番外 今はもう遠いあなたへ・中編 −不忍彩香


「おばあちゃん、こんにちは!」
「おや、いらっしゃい」
 古びた……というと失礼だろうか。味わい深い木造の店には、こまごまとした駄菓子がたくさん並んでいる。
 彩香がその店の奥に向かって声をかけると、やや腰の曲がったしわしわの老女が、ひょこひょこと出てきた。
 アルカ族の中でも、日本人にしか見えなくて日本人の苗字を名前にしている者は、ショーディーの側近だと教えられている。このオクダもその一人で、他のアルカ族よりも大きな権限を持っているらしい。
「いやぁ、この暑いのに、遠くまでよく来たねえ。いま麦茶を持ってこようねえ。そこに座って、少し休んでいきなさいよ」
「ありがとう!」
 軒下のベンチに座らせてもらい、冷たい麦茶で満たされたグラスを受け取る。一気に飲んでしまったので、思いのほか喉が渇いていたらしい。彩香の足元に座ったみたらしも、大きな器に出してもらった水をがぶがぶと飲んでいる。
 彩香の家から、ここ下町区二丁目に行くには、駅を通り越して商店街の片側へ抜けと、かなり歩かなければならない。自転車ならそう気にならないが、徒歩だとけっこう遠いのだ。
「お代わりいるかい?」
「ううん。アイス買っていい?」
「はいよぉ。どれがいいかねえ」
 彩香はソーダ味のシンプルなアイスキャンディーを選び、その冷たさに頬がほころんだ。
 彩香には、祖父母と交流した覚えがない。生存はしているはずだが、両親との縁が切れているのか、彩香を引き取るという話はなかった。
 だからかはわからないが、駄菓子を物色ついでに、こうしてオクダとのんびりおしゃべりするのは好きだった。
「ねえ、おばあちゃん。下町区三丁目の無人販売って、どこにあるの?」
「三丁目なら、商店街の反対側だよ。無人販売は、畑のある所になら、そこそこ建っているんじゃないかねえ」
「あちゃぁ、道間違えてた……」
 きちんと確認しなかった彩香も悪いが、そもそも地図を読むのが苦手なので、余計に変なところまで歩いていたかもしれない。道を知っているオクダの店にたどり着いただけ、マシなのだろう。
 アイスキャンディーのくじはハズレだったが、しっかりと休憩できた。そろそろ出発しようかと思っていたところに、ちょうど金木が通りかかった。
「おう、彩香ちゃん。元気か」
「こんにちは」
 金木は瓶コーラをオクダから買い、暑い暑いと言いながら首にかけたタオルで顔を拭いた。とてもおっさん臭い仕草だ。
 金木はこの近くに、工房と住居を構えているらしい。金木が言うには、「俺や枡出のじいさんみたいな年寄りには、このくらいの風景が落ち着く」らしく、彩香が住んでいる山の手区で会ったことはない。
「金木さんもお出かけですか?」
「おう。依頼の品ができたからよ。案内所まで納品だ」
「じゃあ、途中まで一緒に行きます。私、下町区三丁目まで行きたいの」
「いいぞー」
 ほとんど一気にコーラを飲み干して、盛大にゲップをした金木は、オクダに向かって「ごっそさん」といい、空になった瓶を回収コンテナに入れた。
「ほんじゃ行くか」
「うん。おばあちゃん、またね」
「はいはい。またおいでねえ」
 見送ってくれるオクダに手を振り返し、彩香は白杖を握り直して、みたらしとともに歩きだした。
「三丁目のどこに行くんだ?」
「えっと、無人販売で、キュウリとトマトを買うの」
「おお、いいな。俺もキュウリ買うわ」
 冷やしキュウリに味噌付けて食うのが美味い、と金木が言うので、彩香もニーナに作ってもらうことにする。
 商店街を横断して次の角に来た時、急に視界が開けた。
「ほら、ここが枡出さんちだ。蕎麦屋の角を入って行ったところだって覚えておけばいい」
 金木が示したそこには、こぢんまりとした日本家屋があり、「枡出」という表札がかかっていた。振り向いてみると、いま通ってきた道に蕎麦屋ののぼりが見える。
「ここから先は、畑やら田んぼやらがあって、見通しはいいが、夜になると真っ暗だ。舗装もないし、足元が危ないから、夕方以降には来るなよ」
「はい」
 空の青と、稲穂の黄色と、蔓野菜の緑しかない田舎の景色に少し戸惑いながらも、彩香は金木と連れ立って一番外側の畑に沿って歩いた。
「お、あったあった」
「これが、無人販売ですか?」
 ブリキ板の屋根がついた木製の棚。そこには、キュウリを詰め込みすぎてはちきれそうになっている袋と、ソフトボールのような大きさのトマトが三つも入った袋が、それぞれ「百エン」と書かれて、置いてあった。
「そうそう。金はここに入れる」
