
 燦燦と降り注ぐ陽光の下で船に揺られながら、吾輩は頭を抱えたい気分だった。

 最初の間違いは……今思い出しても、恥ずかしくて死にたくなる。

 貴族の子弟は、十五歳で大人と認められると同時に、王立学院に入学する。入学が成人してからなのは、それまでの幼年課程は各家で家庭教師が雇われることが多く、「最低限、身の回りのことができること」というのが、入学条件のひとつになっているからだ。
 ただ、この最低限というのが、「自分の持ち物を自分で管理できる」という一点であることが、そもそもの間違いなのかもしれない。

― はあぁぁ? 没落貴族のさらに末裔が、何言ってるんですかねー?
― お前んちは貴族じゃねーから! くははは! ダッセェ!
― 領地もない、ただの官僚の子じゃないか。 ゼーグラー家? 知らんな。
― 毎年、一人か二人はいるんですよ。そういう勘違いをしている子は。

 馬鹿にし、揶揄ってくる同級生の声よりも、教師の同情という仮面の下にある薄ら笑いに、ひどく傷付いた。
(……やめよう)
 自ら心の傷を抉ることはない。
 学院生活をするにあたって、自分がどれほど準備不足であったか、世間知らずであったかを、散々に、嫌というほど思い知るのに、一ヶ月もかからなかった。
 それから三年ほどは、自宅から出ることはなかった。自分が恥をかいた原因は、適切な教育をしてくれなかった母や使用人たちだと思い至ってからは、自室からも出なくなった。信用できなくなった、という表現が、適当だろうか。
 ただ、その認識も間違っていると気付かされたのは、安穏と閉じこもっていられる家が無くなってからのことだった。

 吾輩の名前はアレッサンド。
 少し前までは、マリューという家名があったが、いまはただのアレッサンドだ。
 母エレリカは、由緒ある貴族ゼーグラー家の令嬢だったが、現在ゼーグラー家は存在しない。祖父母はすでに墓の中で、マリュー家に嫁いだ母しか子がいなかったからだ。その母もすでに、祖父母と同じ場所にいる。
 父は……いや、彼は吾輩の父ではない。
 長いこと父だと思っていた、ろくに顔をあわせたこともないルジェーロ・マリューは、真実・・、吾輩の父ではなかった。
 吾輩の本当の父親はシェリック・オーヴァーというらしいが、現在はどこでどうしているのかもわからない。生死さえも不明だ。
 吾輩の血縁上の伯父にあたるオーヴァー家の当主が、苦り切った顔で吾輩に告げたのは、「とっとと出ていけ!」という、ありがたい一言だった。
 たしかに、彼にしたら愚弟の隠し子が家に転がり込んできたのだから、迷惑千万だろう。しかも、法務官を引き連れての訪問だった。裁判の結果であり、オーヴァー家はとりあえず受け入れねばならなかったが、法務官が帰った後ならば、吾輩を追い出しても問題はないということだろう。
 弟のカルローは未成年であるから、これも彼の真実の父親の家に連れていかれたようだが、吾輩はとっくに成人している。
(実の子ではないと知っていながら養ってくれていただけ、父上は良い人だったのだな)
 とにもかくにも、吾輩は吾輩を養わなければならない。誰も助けてなどくれないのだから。

 不摂生のせいで太った身体では、肉体労働などできないし、そもそも武術を習ったこともない。人と話すことも苦手で、相手が平民だろうと子供だろうと、吾輩は話しかけることができない。
 ただ、読み書きと少々の計算ができたことと、貴族について僅かばかり知っていたことが、吾輩にとっての幸運だった。
 冒険者ギルドが新しい支部を出す、そのオープニングスタッフを募集する張り紙を見ていた吾輩は声をかけられ、事務員として雇われることになった。
 仕事内容は吾輩にとって難しくなく、サムザ川のヘレナリオ領側に新しく作られた支部に着任してからは、ごく穏やかな日々を送っていた。誰も吾輩の生まれを嘲笑しなかったし、それどころか、勉学を修めた人が来てくれて助かるとまで言ってもらえた。
 もちろん、それで気が大きくなることなどない。吾輩はいまだに、誰かの目を見て話すことだってできないのだ。
 周囲の人間は平民だが、吾輩も平民……いや、貴族だと勘違いして調子に乗った過去のある平民だ。それが知られたら、どれほど嘲笑されるか!
 またあの冷えた空気を思うと、侮蔑の眼差しを向けられて罵られるかと思うと、とてもではないが口を開けなかった。
(それが、なぜこんなことに……)
 吾輩は冒険者ギルドに雇われて初めて、迷宮都市とダンジョンという存在を知った。赴任地が公方家のヘレナリオ領という事もあり、聞かれるままにギルド職員へ関係貴族の情報を提供したのだが、同時に、ギルドから迷宮に関する情報を叩き込まれた。

