029 牡蠣の養殖が必要?
兄上にアポを取る用事が済んだので、僕はアトリエに戻ることにして、シンと別れた。僕が扉に消えるまで護衛してくれるのは、ありがたいような、目立つから止めてほしいような。
(わざわざ人目に付かない場所を選んでいるのに、イケメンに吸い寄せられる視線が疎ましい……! べつに、うらやましいわけじゃないんだからね!) そんなことを考えながら、オフィスエリアに到着すると、すぐそばにハセガワが待っていた。 「うわっ」 「おかえりなさいませ、旦那様」 「ただいま。はー、びっくりした。なんでぼくが来るのわかったの?」 「旦那様が、そのように私をお創りになりましたので」 ええー。そうだったかな? 僕、知らないうちにGPSロガーみたいなの持たされてないよね? 誘拐対策のためとか言って……。 「まあ、いいや。明日、兄上と姉上と、夕食を取りたいんだ。お店の予約と、招待状をそれぞれに出しておいて」 「かしこまりました」 手配をしに行くハセガワと別れて回廊を歩いていたら、眼鏡越しに難しい顔をしたイトウに呼び止められた。 彼女は転生前の僕の同級生の姿をしていて、この表情は本当に厄介事を見つけた時の顔だ。 「やっと解析はできたんだけどねぇ……」 彼女が差し出してきたのは、この世界の組成表だった。アンノウン状態の要素が異様に多い。 「この世界で定義されていないものが多すぎるのよ。たぶん、【鑑定】なんてスキルがあっても、たいして役に立たないんじゃないかな」 この世界で「発見」され、「定義」され、「命名」されていないものが多すぎる。草木の名前、岩石の名前、動物や虫の名前、現象の名前……当然、それらの分類や系統も整理されていないし、成分なんてもっとわかるはずがない。 「なるほどねー。……え、地磁気が詳細不明? でも強いの?」 「地球のような、一本のばかつよ棒磁石が突き刺さっているような感じじゃなさそうなんだわ」 21世紀になっても、地磁気についてはわからないことが多いらしい。地球くらいのサイズで、同じくらいの地磁気を持っている惑星は見つかっていないとか。強い磁力を持っていたとしても、太陽なんかは棒磁石じゃなくて、表面にコイルが敷き詰められているような形らしいとか。 「じゃあ、方位磁石とか、使えない?」 「信用はできないねー。人体に影響があるかどうかは、まだわからない。それに、現在の東西南北だって、日が昇る方を東、沈む方を西、東を左手にした場合、正面を南、背後を北、っていう、北半球にいた日本人らしい定義のしかたでしかない。北極星に相当する目印がないから、夜になると方角がわからなくなるよ。南の空には、季節によっては特徴的な星が見えるらしいけど」 「むー」 迷宮やダンジョンを出すために旅をしていて、迷子になるのは困るなぁ。 「で、問題はこっち」 続けて二枚手渡されたうちの一枚は、地球の組成表。なんか見たことのある元素記号とかも並んでいる。稀人の生活環境を整えるのに必要だったから、本当に助かる。 残りの一枚は、地球とこの世界を比べた表。 「ん? なんか、極端だね?」 ある元素は少なく、ある元素は多すぎる。化学あんまり得意じゃないから、もう記号も忘れちゃったなぁ。 「ボスがいた世界では一般的だったはずの、一部の合金のコストが異様に高かったんで、変だとは思っていたのよ」 「ぜっとえぬ……ってなんだっけ?」 「亜鉛」 亜鉛を使った合金ってなんだっけ? ……あっ、真鍮か! え、困る。加工しやすいから、インテリア装飾にはよく使われるんだよ。五円玉の原料としても有名だし、音楽やる人には金管楽器だし、ミリタリー系の人にとっては薬莢の材料だろう。お仏壇のキンキラも、たいてい真鍮だったはず。 真鍮は銅と亜鉛の合金だけど、機械工業系には亜鉛とアルミの合金も馴染み深かったはずだ。機械の部品を精密に作りやすい素材だった気がする。 「んえ? この世界では、亜鉛がレアメタルなの?」 「そう。