007 大邪神の憂鬱


 地球にある自分のベッドで、朝いつものように目を覚ましてから、会社の昼休みに異世界に飛ばされて、その後もわずかな休憩だけで動いていた伊織は、いい加減に疲れていたが、宿を取る前にブランツの中心街を歩いて、この世界の文化水準を見るついでに買い物を済ませることにした。
「どうせチェックインできるのは昼過ぎだろうしな」
 こぎれいに整えられた街路を眺め、伊織は軽くため息をついた。
 辺境の小さな町らしく、表通りにぽつぽつと商店が並んでいる。石畳の車道に動物のフンが落ちているのは、がっしりとした体格の動物に荷車を引かせているからだ。
「あれは、デカい山羊か?」
 ふさふさとした長い体毛に覆われ、頭には緩く巻いた角がある動物は、例え体高が伊織の視線の高さと同じでも、馬というよりは山羊だろう。蹄も二つに割れているので、おそらく牛や山羊に近い生物だと思われる。伊織が近づいても怒らないので、だいぶ大人しいか、ぼんやりした性格の動物なのだろう。
「ふむ、おそらくガプを家畜化したものだろうな。吾輩が知っているガプは、もっと大きいし、凶暴だが」
「それ、モンスターじゃないだろうな」
 伊織は少し呆れたが、影丸の言うとおり、カーパーと呼ばれるその大きな山羊は、大型魔獣ガプを家畜化し、長年かけて品種改良していったものらしい。こちらの世界では、馬や牛の代わりに、荷車や箱車を引っ張ることが多いそうだ。
「馬車じゃなくて山羊車か。ふーん、馬は貴重なんだな」
 【集合知】からの情報も交えながら、伊織はこの世界の『当たり前』を飲み込むように、ひとり頷いた。
 馬車も貴重だが、自動車も一家に一台というほど一般的でないらしい。というのも、多く道路事情によるところが大きい。
 この世界では、道路用アスファルトに類するものが、まだ実用化されていない。タイヤとして開発された合成樹脂も重くて固く、農地用トラクターのようなオフロード車には適していても、昔ながらの都市を支える繊細な煉瓦や石畳の上を走らせるには向かなかった。金持ちや高貴な人間が乗る車は、道路を傷めないようタイヤが非常に細く、整備された街道か都市以外では、逆に走らせることが難しいものになっているのだとか。また、地震が少ない土地なのか、昔ながらの石造りの家が取り壊されず、城壁に囲まれた住宅街の道路自体が広くないのも、自動車が普及しない一因のようだ。
 駐車場や維持費の割には、使い勝手が悪い。そのため、都市間を移動するバスや、農地用トラクターなどは庶民も馴染みがあるが、自家用車を持つには至っていない、というのが現状のようだ。庶民の生活の足は、もっぱら乗り合い山羊車が担っている。
(なかなか上手くいかねーもんだな)
 昔から転移者が訪れるという世界ではあったが、地球の知識が、この世界に必ずしもマッチするというわけでもないらしい。
 伊織は次に、布製品を扱う店に入り、大きなリュックと野外用の毛布を買った。あの大きな山羊カーパーの毛で出来ているらしく、布地は厚く、頑丈で温かそうだ。
 仮にも商人という態で歩き回るなら、身軽すぎる見た目なのも問題がある。見かけだけでいいので、実際に重い物を手に入れたなら、貴重品と一緒に魔法鞄に入れてしまえばいい。
 さらに、近くにあった衣料品店にて、当面の衣類を下着や靴下と一緒に何セットか買い込んだ。闘神官に間違われるためコートも買い換えたかったが、今着ているコートの品質が比較して良く、先送りにせざるを得なかった。
「あとは、丈夫な靴と、最低限の水と食料だな。煮沸用具も必要か。面倒くせー」
「野営して煮炊きするつもりか?」
「まさか。飲み水の確保だよ。他所に行ったら生水だけは飲むなって、ばあちゃんが口酸っぱく言っていたからなぁ」
「貴様の故郷の水は、そんなに汚染されているのか?」
「いいや? 世界で見たら、最上級に綺麗なんじゃないか? 特に、日本の水道水ほど安全な水はないって、兄ちゃんが言ってたし」
