116 規格が合わない


 カルモンディ渓谷の谷底道が崩れて塞がっていたせいで、僕らは旧ニーザルディア領への旅に足止めを喰らっている。
 エースが牽く大山羊車が走行可能な道はないかと、僕は単独であちこちに迷宮範囲を作り出しては、辺りを見回していた。
「ふえぇ、毎回ドキドキする」
 いきなり害獣に襲われるとか、害獣の群のど真ん中に出たりしないかとか心配で、けっこう勇気がいる。護衛のソルたちを連れていければいいのだけれど、僕一人の方が逃げやすいので困ったものだ。
「んー、かなり大きな洪水でもあったのかな?」
 渓谷の上から谷底道を見下ろしても、長い距離が土砂に埋もれている。僕たちが大山羊車で立ち往生した場所から、すでに十キロ近くも離れていて、もう少し歩けば旧ニーザルディア領も視界に収まりそうだ。
「……大森林の道が、イオルク湖から続いていればいいんだけど」
 オルコラルト国の穀倉地帯から大森林に入り、オルコラルトの水源になっているイオルク湖までは、おそらく道はあるだろう。しかし、そこから大森林を抜けて旧ニーザルディア領までの道は、もう塞がってしまっていると思われる。
(大森林の出口だけ、確認しておこう)
 そう思ってオフィスエリアに帰ろうとした僕だったが、見下ろしていた谷底に蠢く、変なものを見つけた。
「なんだあれ?」
 害獣のような、仮にも生物の動きではない。なにやら、もやもやとした黒い煙の塊のようなものに見える。
 そのまま身を乗り出しかけたけど、僕はいったん箱庭に戻って、ソルたちを連れてくることにした。

 一人で突撃しなかったことを褒められはしたけれど、僕が案内した先では、スハイルもソルも眉間にしわを寄せたまま、黙って首を横に振るばかり。
「あれなんだけど、何に見える?」
「なに、と言われましても……なんでしょう? 初めて見ます」
「わからない」
 地面の上でモゴモゴと蠢いている姿は、スライムのような不定形を感じさせるものの、その質量が感じられない。まるで、人間一人分の霧か煙が、意思を持って固まっているように見える。
「ですが、なにやら嫌な感じがします。害獣よりも、危険かもしれません」
「俺もそう思う。コレは、よくない」
 スハイルもソルも毛を逆立てるように警戒しているが、僕はそこまで脅威には感じない。ただ、なんか陰気で、ちょっと不快だな、とは思うけれど。
「下がっていて」
 ソルが剣を抜いたので、僕はスハイルに守られるように少し下がった。
「ッ!」
 鋭い踏み込みと同時に、下からすくい上げるように振られたソルの剣は、煙の塊をふわりと切り裂き、そのまま突き抜けてしまった。ソルは素早く後退して警戒の態勢をとったが、煙の塊は相変わらず、モゴモゴフルフルと蠢いているばかりだ。
「どう?」
「手応えがないです」
「物理攻撃無効、っと。じゃあ、魔法撃ってみる」
 僕は雷属性布団叩きライトニングラケットを構えて、えいやっと振った。
「サンダー!」
 青白い雷光がバチンと爆ぜ、煙の塊は嫌がるように震えて、少し小さくなった。そして、こちらへぬるりと動いてきた。
「お、怒ったか?」
「旦那様……!」
 僕は促されるまま、二人の後ろに隠れた。
「生命のある害獣には見えないし、物理攻撃は無効。魔法には反応する。じゃあ、これはどうかな」
 僕は自分を中心とした迷宮領域を広げ、スハイルとソル、そしてこちらに向かってくる煙の塊も入れた。
 そしてこれが、最も劇的な反応を見ることになった。
「―――――!!」
 声ではない悲鳴。まるで脳が直接閃光を浴びたかのような衝撃に、僕は危うく踏みとどまったものの、ソルとスハイルはよろめいて、苦しそうに膝をついてしまった。
 僕たちの目の前では、小さくなったはずの煙が膨れ、その中にはかすかに、目や口、腕のような影が見えた気がした。これ以上暴れられるのは、明らかに危険だ。
「っ、なろ……ッ!」
 悶え苦しむようにうねり上がる煙の塊にむかって、僕はもう一度、さっきよりも力を込めてラケットを振った。
「サンダーボルト!!」
 ピシッという空気が割れる光と同時に煙は吹き飛び、続いた轟音の後には、焦げた地面だけが残った。
「っはぁー。びっくりした」
 思わず座り込んでしまったけれど、僕よりもソルとスハイルの方が、なんだか深刻なダメージを受けているようだ。僕をかばうように、少し前にいたからだろうか?
「二人とも、大丈夫?」
「うっ……おぇっ……げほっ」
「ハッ、ハッ……ぁ……ぐっ……」
 地面に膝をついた二人ともが、血の気が失せた顔色で呼吸もおぼつかない感じになっていたので、僕は慌てて箱庭に帰ることにした。