なんでかはわからない」 他にもいくつか地球より少ないものはあったが、亜鉛ほど少ないという事はなかった。 「……ねえ、イトウ。僕の記憶違いでなければ、亜鉛って必須ミネラルじゃなかった? サプリとかあったし」 「イエス、ボス。亜鉛がないと、稀人は生きられない」 うわぁ、と手で顔を覆った僕に、イトウはさらに追い打ちをかけた。 「亜鉛不足になると、味覚障害を起こしたり、外傷を負っても皮膚の再生が難しく……つまり、怪我が治りにくくなって、そこから感染症にかかるリスクが発生したりする。そこにきて、コレだ」 「なにこれ?」 そこには、地球よりもこの世界で多い量の元素が並んでいた。 「こっちがプルトニウム。これがトリチウム。ストロンチウム、セシウム……」 「待って。まって……」 「そこら中に有害放射性物質がいっぱいなんだな、これが。安定している分はいいけど、天然でこんなに不安定になっている元素が多いなんて不思議。毎月原発が壊れてるのかな?」 「死んじゃうでしょ!」 僕が叫んでも、イトウはそうだねと冷静に頷く。 「まあ、この世界の人間は平気らしいよ。ボスは死なないから大丈夫」 「稀人が死んじゃう! なんで三年も生きられたの!?」 「そりゃあ、じりじりと? あぶられるように? 骨の髄から?」 「嫌な言い方ァ!」 規制の厳しい日本ではそんなことはほぼないけれど、そうでない国では建材に放射性物質が含まれていました、ってことは意外とあるらしい。他国の原発事故を揶揄うつもりでガイガーカウンターを使ってみたら、自国の道路やビルの壁から有害レベルで反応したなんて話は聞いたことがある。 一口に放射性物質と言っても、ピンからキリまである。亜鉛同様人体に必須のカリウムや、ウランガラスに使われるウラン、ラジウム温泉のラドンなんかは、地球人の健康には問題がない程度の放射線量しか出さない。 「この世界の人間にとっては、これが普通なのか」 「まあ、そうね。根本的に、生命体としての造りが違うんじゃないの? 姿形は同じでも、実際はゴジラかエイリアンみたいな。さっきの亜鉛だって、必要ない体か、まだわかっていない代替ミネラルを使っているのかもね。タンパク質とか全然違いそう」 イトウはさらっとした顔で言うけれど、僕は目眩がしてきそうだった。 (伊藤ちゃん、高校生の時から柔軟性高い精神してたから、いろいろ動じないと思って創ったけど……) それが成功しているようで、よかった、のか? 「重力は、地球の方が若干強い。ただ、こっちは二連の月の引力と、よくわからない地磁気が干渉しているのか、大気層は安定している。組成もほとんど変わらないのは奇跡的だね」 「時間の経過は?」 「稀人時間に合わせた方がいいんじゃない? 次の召喚で地球の正確な自転速度をシロくんに出してもらお」 「そうしよう」 僕がすべての資料を受け取ると、イトウはクイッと眼鏡のブリッジを指先で上げた。 「ねえ、ボス。お願いがあるんだけど、迷宮やダンジョンで処された人間、検体にもらえないかな?」 「いいけど、死体ばっかりだし、それで分かったことが、すぐグリモワールに反映されるとはかぎらないよ?」 「それは問題ないね。いまあるこの世界の知識が、本当に正しいのか確認するためだから」 「ああ、そうか。OKだよ」 「ありがと、ボス!」 本当に嬉しそうなニッコリ笑顔だったけれど、僕の背筋はちょっと寒かった。たぶん、息がある検体も、嬉々として持っていくに違いない。 僕に声をかけた時とはうってかわって、ルンルンと足取り軽く去っていくイトウの後姿を眺めつつ、僕は自分のアトリエに向かった。 ようやく地球環境の詳細データが手に入ったので、稀人の居住地域の作成に本腰を入れることができる。 (えーっと……亜鉛が含まれる食品って、牡蠣? あとは、牛肉? サプリじゃ味気ないしなぁ) 迷宮での稀人用食糧生産に、重要な課題が発見できたのは、迷宮主としては腕の振るいどころになる……かな。 |