― 死にたくなければ、王城以上の場所にいると思って、行儀よくしろ

 迷宮都市の規則に従わなかったせいで死んだ者は、それなりの数がいるらしい。
 吾輩は震えあがった。
 知らない・・・・という事が、どれほどの恐怖であるか、吾輩は知っている・・・・・
(だから、迷宮都市には入りたくないのに!!)
 吾輩は、冒険者ギルドの建物の奥で、積み上がる書類を捌いていればそれでよかったのだ。
 それが、ちょっとした偶然で、とんでもないことになった。
(吾輩の間抜け! 阿呆!! なぜあそこで気付いてしまったのだ!!)
 冒険者ギルドを開け、朝の業務にとりかかろうとした時、妙に身なりの良い子供が入ってきたのを目で追ってしまった。少し考えれば貴族の子供だとわかるのだが、護衛も付けずに一人でこんな所に来るものかという先入観があったのだ。
「あ……」
 吾輩の視線が、その子供が腰に吊るした短剣に釘付けになる。柄や鞘に施された独特の模様は、どの角度から見ても公方家にのみ許された意匠だ。
 次の瞬間、吾輩の腹に子供が突撃してきた。
「ぐッふぉぉッ!?」
「黙れ、しゃべるな、静かにしろ……!」
 なんとご無体な。しかし、王家の血筋に連なる方の命令に逆らえるだろうか、絶対に無理だ。このまま息が詰まっても、しゃべるものか。
「……」
「なぜ、わかった? 答えろ」
 腹の辺りから聞こえる子供の声に、仕方なく小さな声で答えた。
「そ、そそその短剣……もろ、バレです」
「なにっ!? 一番扱いやすそうな物を選んできたのに……」
「……」
「よし。お前を僕の世話係に任命してやるから、代わりの武器を調達して来い」
「ひぃぃん……」
 全力で泣きたかったが、吾輩がもたもたしている内に、カリード・ヘレナリオ様は吾輩を御父上の知り合いという身分に仕立て上げてしまった。
 普通なら家に送り帰されるところだが、ヘレナリオ家の視察というカリード様の主張に逆らえず、支部長から「ついでに一度くらい迷宮都市を見て来い」という命令もあり、カリード様のお供を仰せつかってしまったわけで……冒頭に戻る。

 公方家のヘレナリオ家には、跡取りとなるカリード様と、双子のご令嬢であるカレン様がいらっしゃるのだが、まだ七歳か八歳くらいだったはずだ。
 サムザ川のほとりから渡し船に乗り、目の前にそびえる迷宮都市『葬骸寺院アンタレス』を見上げる顔は、どこか悲壮な決意をみなぎらせている。
「あの……」
「なんだ」
 迷宮都市を刺激しないように、とにかく大人しくしていてくれと言いたかったのに、口からは別の言葉が出ていた。
「……なんで、わざわざ?」
「冒険者ギルドからの報告によると、この迷宮都市には、医療の知識があるそうだな。僕は、それが欲しい」
 たしかにアンタレスでは、薬草や病気に対処する知識が出てくると聞いているが、公方家の若様が一人で来る理由にはならないだろう。
「……母上に、元気になっていただきたいのだ。そのために、カレンには僕のフリをしてもらって、抜け出してきた。両親には心配しないよう、手紙も書いて、カレンに渡してある」
 なんと大胆な……。双子だから顔や声は似ているのだろうけれど、そんな小細工はすぐにバレる。それに、どうやって領境までやってきたのかと思ったら、最近往来が増えた、町を造るための物資を積んだ大山羊車に紛れ込んでいたらしい。
 いまごろ、領都のお屋敷は大騒ぎだろう。
「ラムズス卿に聞いたのだが、迷宮都市はそもそも、ブルネルティ家の子が、兄の助けにならんと欲したために出現したらしいではないか。ならばきっと、僕の願いも聞き届けてくれると期待しているのだ」
 ラムズス・ヨーガレイドは、冒険者ギルドにとって、最も頼りにしている公方家の当主だ。迷宮都市に逃げられたキャネセル家の轍を踏まないよう、ヘレナリオ家も助言を乞うたと聞いている。
「……カリード様が行っても、方法はないかもしれませんよ。それよりも、お母上を心配させない方が、よいのではありませんか?」
 言った後に、余計なことを言ったと後悔したが、カリード様は怒らなかった。
「わかっている。屋敷でも、みながそう言った。だけど、僕が直接行って、迷宮都市を見聞きすることが、我がヘレナリオ家と領民にとって、すべてが無駄とは思わない。もちろん、無事に帰ってくることが条件だ」
 そこには、ただいじけていた吾輩とは違う、公方家の次期当主としての覚悟が現れているようだった。
 吾輩はこんな風に、誰かの健康を心から願ったり、家の将来のためにと考えたりしたことが、これまで一度でもあっただろうか。
「……わかりました。吾輩と、現実を見に行きましょう」
「うむ」
 一人では怖いが、誰かと一緒なら、吾輩にも勇気が出るかもしれない。