041 深淵に燃ゆる赫怒 ―ポルトルル
ダートリア代官邸のエントランスでショーディーを見送ってから、臨時の客室に戻ってきたポルトルルは、ベッドに横になったロロナに噴き出された。
「ふっ。お前でも、そんな顔をすることがあるのね」 「ロロナ様……」 「おかけなさい。ひどい顔色よ。……それで?」 室内にメーリガを残して人払いをさせたロロナの枕元に、ポルトルルは椅子を持ってきて腰かけた。 しかし、己が感じたことを言葉にできず、しばし逡巡したのち、ひとつ唇を舐めた。 「あぁ……一言で言えば、触れてはいけないものです」 「そう」 あっさりとしたロロナの相槌だったが、それは決して、ポルトルルの意見を軽んじているような声音ではなかった。 「わたくしの身柄を任せるに足る、良い取引相手というわけね」 「僭越ながら……いままでに遭遇した害獣のどれよりも、いままでに相対したあらゆる困難よりも、私はあの子供が恐ろしい、と感じました」 子供らしい笑顔の中に納まった、路傍の石よりも価値がないものを見るかのような目を思い出して、ポルトルルは心底震え上がった。しかし、そんな自分を恥じるようには思わない。 「“悲哀のポルトルル”に、そこまで言わせるなんて。やるわね、あの子」 「お戯れを。公方家も王家すらも怖くない、簡単に滅ぼせる、という彼の言葉は、おそらく真実でしょう。方法はわかりませんが、あの態度は無策とは思えません」 「ほほっ。悪童め、頼もしいわ」 ロロナは楽しそうだが、ポルトルルは深く息を吐いた。 正直言って、ポルトルルが今までに会ったことのある、どんな強者であろうと、どんなにやんごとない身分の誰であろうと、あの少年にかかれば、簡単に踏みつぶされる姿しか思い描けない。 「ご兄弟には上手く隠せているようですが、あの子の一面は、たしかに憤怒の塊です。その辺の害獣などとは、比べものになりません」 「この世のすべてを憎む邪神の呪いと同等と、お前は言うのか」 「……」 それ以上です、という言葉を視線に乗せて沈黙すれば、ロロナも骨ばった肩をすくめてみせた。 ポルトルルはスキルを持っていないが、奇妙な能力があった。 「眩しいほどに祝福された、深淵に燃ゆる赫怒。紅く這いずり、金色に粘つき、黒く輝く。それでいて、その芯は露に濡れた若葉のような可能性が溢れておりました」 それはおそらく、稀人の言葉に当てはめれば、共感覚というものにちかいかもしれない。 「“障り”を見るお前から、そこまで強い称賛を得た者はいないでしょう」 感心したようなロロナの声に、ポルトルルは頭を垂れた。 “悲哀のポルトルル”は、“障り”の濃度や、“障り”に侵された害獣が放つ苦痛を そんなポルトルルが、人間から特別に感じ取れるのは、表面的な感情ではなく、その生命がもつ根源的な有様だ。ある人からは金貨が溢れ落ちる音が、ある人からは止まない雷雨が、またある人からは、せせらぎに渡された丸太橋のイメージを感じた。 そして足元に侍女を転がしたショーディーから感じたのは、 まるで正反対の心象は、ショーディーの二面性を端的に表しているように見えるが、ポルトルルはそれを否定する。かの心象は、どちらも 「不思議なほどに、この辺りには“障り”がありません。まったくと言っていいほどです。こんなに綺麗さっぱりとした街並みを見たのも、青々とした高い空を見たのも、初めてです。ですが、この辺りにあった“障り”すべてを集めたとしても、ショーディーさまお一人がもつ濃度に敵いますまい」 ショーディーが聞いたら不本意な評価だとむくれそうだが、これはポルトルルにとっては褒めている内に入る。絶賛と言っていい。 なぜならば、この世界の人間のほとんどは、“障り”よりも 初めてショーディーを見た時、ポルトルルは躊躇いなく床に膝をついた。 それは膨大な利益やロロナという貴人を運び入れるという仕事と天秤にかけた結論ではあるものの、「自分が絶対に敵わない生命体」を前にした恐怖が、たしかに混じっていた。 「……邪神の生まれ変わりだ、などと言われたら、信じそうです」 ぽろりとこぼれた呟きに、さすがにロロナから呆れのため息が出た。 「教会に連れていかれるわよ」 「これは失礼を。聞かなかったことにしてください」 わざとらしくグルメニア教の聖句を唱えたポルトルルではあったが、ポルトルルは“障り”を見ることができると知ったネィジェーヌに、少し時間を取ってくれと言われていたことを思い出した。 今回のヨーガレイド家の侍女による不祥事についても、謝罪と共に今後の打ち合わせも必要だろう。 