021 隔絶した世界−ライノ


 最初にその子供を見た時、ライノの第一印象は「賢そう」だった。そしてすぐに、彼が幼いまま出奔して大きな街を興し、それに自分が関わると【未来視】した。
 話を聞いてみれば、なんとも破天荒。しかし、筋は通っているし、着眼点もいい。妄想と断じきれない説得力があり、机上の空論と切り捨ててしまうには魅力的な考え方をする子供だった。
(あれが五歳だと? 信じられるか)
 間違いなく天才だろう。発想だけではない。見え方、捉え方、考え方、すべてにおいて大人以上。問題解決方法の無駄のなさ、的確さ、そしてなにより、自分だけでは解決できないこと、何事も先立つものが必要なことを知っていて、ライノに協力を仰いだこと。
(ここで潰されてしまうのは惜しい)
 いくら頭脳明晰でも、領主の次男ショーディーは、いまだ五歳。大人の暴力で簡単に消されてしまえる幼さだ。
 護ってやらねば、と思う反面、あれが護られるような性格か、と苦笑いが浮かぶ。そのくらい、不思議な少年だった。
「ずいぶんな入れ込みようだな」
「ええ。絶対に、損はさせませんよ」
 最盛期に比べてずいぶん痩せてしまったが、障毒も支部長としての仕事も、メーリガから闘気を奪うことはできなかった。
 そんな彼女からすると、いまのライノはやや浮かれているように見えるらしい。
(自覚はあるな)
 ショーディーから何度目かの手紙を受け取り、フェジェイ支部に所属する実力者を中心に、三十人ほどの冒険者を集めた。
 「強くなりたい者を集めてラポラルタ湿原に来い」「ライノの言う事を聞く行儀のいい者が好ましいが、死んでも構わないほどの粗暴者なら可とする」。そんな文面に、噴き出したいのを堪えた。明らかに、見せしめが必要になる場所だと言っている。
(それだけ、「甘い実が生っている」ということだ)
 ライノは期待を胸に、指定された日に冒険者たちを引き連れてラポラルタ湿原に向かい、そして期待以上の現実に圧倒された。

「なん、だ、これは……」
 背の高い葦原の中に、少し前まではなかったはずの、長大な城壁が見えた。
 慎重に近づいてみれば、城壁のまわりには立派な濠が張り巡らされ、門には頑丈そうな跳ね橋がかけられている。胸壁でよく見えないが、城壁の上には弓兵が巡回しているようだ。
 衛兵は屈強な体躯を立派な鎧で包んでおり、なぜか動物の尾のような装飾をつけている。
「ショーディー・ブルネルティ殿より報せを受けて参った、冒険者ギルドフェジェイ支部のライノと申す。開門願いたい」
「許可する。全員の冒険者証を確認するので、ゆっくりと進め。門を通過した先は、案内人に従うように」
 全員が首から下げた青銅製のタグを見せて門を通過すると、その先には明るく華やかな大都会が広がっていた。
 背の高い者、低い者。地を歩いている者、空を飛んでいる者。尾が生えている者、角が生えている者。そして、その全員が清潔な服を着て、清潔な街路を行き来している。
 どこかからか、美味しそうないい香りが漂ってきて、笛や弦楽器の音が聞こえてくる。まるで現実味のない、異世界に来たような気分すらあった。
「……」
「す、すげぇ……」
「どうなってんだ、こりゃぁ……」
「冒険者の皆様、お待ちしておりました。ようこそ、『魔法都市アクルックス』へ」
 絶句している一同に話しかけてきたのは、ひらひらとした青い服を纏った色白の女。彼女が案内人のようだ。
「フェジェイ副支部長のライノです。呼ばれて来はしましたが、これはいったいどういう事なのか……我々にもわかるような説明をいただけるのでしょうか」
「はい、もちろんです。まずは、迷宮案内所へ参りましょう」
 にこにこと笑顔を崩さない案内人は、アルカ族のディーネと名乗った。透き通るような肌に、光を受けて輝く淡い水色の髪がなびいている。
 背後から彼女の容姿を値踏みするような下品な声が聞こえてきて、ライノは嗜める羽目になった。たしかにディーネは美人でスタイルも良いが、この状況で言っていいことではない。
「無礼で申し訳ない」
「お気になさらず。現在ここに住まう者は、全員がアルカ族です。どのような見た目をしていても、迷宮より生じ、迷宮へ還る、迷宮に守られ、迷宮を護る、そういう者たちです。貴方がたとは、根本的に違う生き物です」
 はっきりと人間ではないと告げられ、ライノは小さくため息をついた。つまり、何か問題が起こった場合、人間の常識が通用しないということだ。
「そういえば、この場所について、どのくらいご存じですか?」
「なにも。ただ、強くなりたい者を連れて来い、とだけ」
「そうでしたか。では、最初からご説明する必要がありますね」
 ディーネが立ち止まったのは、広々とした大階段の前。その上に構えられていたのは、まるで宮殿のように壮麗な建物だった。
「ここが、迷宮案内所です。どうぞ中へお入りください」
