003 恨み辛みの毒抜けて


 広大なエイヴァーの森の外れにある物見砦は、二十年前のスタンピードの後に建てられたものだ。かつては、もう少し森の奥に大きな砦があったのだが、そちらはスタンピードで壊滅して、現在は放棄されていた。
「うん?」
 その夜、櫓で番をしていた兵士は、月明かりに煌々と照らされた森の道を、なにかが爆走してくるのを見つけた。あの速さは獣だろうか。
「森から何か来るぞォ!!」
 そう叫んで、注意喚起のためにホイッスルを吹く。空気を震わせて高く響く警笛に、砦の中はにわかに騒がしくなり、たちまち松明の灯りが増える。
 森に向いている門の上にも、次々と兵士が集まり、急速に緊張が高まっていった。
 だが、走ってきたものの正体に気付いた物見の兵士は慌てて弓を下ろし、喉を潰しかねないほどの声を張り上げた。
「撃つな、撃つなぁッ!!! 子供だッ!! 子供がいるぞぉッ!!!」
 その間にも、森を走り抜けてきた男が砦の門前に到着し、両肩にしがみつかせていた子供を地面に下ろした。
「そこを動くな! 何者だ!?」
「助けてくれ! 腐れカルトに捕まっていたベリアバロ家の子供なんだ! あんたたち、軍人だろ!?」
 門の上から指揮官が誰何すると、子供を担いでいた男がそう答える。なるほど、二人の子供は布がたっぷりと使われたドレスを着ている。
「たしか、ベリアバロ子爵家から双子の捜索願が出ていたな……開門! 開門!」
 完全武装した兵士たちが砦の扉を開けて取り囲むと、男は五歳程度の少女たちに服を掴まれており、彼女たちの前にしゃがみこんでいた。
「さ、もう大丈夫だ。家まで送ってもらえ」
「「……」」
「俺はまだ、やることがある。オメェらはおうちに帰って、飯食って風呂入って寝ろ」
「「……」」
「とーちゃんや、家の人達が、オメェらが帰ってくんの、待ってんだろ? 早く帰って、安心させてやれ」
「「……」」
 そこでやっと、顔を見合わせた少女たちが、男の服から手を離した。
「んじゃ、あとヨロシク」
 すっくと立ちあがった男は若く、なかなかの高身長だった。だが、なにより砦の警備兵たちを身構えさせたのは、カタギとは思えない目つきの鋭さだ。
「あ、そうだ。逃げ出したゴキブリどもが、しばらくうろつくかもしんねーわ。捕まえたけりゃ、勝手にやってくれ」
「え、な……」
「じゃあな」
 それだけ言って男は身をひるがえし、少女たちにだけ片手を上げてみせると、来た時よりももっと速く走って、森の方へ去っていってしまった。
「「……また、ね」」
 幼い声でありながら感情の感じられないユニゾンは、無表情で手を繋ぎ、それぞれ空いた方の手を振る、物々しい雰囲気の野外には不似合いな、人形のように可憐な少女たちからのものだった。

 生贄にされかけていた少女たちを、まともな人間達のところまで送り届けた伊織は、自分が召喚された教団の跡地に戻っていた。ここは先のスタンピードから放棄され、そのまま廃墟となっていた砦だ。
(なんで、そんなことが分かるんだろうな?)
 知らないことを知っている自分を、伊織は心底不思議に思った。砦の内部構造や教祖の名前といった、あの黒魔術教団のことだけではない。この世界のこと……たとえば、あの双子の少女が特殊な事情を持った貴族家の子供であることや、この場所が何という国の領土にあるのか、通貨の単位と一般的な商業や流通の仕組み、果ては、異世界人が度々召喚されていたせいで、魔法や魔道具といったものがあるファンタジーな世界でありながら、けっこう発達した文明社会であることまで。
(まあ、なぜか言葉も通じるし、水洗便所がある世界みたいだしで、とりあえず良かったな)
 室内で放尿した前科は置いていて、あの魔法陣を壊して脱出してから、次々と脳みそがアップデートされているようなのだ。それが、この世界に召還された時に、感覚的にもみくちゃにされた成果なのだろうか。
 考えてもわからない事を頭の隅に追いやると、伊織は忍び込んだ厨房から持ち運びできそうな食べ物を探した。本格的な野営をするつもりはないし、そもそも伊織は料理らしいことができない。調理器具や生モノなどの食材を持っていく選択はなかった。
(おっ、これでいいか?)