「それにしても、話に聞いていた以上ですな、ブルネルティ家の子息たちは」 「謙遜というよりも、不当評価と言わざるを得ないわね。親の目など、あてにならないこと」 ヨーガレイド家の領地にある離宮からダートリアに来る間には、当然あちこちに宿泊していた。冒険者ギルドが押さえた宿屋であったり、地方領主の館だったりして、もちろんブルネルティ家の城館にも宿泊した。 そこではショーディーたちの両親から歓待を受けたが、子供たちの現状については、詳しく話を聞くことはなかった。夫妻が話す子供たちの姿は、城館で過ごしていた時に見せたものであり、現状とはかけ離れた、低すぎる評価だった。 「特に、わたくしの来訪は末子の功績だと信じられていないようだったわ。見た? あの呆けた顔」 「ショーディーさまは、いまだ六歳でいらっしゃいますゆえ……まあ、普通の子供ならば、信じられないでしょうけれども」 「だけど、あの夫婦はショーディーを見ていたのよ? それも、生意気で小賢しいとまでわかっていたのに、その実力には目を瞑っていたとしか思えないわ」 ロロナの辛辣な評価に、ポルトルルも苦笑するしかない。 ブルネルティ夫妻は、ショーディーの異常さを肯定的に注視しないで、単に扱いにくい子供としか評していなかった。上二人が標準以上には賢く、また精神的に安定していたことも、ショーディーの外れ具合が早熟としか見られなかった一因かもしれない。 その時、客間の扉が小さくノックされた。 ポルトルルが対応に出ると、ロロナの夕食が整ったとのことだった。 「夕食を食べたら、すぐに休むわ。楽しみすぎで熱を出して、当日に移動できません、なんてなったら困るもの」 ご機嫌なロロナを代官邸に勤める元冒険者の女性使用人たちに任せ、ポルトルルはいくつかの仕事を片付けるために、その日はダートリアに新しくできた冒険者ギルドへと戻った。 後日、ネィジェーヌ・ブルネルティからほのめかされた、“障り”についての真実を、ポルトルルはしばらく自分の内に抱え、骨をしゃぶるように転がし続けることになった。 (言われてみれば、腑に落ちることではあるものの……) 長いこと、“障り”は邪神の呪いである、という そこに、自分の奇妙な能力を結び付けて疑問に思うことなど、一度もなかった。 だが、“障り”が人間のおぞましい感情が凝り固まったものだとしたら、“障り”に侵された生物が放つ苦痛の悲鳴を感じ取り、個人の本質的な有様を感じ取るポルトルルが、それを見られることに説得力が出てくる。 (“障り”は邪神の呪い ショーディーが姉に知らせることに、苦渋の決断をもってしたことも、理解できる。誰かが知らなければならないが、真実に耐えて活かすことができる者は限られる。 そして、万が一の時は、信念をもって、己の命を投げ出す覚悟がある人間が望ましい。 (私のような、老い先短い者が背負うべきであり、ブルネルティ令嬢のような未来ある若者を、危険にさらしたくはない) “障り”に関する真実は、グルメニア教やライシーカ教皇国にとって、あってはならない話だ。始祖である聖ライシーカの尊厳にかかわるし、異世界人召喚がこの世界にとって間違っているなど、自分たちの存在意義を否定しているようなものだ。 そんな真実を知っている人間だと知られたら、不信心者どころか、人心を惑わす異端だとか邪教だとか理由をつけられて、命を狙われることだろう。 周知は必要。だが、時間を掛けて、少しずつ、慎重にせねば、教皇国に潰されてしまう。 ポルトルルはそんな悩みを抱えながらも、華やかな『魔法都市アクルックス』を視察して、その進んだ文化に圧倒された。 そして、迷宮が冒険者に求めることも、理解した。 「迷宮から魔力を帯びたものを持ち出し、薄くなった魔力を拡散させること。同時に、迷宮で作られた強力な武器や丈夫な防具で、害獣を駆除すること」 「そういうこと」 ニコニコと子供らしい笑顔を向けるショーディーは、ポルトルルや冒険者ギルドに、“障り”の真実について拡散させる気はないようだった。 「いまは禁書になっているものも、いずれは『叡智の欠片』として出てくるみたいだからね。がんばって!」 「私が生きている内に、見られるといいのですがなぁ」 ぼやいてみるが、ショーディーは微笑んだまま。これは「無理」ということだろう。 そして、ショーディーは迷宮主からの依頼だと、ポルトルルに伝えてきた。 「行方不明になっている、封印された邪神のコアを探してほしい」 冒険者ギルドにおいて、これから永く未達となる最重要機密依頼は、こうしてオーダーされたのだった。 |