 装飾彫りが施された太い柱は、本数を数えるのも恐ろしい。組まれた石材は、キッチリと同じ大きさになっている。どこもかしこもピカピカに磨き上げられ、足を踏み出すのも勇気が必要だった。
「ここは、冒険者の皆様が、最も頻繁に訪れることになる施設です。広いですが、難しく考えなくて大丈夫ですよ。探索者登録窓口、依頼受付窓口、依頼報告窓口、換金所……ほら、冒険者ギルドとあまり変わらないでしょう?」
 それぞれ絵と文字の看板が一緒に掲げられた場所を、ディーネは手で指し示していく。
「冒険者ギルド、ではないのだな」
「違いますよ。ここは、迷宮に逗留し、ダンジョンを探索する冒険者を手伝う場所です」
「ダンジョン? 迷宮とは違うのですか?」
「はい。ダンジョンは、富と力を持ち出せる危険な場所。迷宮は、ダンジョンを有するこのアクルックスのような場所のことです。貴方がたは、すでに迷宮に入っておられるのです」
 そして、とディーネは続ける。
「この迷宮には、独自のルールがございます。それに従っていただけない場合は、追放、排除されますので、ご注意ください」
 少し休憩にしましょう、とディーネが言うと、迷宮総合案内窓口と書かれた場所の職員を、何人も呼び寄せた。
「この町に入って、とても清潔だと思われたのではありませんか? お手洗いの使い方から、説明しますね」
 いくつかのグループに分かれ、案内されたのは男女別の便所。しかも、やたらと綺麗だ。ライノは初めて水洗トイレを経験し、その清潔さに、ただただ呆然とした。
「これは……まさか教皇国にあるという……」
「ええ。教皇国にあるものが、これとどのくらい違うのかはわかりませんが。あ、使用後は、ちゃんと手を洗ってくださいね」
 当然、あちこちから悲鳴のような感激の声が聞こえてきた。釉薬を塗って焼き上げた、高価な陶器のように滑らかな便座。尻を拭くために、使い古された布ではなく、薄くて柔らかく、良い香りのする紙が用意されていること。レバーひとつで水が汚物を押し流し、当然臭いもしなくなる。そのまま飲めそうなほどきれいな水が出る手洗い場には、石鹸と乾燥機まで用意されていた。
「迷宮では、街路での故意の排泄は犯罪になります。追放の対象になりますので、必ず公衆トイレか、宿、商店などで借りてください」
「了解した。必ず周知させよう」
 案内してくれた職員たちが、この迷宮の地図を配っていく。驚くほど滑らかな植物紙のそれには、きちんと公衆トイレの印がつけられていた。
「では次に、迷宮都市で活動される時に必要な、通貨についてお話します。ここ魔法都市アクルックスで、貴方がたの通貨はご利用になれません」
 ディーネが提示した独自通貨『エン』と、ライノたちが使っているリンベリュート硬貨『ゼルジ』のレートは、目が飛び出る様な差額だった。
「一エンが、千ゼルジだと!?」
 迷宮で流通する最低硬貨一枚が、王国の金貨一枚に相当するなど、あまりに馬鹿馬鹿しい。しかし、ディーネはこともなげに微笑む。
「当たり前ではありませんか。貴方がたの生活している国に、あのトイレがありまして?」
「……たしかに」
 王侯貴族ですら、あのレベルのトイレを見たら狂喜することだろう。
「安心してください。エンは迷宮の外に持ち出すことができないので、一定額のみ両替する以外は、すべてこの迷宮案内所にて預からせていただきます」
「持ち出すことができない?」
「迷宮の外に持ち出しても構いませんが、その瞬間に消滅いたします。せっかく稼いだ、金貨一枚に相当するお金が無くなっても良いのなら、持ちだしてみても良いでしょう。わたくしとしては、ゼルジに両替をしてから持ち出すのをお勧めいたしますが」
 ディーネの言う通りだ。それに、価値が違いすぎる現金が出回っても、王国が困るだろう。
「そのために、皆様には迷宮に逗留するための探索者登録をお願いします」
 迷宮での個人資産を守るためだと言われれば、探索者登録とやらに頷かない者はいないだろう。
「おや、いいところに」
 ディーネが視線を向けた先には、迷宮案内所に入ってくる人影があった。
「あれは……」
 長いほうきを片手に、ナップサックを背負った栗毛の少女は、ショーディー付きの侍女だ。たしか、ハニシェという名前の。
「ただいま戻りました。買取りお願いします」
「おかえりなさい。少々お待ちくださいね」
 買取り窓口と看板が出たところが、ハニシェのナップサックの中身を取り出した。
「合計で、二千八百エンです」
「やった! これで坊ちゃまにケーキを買って差し上げられます!」
 二千八百枚の金貨……、とライノは思考停止になりかけた。
「あ、レベル鑑定もお願いします!」
「どうぞ」
 窓口で差し出された機械にハニシェが触れる。
「わぁ、レベルあがった!」
「おめでとうございます。これなら、第二層に行けますよ」
「ありがとうございます!」
 ついていけない現実に、ライノは深く考えることをやめた。