 ドライフルーツらしいものが入ったキャニスターを見つけた伊織は、濃い赤色の中身をひとつ口に放り込んだ。
(イチジクみたいな味だな。うめえ)
 伊織はもぐもぐと口を動かしながらキャニスターの蓋を閉め、ひと瓶だけ掴んで厨房を後にした。
(んっと、この辺から聞こえるんだよなぁ……)
 教団の信者はまだ何人も砦内に残っているようだったが、伊織は闇に紛れて砦の地下に降りた。そこはいくつもある倉庫の内のひとつで、宝物庫と言っても差し支えないかもしれない。儀式に使う備品や高価なものが、厳重に保管されているはずなのだが……。
(誰かいるのか?)
 宝物庫の鍵は開いており、中に誰かいるのか、わずかに明かりが漏れ、がたごとと音がする。こっそりのぞいてみれば、やはり信者のローブを着た人間が、手に持ったバッグにそこら中の物を詰め込んでいる。
(火事場泥棒か、どこかの手の者か……)
 しかし、伊織には関係のない事だった。

―― タスケテ……ダシテ……ダレカ……ダシテ……

 その姿なき声は、たしかにその倉庫の何処からか聞こえている。
「……」
 伊織は目を細め、静かに扉の隙間から滑り込むと、そこにあった細長い燭台を片手で掴み、こちらに気付いていないローブ姿に振り下ろした。
「ぼっ……」
「っふぅ。わりぃ、変な音がしたな」
 思ったより力が入ってしまったようで、伊織の足元に転がった信者の首から上は、モザイク処理をかけた方が良さそうな状態になっていた。床だけでなく、周囲の棚やテーブルに、頭蓋骨の中身が飛び散ってしまっている。
(うーん、俺の頭だけじゃなくて、体もなんか変だなぁ)
 一言で言えば、以前の伊織に比べて攻撃力が高すぎた。十年のブランクがあるはずなのに、体が柔軟で自在に動き、一撃一撃が文字通り必殺級なのだ。さっきは少女たちを助けることで頭がいっぱいだったが、腹パンした教祖は胴体が上下離れ離れになってしまったし、顎を殴ったやつは頭弾けていた。ついでに蹴っ飛ばしたのも、床に落ちた時点で体全体がひしゃげていたかもしれない。
(ま、いっか。日本の警察が令状とって捕まえに来るわけじゃないし)
 そこまで人命に対して冷淡になっていることこそ、おかしいと気付くべきところなのだが、伊織は全く気にせず、辺りを見回した。
「えっと……お、こいつかな?」
 助けを呼ぶ声は、棚の下段にしまい込まれていた、蓋に札らしいものを貼り付けて封印されている以外は、味もそっけもない、かなり古ぼけた壺からだった。伊織はそれを取り出して札を剥がし、ぱかりと蓋を開ける。
「うーん?」
 何は液体も粉末も入っておらず、ひっくり返すと、掌に載るほどの黒い石が、床の上にコロリと転がり落ちてきた。その瞬間、ぶわりと黒い煙が石を包みこんで膨らむ。
「ぼふっ!?」
「出られたぁぁぁぁぁ!!!!」
 伊織の視界は闇に覆われ、もふもふした物体に押し倒されるままに転がって、後頭部を床に強打してしまった。
「ごはっ、ふぉほへっ!」
「うむ、そこな下郎、大義であった。フゥー、娑婆の空気は美味いな」
 やたらと渋い声を出すもふもふを、伊織はむんずと両手でつかんで顔面から引っ張り剥がすと、壁に向かって思いっきり投げつけた。
「あだーっ!?」
「っはぁーっ、はぁっ、恩人を殺す気かボケェッ!」