 海外旅行先では、水道水ですら飲まないのは常識だ。ただ、日本の山野に湧く清水でも、絶対に寄生虫や病原菌がいないとは限らない。
「つまり、貴様たちの腹のヤワさが問題という事か」
「飲んだら病気になる水しかない方が問題じゃねーの?」
 鑑定眼鏡アプレイズグラスを手に入れた今なら、伊織でも飲料水の区別はつくだろう。売り物の飲料でも、まず鑑定してからでないと、伊織は飲むつもりはなかった。
 さいわいなことに、高価だが携帯湯沸かしポットのような道具があると【集合知】にあるので、それらを扱う家電屋のような店にも立ち寄った。
(なるほど。この燿石っていうのが、天然のバッテリーみたいなもんなんだな)
 伊織が持っているステータスボードも、「燿石」という物が動力になっていた。この世界では電力に相当するものを生産しておらず、石炭のように発掘される燿石を加工すると、不思議エネルギーを発して電池のような役割を果たすようだ。
 掘りつくしたらどうするんだ、と他世界ごとながら伊織は心配になったが、いまのところ、需要に対しての埋蔵量は問題ないらしい。
 鶏とひよこっぽいイラスト付きの、ちょっとかわいいポットとカップのセットを買ってリュックにしまうと、伊織はさっさとその店を出た。他の商品もじっくり眺めていたい気持ちもあったが、いまは他にやることが多すぎた。
 靴屋では、厚い靴底と鉄板でも入っていそうな硬さの、タクティカルブーツのように丈夫な短靴を手に入れることができた。商人が履く靴というにはゴツ過ぎるが、辺境の開拓地まで歩く行商人だと言い張れば、誤魔化せなくもないだろう。
「よし、こんなもんか。とりあえずは」
 買い物をしているうちに昼になり、さすがに空腹を訴えて、カフェのような店構えの飲食店に入った。ランチセットはブラウンシチューにヨーグルトパンが付いていて、味も悪くなかった。
(これなら飯に困らねーかな)
 料理が口に合わない世界だったら、かなり惨めな気持ちになっていたに違いない。先に来た異世界人の努力に、心から感謝をする。
「影丸って、何食うの?」
 ちぎったパンにシチューを付けて差し出すと、行儀悪くテーブルに乗った、ふわもっこした黒い小型犬に見える大邪神は、ぱくりと咥えたそれを飲み込んだ。
「うむ、美味いな! ……吾輩は、人間が出す怨念を喰う。だから、このような食事を毎回必要とはしないぞ。貢物なら受け取るが」
「ほう?」
 怨念を喰うと言われて、ジャパニーズホラー的なオカルトを想像して首を傾げた伊織に、影丸はちょこんとお座りをして胸を張った。
「少々長くなるが、吾輩の存在意義に関わる話だ」
 影丸こと、この世界の大邪神は、そもそもは生物が過剰に放つ、負の感情の浄化装置として生み出されたシステムだという。
 恐れ、怒り、妬み、恨み、そういったものを吸収し、無垢なエネルギーに昇華してから世界に還元することで、生物が同族どうしで潰し合わないよう、繁栄と平和維持のために存在していた。
「しかし、恐怖や怒りを全く感じないのは、生物の生存本能を損なう。ほどほど、にコントロールするのが、吾輩の役目だった」
 ところが、その怨念を集めて制御するという行為が、当時の人間にとっては必要以上に邪悪に見えたらしい。人間が社会的に生きていくために、どうしても排出される後ろ向きな感情を、勝手に回収される。それが、気持ち悪く感じられたのかもしれない。……いつか、自分たちが吐き出した醜い感情が、自分たちに向けられるのではないか、そんな風にも恐れたのだろう。
「吾輩という存在が恐れられるのは、大邪神としては当たり前なのだがな」
「自分で人の世を滅ぼすと言うのも、建前か」
「実際、やろうと思えば出来るぞ。ただ、吾輩の本来の役目は、平和維持だ」
 わかりにくい建前のせいで誤解を受けた影丸だが、まがりなりにも世界維持システムの一端を担っている。影丸をどうこうするには、こことは別の世界の理を持つ人間が干渉する必要があった。