 古びたクッキー缶に、「お金入れ」と書かれていて、硬貨が入る穴が開いている。
「す、すごい……なんか、見た目とか、全部が、簡単すぎる」
「アハハハ。いまどきの都会っ子には、珍しいモンだよな。俺たちが子供の頃には、よく見かけたもんだ」
 直売所の超簡易版だ、と説明しつつ、金木は慣れた様子で百エン玉を缶に投入して、キュウリを一袋掴んだ。
 彩香も二百エンを缶に投入して、背負ってきたリュックにキュウリとトマトを一袋ずつ収めた。
「んじゃ、案内所まで行くか」
「はい」
 彩香は初めての無人販売体験に少しドキドキしていたが、金木が来た道を変えずに商店街まで戻ってくれたので、もう一人でも迷わず来られそうだと安心した。
 迷宮案内所まで戻ると、そこには水渓もいた。彼も納品に来ていたようだ。
「あら、ごきげんよう。ちょうどよかったわ」
 彩香が依頼達成報告を済ませると、水渓が小さな布を取り出した。
「わあっ! すごくきれい!」
 それは、彩香用の眼帯だった。医療用の味気ないものではなく、表側は繊細な花模様のレエスが施され、顔面の傷痕をも覆い隠せるカバーになっており、アイパッチというより布製のオペラマスクと言ってよさそうだ。
「シルクレエスの試作で悪いんだけど、よかったら使ってみてくれない? 感想を聞かせてもらえたら、もっといい商品にするわ」
「いいんですか?」
「もちろんよ」
 水渓にマスクを装着させてもらうと、すかさず手鏡が差し出された。
「わあぁ……! 綺麗……お姫様みたい」
 眼帯をしたお姫様なんてそういないだろうし、自分がお姫様だとも思っていない。しかし、そのマスクの繊細な上品さ、素材の質の良さ、手間暇がかかっているとわかる技巧の妙、なにより自分のためにあつらえられたという事実が、彩香には小さなマスクがドレスに等しく感じたのだ。
「うふふっ。喜んでもらえて、よかったわ」
「ありがとうございます!」
 とにかく嬉しくて、彩香は思わず水渓に抱き着いてしまった。
「あらあら。そんな大サービスされたら、みたらしにやきもちを焼かれちゃうわ」
「ワンッ」
 まるで不本意だとでも言いたげに鳴いたみたらしを、彩香は水渓から離れて撫でた。
「なるほどなぁ。いいアイディアだ。レエスのデザインもいい。凝ってんなぁ」
「でしょう?」
 職人の目で彩香のマスクを見る金木に、水渓は胸を張る。
「ああ。ユーザーの気付いていないニーズを汲み取れるのは、作り手として得難い才能だ。マサルはショーディーみたいに、思いやりがある奴だからな」
「やだもう! そんなに褒めたって、なにも出ないわよ」
 口ではそう言いつつ、水渓は嬉しそうにくねくねと照れている。
「アタシは、定番とか常道とかを押さえただけよ」
「その危なげなさがいいんだ。自称若手アーティスト(笑)ほど、使い手のことを考えないモノを作りたがるからな。いくら綺麗でも、耳が千切れそうなほど重いイヤリングや、服が裂けるほどデカいブローチを、誰がつけたがるかよ」
「あー、まーねー。そこは別モノよねー」
 こんなに綺麗なマスクを作れる水渓は、十分にアーティストだと彩香は思うのだが、首を傾げる彩香に、金木と水渓は追加で説明してくれた。
「機能美だって、立派な芸術アートだ。だけど、芸術アートは必ずしも、機能美を備えているわけじゃない。わかるか?」
「例えば、ランウェイを歩いているモデルが着ている、奇抜すぎる服を普段から着たい? あれは確かにトップアーティストの作品で、芸術性は高いけれど、人間が着る服なら、究極的には頭と両腕が出て、腰からはいたら二本の脚が出ればいいのよ」
「ああ」
 たしかに、それは服なのかと疑問に思う不便そうな形は、彩香も遠慮したい。
「芸術品と実用品は、用途が違うんだ。この町だってそうだ。俺たちの常識からはかけ離れているけれど、暮らしにくいか? 危険や不安を感じたか?」
「ううん」
 言われてみれば、舗装された歩道には、点字ブロックが引かれているし、赤い消火器ボックスも見かけた。交番にはアルカ族のお巡りさんがいるし、店に品物がなくてガラガラという事もない。彩香が出入りしたことのある建物や公園も、可愛いとかオシャレとか感じることはあるけれど、何のお店かわからないとか、歩き難いとか危ないとか感じたことはない。
「自己主張よりも、そこに住む人のことを第一に考えている。ショーディーくんもアート系のデザイナーじゃなくて、建築系のデザイナーなのね」
「そういうこった」
 納得といった様子の水渓に金木が頷き、彩香もなんとなく違いが理解できた気がした。