002 呼ばれて飛び出たその先で


 影に呑まれた伊織を待っていたのは、けっして心地よくはない息苦しさだった。
(クッソォッ!)
 ものすごい力で体中をくしゃくしゃにされ、こねくり回され、もみくちゃにされるよう。永遠に続くかと思うような苦痛、だが実際は、ほんの一呼吸の間にも満たない時間だったかもしれない。
「っ……っは?」
 足の裏にあらためて重力を感じ、危ういバランスのせいで地面に膝と手をついて目を開けると、そこは見慣れた昼のオフィスではなかったし、伊織が突き飛ばしたはずの小平もいなかった。
 アドレナリンのせいで動悸がしたが、さっきまでの息苦しさはなく、呼吸は普通にできる。ただ、妙に自分の体に慣れない・・・・・・・・・感じがする。その上、なんとなく頭もボンヤリした。
(え? ……どこ?)
 フィクションにおいて、「異世界転移」というジャンルがあることを、伊織は知っている。言ってしまえば、『浦島太郎』や『ピーターパン』、『オズの魔法使い』だって似たようなものだ。ただあれらは、登場人物が元居た世界に戻れた話ではある。それが結果的に、良かったか悪かったかは置いておいて。
 近年の漫画やラノベ界隈では、「勇者(またはそれに準じるもの)として異世界に召喚される」というネタがセオリーらしいが、伊織の場合は、たぶん違っていたのだろう。
「おお……!」
「……成功か」
 ついさっきまで伊織がいた場所には、パソコンのモニターや資料ファイルが乗ったデスクが並んでいて、スーツ姿の何人かは同じフロアに残っていた。いまはわずかな明かりしかない、暗くてだだっ広い空間の中心に、一人ぽつんと膝をついていた。足元には、暗褐色のペンキか何かで複雑な文様が描かれており、それは魔法陣と呼んで差し支えないものだろう。
(マジでどこだ、ここは?)
 素早く辺りを見回すが、天井から豆電球のように小さなものがいくつかと、おそらく壁際と思われるフットランプ以外には、灯りらしい明かりがなくてよく見えない。人の気配はするが、全員が大きな魔法陣を踏まないように壁際にいるせいか、低いざわめきは聞こえるものの、暗闇に溶け込んで容姿どころか人数すらもわからない。
(さみぃ……けど、それよりも、くっせーな! なんだこの臭いは!?)
 ワイシャツ越しに沁みるような寒さの中、ごみ溜めの臭いとは少し違うが、なにか、むっとするような血生臭さと腐臭に混じって、わずかな獣臭さを感じる。……明らかに、健全な生活から発せられるものではない。
(……カルトか)
 見上げた伊織が目にしたのは、そこだけは煌々と照らされた祭壇らしきもの。何を意味しているのか不明なシンボルが描かれた旗かタペストリーが掲げられ、呪物なのか様々な物が並んでいる。
 まさに、黒魔術と言われて思い浮かぶ、ステレオタイプな風景だ。この臭いは、生贄の慣れの果てかもしれない。
(ゲェッ! この魔法陣、もしかしなくても血で描いてあんのか!?)
 途端に足元が不安になった伊織は、跳ねる様に立ち上がって駆けだそうとしたが、びっくりするほど体に力が入らなくてよろめいた拍子に、見えない壁に頭と肩をぶつけてしまった。
「いってぇ……なんだよ、これ!」
 拳を叩きつけてみるが、まるで分厚いアクリル板を叩いているようで、びくともしない。出口はないのかと腕を広げてみたら、半歩移動したところで指先が反対側の壁についた。おおよそ、半径一メートルといったところか。
(上は……わかんねえな)
 力の入らない体が重くてろくな高さが取れなかったが、ジャンプして叩いた場所にも壁があった。真上が開いていたとしても、つるつるの壁に手をついて這い上がれるような特殊部隊員か忍者でもない限り、届かないだろう。
(なんで、こんなに力が入らねえんだ……っ!?)
 頭のだるさは台風が近づいている日に似ているが、実際に握った拳の頼りなさや、座り込みそうになる足腰の重さは、まるで高熱を出して寝込んだ時のようだ。それでも、こんなわけのわからない状況で閉じ込められ、大人しくなどしていられない。
 伊織が透明な筒の中で暴れているのを見て、周囲のざわめきが大きくなった。
「クソッタレが! 見世物じゃねーぞ!!」
 バシン、と見えない壁を叩いても、自分の手が痛いだけだ。どうすればここから出られるのか。
「静まれ」
 唸る伊織を遠巻きにするざわめきが、一瞬で消えていった。
(あれが教祖か?)
 祭壇の前で鷹揚に腕を広げた人影は、逆光のなかで厳かに宣言した。
「我らが主の裁定は下された。此度の召喚が成功したことこそ、その証。我らにもたらされた強大なる力を使役し、いまこそ蒙昧たる世界に、鉄槌を下す時である!!」
 ため息のような低い感嘆でも、数が集まれば圧がこもる。次々とひれ伏す衣擦れの音と重なって、耳障りで仕方がない。
(なぁにが蒙昧たる世界に鉄槌を、だ。いまどき、新左翼ニューリベラルの過激派でも言わねえんじゃねーの?)
 伊織はだるさでボンヤリする頭を働かせ、この病人状態が外部からの影響だと推察した。
(あの教祖は、召喚した俺を、言う事を聞かせられるつもり、らしい……つまり、なんだ? 俺は「強大なる力」なの?)
 小学生の妄想かと馬鹿馬鹿しく思うが、伊織はついさっきまでオフィスで、お局にいびられる後輩のフォローをしていたはずだ。かさばる書類と無茶を言う親会社と上司の事なかれ主義が、平穏な日常での敵らしい敵だった。
 それなのに、いまはでかい魔法陣の上に監禁されているのだから、現実を受け入れて、何より自分が有利に生き残るために、可能な限り手数を用意する必要がある。
(自分の状態と相手のスペックを把握し、勝てる状況を整えてから殴れ、だな)
 喧嘩を売られると相手も見ずにすぐ手が出てしまう伊織に、かつて兄がこんこんと教え込んでくれた内容は、古代中国の兵法書が元だと大人になってから知った。
(ただいま絶不調の俺に、どんな力があるって?)
 自慢にもならないが、現在の伊織は一応、ごく一般的な成人男性であり、武道の嗜みがないどころか、トレーニングらしいことは喧嘩が日常茶飯事だった小中高校生以降やっていない。この会場の雰囲気からすると、世界間の転移によって勇者とか賢者とかそういうものを求められているとは思えないが……。
「あぁ、もしかして……」
 自身の中への問いかけに返ってきた、馬鹿馬鹿しくも不本意な可能性が、足元の魔法陣に視線を向けさせる。
(コイツさえ、どうにかできれば……)
 自由になる方法を考える伊織を置いて、教祖の低い声が朗々と響く。狂信的だが十分に力強く滑らかな男の声で、少なくとも老人ではないようだ。
「我らが得た力は、諸君にも見えておるであろう。危険な物であることは重々承知している。だが心安んじ、我らが主の御力に畏怖せよ。純潔なる二重の血をここへ」
 教祖の指示で体格のいい信者たちが担いできたものを見て、伊織は思わず息を呑んだ。
(嘘だろ……)
 祭壇の前にしつらえられた、おそらくは捧げもの台には、縄で体を縛られた小さな子供が二人、乗せられていた。金色の髪やドレスは埃で汚れてしまっていたが、双子と思われるそっくりな女の子だ。きっと、良い所のお嬢さんを誘拐してきたのだろう。
「なにやってんだ、テメェらぁっ!!」
 伊織は叫んだが、巨大な鉈にも似た大剣が持ち出されるのを見るまでもなく、あの少女たちの命運は風前の灯火とわかる。もう敵を観察している時間などない。
(クソッタレがぁッ!!)
 伊織はスラックスのジッパーを下ろし、その場に放尿した。