「それが、影丸を封印した聖女様ってことか。じゃあ、異世界人が渡るようになったのは、それがきっかけか」
「畏れ多くも境界管理の神髄、神の技術を、どうやってか盗み出したようだな。まあ、この世界には吾輩以外にも、様々な管理に携わる神が存在する。そのうちの誰かが、悪戯に人間に手を貸したのかもしれん」
「なるほど」
 伊織が知っている地球各地の神話にも、人間に味方をした存在が、それまで神だけが持っていた知識や技術を伝えた、という逸話は残っている。人間に火をもたらしたプロメテウスしかり、イヴに知恵の実を食べるよう唆した蛇しかり……。
「吾輩が封印されたことで、いまこの世界には、生物に溶け切らなかった怨念がこびりついておる。この町に入る前、なんか空が黒っぽく見えなかったか?」
「ああ、城壁の上が曇ってた。空気が悪いのかと思ったけど……言われてみれば、車や工場からの排ガスはほとんど感じねーな」
 おかしなことだと伊織が頷けば、影丸も重々しく頷いた。
「吾輩はそれを吸収する。さすがに、いっぺんには難しいからな。各地を回って、少しずつ元の状態に戻していくのが、吾輩の務めだ。その間に、吾輩の大邪神としての力も戻っていくであろう」
 影丸はきちんと前脚を揃えて、頭を垂れる。
「吾輩の封印も、おそらく異世界人でなければ解けなかった。イオリのおかげで、この世界の人間が滅びる前に間に合った。感謝する」
「よせよ。俺はそんなつもりなかったし」
 思わず声が大きくなりかけて、伊織は慌てて口を噤んだ。まわりには影丸の姿や声がわからないので、伊織が大きな独り言を言っているように見えたことだろう。
(やべ。恥ずかしい)
 昼食時の店内からチラチラと向けられる視線に咳ばらいをし、伊織は空になった食器を脇に退けて、影丸を膝の上に抱き上げた。
「影丸の都合はわかった。俺も一緒に行く」
「よいのか?」
「ああ」
 伊織もこの世界では、寄る辺ない身だ。影丸と一緒に放浪することに、なんのためらいもなかった。
「……ひとつだけ、確認させてくれ」
 低い囁きは、伊織の覚悟を表すものだ。
「【集合知】で得た知識だが、合っているかどうかだけ、確かめたい。……この世界にやってきた転移者は、元の世界には戻れない。そうだな?」
 この世界には、異世界人を召喚する方法はあっても、元の世界に返還する方法はない。いままでに転移してきた異世界人は、全員が、この世界に骨をうずめていた。
「……そのとおりだ」
 言いにくそうな影丸の肯定に、伊織は落ち着いて頷き返した。
「そもそも、召喚技術でさえ、人間が扱うことを前提としていない。この技術を人間に教えた誰かが、返還の技術まで教えたとは思えない。第一、戻る方法が本当に存在するのか、吾輩だって知らん」
「……オーケーだ」
「すまんな」
「いや。影丸のせいじゃねーし。それに、俺はもう、人間ですらなくなっているからな。戻れたとしても、いままで通りには生きていけないだろ」
 自分で言っていて、その中二感溢れる事実に、伊織は思わず唇をほころばせた。
(元の世界に未練がないわけじゃないが、兄ちゃんがいれば、親父やお袋は大丈夫だろう)
 主に、読みかけの連載漫画とかの続きが気になるくらいの未練だが。結婚して子供がいるわけでもないし、伊織がいない事を寂しがってくれる人はいるかもしれないが、伊織がいなければ困るという人はいないはずだ。
(俺は、この世界で生きていく。だけど、その姿勢がグラつくのは、あぶねーからな)
 この世界に対して、この世界の社会に対して、この世界の人間に対して、伊織は自分がどう対応するのか、その基本姿勢を定めるとともに、手札を増やすことにした。
(まだ情報が足りねえ。ま、初日からブッパできるもんじゃねーか)
 召喚された数分後にはブッパしたことなど、すっかり忘れさった伊織は、影丸を床に置いて席を立った。
 この後は、適当に保存食や水を買って、次の町への移動手段を確認してから、宿を取って早めに寝るつもりだ。