 痛む後頭部をさすりながら伊織は起き上がり、投げつけられた先にあった棚を破壊しながらはまり込んでしまった、もふもふした見た目の黒い物体を睨みつける。
「貴様こそ、吾輩を誰だと思っている!?」
「知るか、真っ黒ポメラニアン!」
 はまり込んでいる棚から出ようと短い四肢をジタバタさせている姿は、ふわもっことした小型犬のようにしか見えない。
「ふんっ……無礼な。この世の憎悪が吹き溜まり、ありとあらゆる生物が死の間際に放つ恐怖の内から生まれた、この吾輩。七代に渡る死の祟りをもたらす大怨霊、人の世を滅ぼす力を持つ大邪神である」
 自力で棚から抜け出した黒いポメラニアンに見えるそれは、厳かに宣言しながら胸を張る。言われてみれば、全体的にふわもっこしているが、輪郭はうっすらとぼやけており、小型犬に見えるのも伊織のイメージによるところが大きい。他の人間なら、別の形状に見えたかもしれない。
「……実物以上に口がデカいワン公だな」
「呪うぞ、小童。だが貴様は運がいい。吾輩の下僕にしてやるゆえ、伏して喜べ」
「タスケテ、ダシテ、って言っていたのはどいつだ? もう一回壺に入っとくか? あん?」
「っ……壺は、もういい」
 しゅん、とうなだれてしまったので、壺への封印は余程嫌なようだ。
「その大邪神様が、何だってこんな所に封印されていたんだ?」
「よくぞ聞いた。聞くも涙、語るも涙の感動大巨編、アクションスペクタルロマンの金字塔と言っても過言ではない」
「三行で」
「クソ聖女と殴り合って消耗したところを封印された」
「一行ですんだな」
 殴り聖女様の壺おしおきは、大邪神の心も折れるようなものだったらしい。
「だがな、吾輩だって負けてなかったんだぞ! 相打ちだったのだ! 吾輩は負けてなどおらん!」
「へいへい。ところで、大邪神様のお名前は、なんつーんだ?」
「吾輩は……はて?」
 ふわもっこした大邪神は、きゅるんと可愛らしく首を傾げるが、伊織は目を細めた。
「ねーのか」
「なっ、ないわけないっ、はず……。な、名前を呼ばれたことなど、だいぶ昔のことであるからな! ちょっと、ド忘れただけだ!」
「自分の名前忘れんなよ。……じゃあ、影丸カゲマルな」
「なっ……か、か、勝手に決めるでないわ! 不敬であるぞ!」
 伊織は渋い声できゃんきゃんと騒ぐ大邪神とドライフルーツのキャニスターを小脇に抱えると、宝物庫の壁の一部に手を当て、探り当てたスイッチに指をひっかけて横に引き開いた。
「暗いと思ったけど、意外と見えるな」
 隠し扉の向こうは、塔のように上下へ空間が広がっていた。もちろん、窓もなく灯りなど一切ないのだが、二、三度瞬きした伊織には、螺旋階段がはっきりと見て取れた。
「なんでこんな道を知っておるのだ?」
「さあ? 俺もわかんねー」
 伊織は軽快に隠し階段を駆け上り、目的の扉を壁に見つけると、宝物庫の隠し扉を開いたように、少し押して横に開く。
 その部屋は、それまでの武骨で殺風景な城砦跡とは一線を画し、おどろおどろしい呪物なども見当たらなかった。厚い織物や清潔な布がふんだんに使われ、質実ながらセンスのいい家具が揃えられていた。
「ビンゴ」
 教祖のプライベートな部屋にたどり着いた伊織は、はたから見れば邪悪に、唇の端を歪ませた。