ちょろ、じょろろろろ……

 ぴしゃぴしゃと地面に水音が響き、それに気づいたらしい信者たちの一部が、唖然と伊織を見詰めている。
(っふぅ、召喚されたのがトイレに行く前で良かった)
 すっきりと出し切った伊織は、急いで前を整えながら、自分で作った水溜まりを踏みつけ、踏みにじった。
「これでどうだッ!」
 伊織が見た限り、それはウレタンやエポキシなどの樹脂で作られた、コンクリートやアスファルトに使われる塗料ではなさそうだった。たとえ鉱物顔料が使われていたとしても、基材が血液か、もしくはそれらを混ぜるために水溶性樹脂が使われていたならば、水分に溶ける可能性がある。太い線の端をにじませる程度だったとしても、細かな文字や図形がよれたなら……。
「な、なにをしている……!?」
 騒然となるギャラリーを気にせず、ゴシゴシと靴底で床を擦り続けた伊織は、力が抜け出ているようなだるさが少し薄まったと感じると同時に、文字が滲んだ魔法陣に床ごとひびが入り始めたのを確認した。
「っしゃおらぁぁぁッ!!」
 腰を落として抉るように床を蹴り、伊織は見えない壁に肩から突進した。

ドスンッ……

「もういっちょぉッ!!」

バリ、バキンッ……!

 果たして、見えない壁は突き破れ、勢い余った伊織はつんのめるようにして床に手を突いた。
 すでに、賽は投げられている。
「な、なっ……!」
「ひいぃぃっ!?」
「静まれ、鎮まれぇ!!」
「どぉけえぇぇぇッ!!」
 うろたえる悲鳴があちこちで上がる中、クラウチングスタートからの伊織の雄叫びが突き抜けた。
 祭壇に直行した伊織は、そのままの勢いでローブ姿の教祖に腹パンを喰らわせ、タペストリーがかかった壁まで吹き飛ばす。続いて、血で錆が浮かんだ片刃の大剣を持った男二人を相手にする。
「ふっ……!」
 長物を持った相手など、伊織は何度も相手にしたことがある。角材であったり、木刀であったり、竹刀であったり、あるいは金属パイプであったり。
(そんなデカい物に、当たるかよっ!)
 振り下ろされる大剣をするりと躱して懐に滑り込み、がら空きの顎に向かってアッパーを繰り出す。
「ごぱっ……!」
「あと一人!」
 倒れる男には目もくれず、伊織はもう一人の大剣使いに振り向きざま喧嘩キックをお見舞いし、嫌な音を立てて割れ続ける魔法陣に向かって蹴り飛ばした。
「お嬢ちゃんたち、脱出するぞ!」
 破壊された祭壇から転げ落ちていたナイフで縄を切ってやり、幼い少女二人を両肩に抱えあげて、逃げ惑う信者たちの中を、脇目も振らず逃げ出した。
「しっかり掴まってろよ!」
 伊織はこの場所に来たことがないどころか、数分前にこの世界に来たばかりのはずだが、なぜかその頭の中には、この黒魔術的カルト教団が根城にしている場所の詳細があり、もちろん脱出ルートを含めたプランが出来上がっていた。