 イトウに事情を説明したところ、原因はすぐに判明し、二人はハセガワの「修行が足りません」という一言と共に、まだ冒険者がいない『背徳街カペラ』の魔力温泉に放り込まれた。
「こりゃ参ったね……」
 旧ニーザルディア領の道行が、予想もしなかったことで行き詰ってしまったことに、僕は頭を抱えた。
 迷宮領域に入れたことで発狂した正体不明のあの煙の塊を、僕は暫定的にミストと名付けた。一瞬でも迷宮に入ったので取れたデータを分析したイトウによると、あれは「濃い“障り”と残留思念が混ざって凝り固まったもの」らしい。
 なんじゃそりゃと、僕もはじめはこめかみを揉んだけれど、そもそも“障り”とは人々の負の感情、怨念に近いものだと、シロに説明されていたことを思い出した。“障り”は不可思議工程で加工すれば迷宮の固形材料にもなるので、つまり、あれは実体を得た怨霊未満、見える瘴気のようなものなのだ。もうなんでもありだな。
「真昼間に見るジャパニーズホラーだ。夏といえば怪談だけど……あれは幽霊とか怪異って雰囲気じゃなかったな」
 情緒の欠片もないので、むしろRPGのザコ敵みたいに見えた。
「魂は星を巡る流れに還るから、あれに個人の魂はないよ。残留思念と“障り”の混合物。ボスの迷宮範囲に“障り”が吸い取られそうになったんで、残留思念をブッパして攻撃。ソルとスハイルは、それにやられたんだ」
 イトウの説明に、僕は曖昧に頷いた。
 目に見えない攻撃を受けたソルとスハイルは、その後、目眩や吐き気、全身の痺れといった症状と共に、かなりの鬱状態になってしまっていた。過去のフラッシュバックや悪夢にも悩まされているらしい。
「残留思念って言っても、僕は、特に何も感じなかったけど。二人が壁になってくれたのかな?」
「そりゃあ、ボスの中身が稀人だからじゃね? たぶん、精神的な受信機の規格がちげーのよ。あの攻撃を防ぐのに、距離はともかく、物理的な壁は意味ないんじゃないかな」
「あー、なるほど?」
 そういえば、稀人はこの世界の人間と比べて、害獣からの“障毒”にかかりにくいと聞いたことがある。そもそも“障毒”とはなんぞやという、明確な定義はいまだにないのだけれど、“障毒”への耐性が、イトウの言う「精神的な受信機の規格違い」によるものならば、説明の一片になりそうだ。
「ボスの雷が効いたように、魔法攻撃や魔力が乗った属性武器なら通用する。問題は、あれが旧ニーザルディア領に、たんと蔓延っている可能性が高い、ってことかな」
「せっかく人間がいないのに、対策しなきゃいけないのが害獣だけじゃないなんて、ひどすぎる」
 がっくりとうなだれた僕の頭を、イトウはよしよしと撫でてくれた。

 とにもかくにも、僕らが進む道程分は“障り”を取り除き、ミストや害獣に襲われる危険を下げなければならない。人間なら防御や反撃も出来るけれど、大山羊車を引っ張ってくれるエースが襲われて怪我をしたら、僕は後悔しきれないだろう。
「本来なら、ミストもこの世界の人間に全部討伐させたいんだけどな」
 僕はぶつくさ言いながらも、対策を講じることにした。
 大森林の出入り口付近に、高難度ダンジョン『老エルフの悪夢』を。
 カルモンディ渓谷の出口からしばらく行ったところにある、かつてはニーザルディア第二の都市と言われたヨーレス城塞都市跡地に、高難度ダンジョン『ヴェサリウス機工邸』を。
 それぞれ実装し、早急に地上の“障り”を薄め、害獣とミストの活動を抑制することにした。これで効果が出れば、旧ニーザルディア領の半分くらいは、大山羊車で進めるようになるだろう。
(効果が出なかったら、このまま僕単独で迷宮範囲を点在させながら進むことになっちゃうよ。とほほ)
 その方が早いには違いないけれど、僕の従者たちの成長には全く寄与しないし、旧ニーザルディア領の様子をじっくり観察する余裕もない。それはできれば、避けたいことなのだ。