091 どんぐりが転がるように ―七種育実


 耳に当てたスマホから聞こえてくる、ヒステリー寸前まで切羽詰まった同僚の声に、育実イクミはかろうじてかすれた返事をするしかできなかった。
「うん……うん、わかった。ありがとう、教えてくれて」
『社長がケツ持ちしてくれるから、部屋もそのままでいいって。このままどこにも電話しないで、そのまま行きな。アタシも通話記録を消して、アンタの番号も消去する。いいね?』
「いいよ、もちろん。部屋の鍵はポストに入れておく。社長たちにも、お世話になりましたって伝えて。……セイナ、元気でね。いままで、本当にありがとう」
『ナナミこそ、元気でね。アタシ達、ずっ友だかんね。大好きよ』
 チュッというリップ音を最後に、相手からの通話が切れた。
 そこからの育実は、素早かった。
 まず、持っていた仕事用のスマホからSIMカードを取り出し、密閉できる袋に入れてから、包丁の柄で粉々に叩き潰した。これはどこかで、バラバラに捨てる。
 そして、山登りにでも行くかのような服装に着替えると、ブリーチした髪をまとめて日除け布をつけた鍔広帽子に詰め込み、これも登山装備を思わせる大きなリュックを背負い、身分証を含めた貴重品をウエストポーチにねじ込むと、数年を過ごした安アパートを後にした。
 仕事用のドレスや靴も、派手なだけで安いアクセサリーも、まだ開けていない化粧品も、必要なら新しい土地で買い直せばいいのだ。
(でも、調理道具は持っていきたかったな。使いやすかったのに)
 お気に入りの包丁は最後の仕事として、育実がナナミとして過ごしたこの町での足跡を断ち切ってくれた。
 職場に近いターミナル駅は避けて、逆方向の地下鉄に乗り、別の地方都市へ高飛びするために、私用のスマホで新幹線の状況を調べる。
(西か、東か……北か、南か……)
 いっそ海外に行ってしまおうかと、疲れた神経が現実的でない妄想を始める。
(あ、ネイル……チップ取らなきゃ)
 スマホを握った指先が、登山ルックには似合わない派手さになっているのに気付いて、なるべくまわりから見えないように、上着のポケットに突っ込んだ。
 そして、目も瞑る。
 いつまでこんな生活が続くのか。
 一生逃げ続けなければいけないのだろうか。
 ただ、静かに暮らしたいだけなのに……。

「……え?」
 一瞬だけ、ふわっと体が浮く感覚の後に尻餅をついて目を開けると、そこは地下鉄の車内ではなかった。
(寝過ごした? ちがう。ここ、どこ!?)
 ぺたりと座り込んでいた床は石畳で、ついた手の下で青白いなにかの線が消えていくところだった。
 辺りには、同じように呆然とした人たちがいたが、その中の一人に、とんでもない危険人物が混じっていて、育実は慌てて俯き、リュックの影に入るように体ごとそむけた。
「うそでしょ……」
 思わずこぼれ出た呟きさえ、聞かれてはまずい。育実は自分の口元を手で覆い、自分の運のなさを嘆いた。
(なんであいつがいるのよーっ!?)
 こざっぱりとしたジャケット姿で、スマホ片手に困惑した顔をしている青年は、育実が逃亡生活をする羽目になった、現在進行形での原因そのものだ。絶対に、ここに育実がいるなどとバレたくない。
 そのうち、男の怒鳴り声に始まって、周囲が騒がしくなるが、育実は自分には関係がないことだと無視をした。
 とにかく、隠れなくては、逃げなくては、と焦るばかりで、自分が今どこにいるのかも把握しきれない。尻で床をこするように這うしかできず、腰が抜けたのかと思ったが、単に背中に重いリュックを背負ったままだと気が付いた。
「稀人様。稀人様!」
「は、はぃ? いや……へ?」
 一度リュックを降ろそうとモタモタしていたら、洋画で見た修道士のような格好をした人と、西洋の古いお城に置いてありそうな甲冑を着た人が、目の前にいた。
「ひっ!? だ、誰……こ、来ないで!」
「落ち着いてください」
「い、いや……っ!」
 触ってほしくなくて振った腕が、甲冑の手に捕まれて、無理やり変な機械に触らされた。
「嫌ッ!!」
 腕を振りほどこうとしても、すごい力で掴まれているせいで痛いばかりだ。
「……はい、終わりました」
 なにやら紙に記録していた一人が言うと、ようやく育実は腕を解放され、機械を持った修道士と甲冑は離れて行った。
「な、なんなの……いったぁ……」
「では、ナナクサさま、こちらへどうぞ」
 表面上は恭しい態度のくせに、こちらを労わりもしない言動に、いい加減にしろと文句を言いたかったが、ここで大声を上げたら、見つかりたくない人間に見つかってしまう。
(落ち着いて。いまは堪えるのよ、私)
 あらためてリュックを背負い直し、記録用紙らしきものを持った人についていくと、紫色の服を着た人の指示で一室に案内された。さいわいなことに、奴は別の部屋に連れていかれるようだった。
 そこには、すでにおじいさんが一人いて、落ち着かない様子でこちらを見た。
「あ……あだっ」
「あぁん、もう! なんなのよ!」
 育実がなにか言う前に、背後の扉がもう一度開いて、青年が押し込まれて来た。
「あらやだ、ごめんなさい!」
「いえ、すみません」
 リュックにぶつかられてよろめいた育実を支えてくれた腕は、しっかりと筋肉が付いていた。
 とりあえず落ち着こうと、荷物を降ろしてソファに腰かける。
「まったく、なんなのよ、あいつら! こっちの質問には何にも答えないで。失礼しちゃう。あ、アタシ、水渓大ミズタニマサルっていいます。よろしく」
 ぷりぷりと怒っていた青年は、ころりと笑顔になった。見た目は筋肉質な爽やか好青年だが、どうやらオネエさんのようだ。
「私は、枡出和久マスデカズヒサと申します。教師をしておりました」
 そう言ったおじいさんからは、ちょっとどころではなくアルコールの匂いがしている。彼が持っていたコンビニ袋の中身も、酒とつまみの類のようだ。
「私は……」
 そこで、本名を名乗っていいものか、偽名にしておくべきかと一瞬悩んだが、記録用紙を持っていた修道士には、名乗っていないのに名前を呼ばれたことを思い出した。あの機械に触れた時に、知られてしまったに違いない。
七種育実ナナクサイクミです。えっと、ちょっと名前を知られたくないというか、逃げている最中というか……」
 なんと説明すればいいのかと、歯切れ悪く自己紹介すると、大が育実の顔を覗き込んできた。
「あら、ほんと。高飛びの最中に、巻き込まれた感じ?」
「そうなんです。めちゃくちゃ急いでいて……」
 恥ずかしくて、帽子のつばを引っ張る。じつは化粧も途中で、付けまつ毛もしていない。かろうじて、眉毛は描いてあるが、アイラインを引く前に飛び出してきてしまったのだ。
霞賀剛志カスミガツヨシから逃げていたのに、よりによって、あいつまでいて……」
「えっ、やっぱり、あいつ霞賀社長だったの!? なんか見覚えのある顔だと思ったのよね」
「聞いたことのある名前ですね。TVに出ている人ですか」
 一般メディアにも露出するため、霞賀剛志の顔と名前は、業界以外にも知られている。
「どうしよう。何とかして逃げたいけど、ここが何処かもわからないし……」
「ああ、なんかスウェットの女の子が、異世界転移だーって喜んでいたわね。ホントかしら。そんなアニメみたいなこと」
「責任者が説明してくれるような雰囲気でもありませんし、まずは、情報収集と、協力者を得ない事には……」
 大と和久が顔をしかめるが、ドアの外に見張りがいることは、育実も見ていた。
 どうにも見通しが暗くなりそうなとき、三人の名前がドアとは別方向から呼ばれて、そろって顔を上げた。
「ニンニン!」
 そこには、小学生くらいの金髪の男の子が、青い忍者装束で立っていた。なんで忍者なのかは置いておいて、ここから逃がしてくれるという誘いに乗らないわけにはいかない。
「助かったわ! いつ剛志がこっちに気付くかと、気が気じゃなかったのよ!」
 育実はリュックを背負い、忍者少年が作ってくれた光る扉に、駆け込んでいった。
「へ?」
 ところが、数歩進んだところで、育実はぽかんと立ち止まることになる。
「「「ようこそ、いらっしゃいませ」」」
 きちんと着物を着た仲居たちが、揃って出迎えるそこは……どこからどう見ても、高級温泉旅館のエントランスだった。