001 途切れた日常


 目覚ましアラームを止めたスマートフォンを眺め、沖園伊織オキゾノイオリは一瞬だけ覚えた引っ掛かりに、寝ぐせのついた頭をかき回した。
(ああ……)
 その日は、伊織の二十八回目の誕生日だった。
「あぁふ……」
 しかし、大きなあくびをした伊織の記憶はその事実をすぐに忘れ、七月六日(木)六時三十分と示されたスマートフォンを放り出して洗面所に向かうのだった。

 田舎の高校を卒業してから地元を離れたのは、自分のことを誰も知らない都会に出たかったからだ。
 沖園伊織は基本的に物静かで、TPOをわきまえる常識や自制心も持ち合わせていた。ただ残念なことに、祖父に似た鋭い眼光を含む厳めしい顔面の影響から、壊滅的にガラが悪かった。
 子供に怖がられる、泣かれるのは当たり前。他校を含む上級生に絡まれたことは数知れず。何もしなくても、大人からの当たりが強かったせいか、自衛のためにも排他的、攻撃的な姿勢になってしまうのは、無理なからぬことだろう。おかげで、地元では知らぬ者のいない孤高のヤンキーというレッテルが剥がれず、自分を知っている者のいない、新天地を目指さざるをえなかったのだ。
 両親は穏やかな人たちで、伊織が誤解を受けやすいことに、いつも心を痛めていた。兄は伊織よりずっと優秀だが、生真面目な性格が祟るのか、それとも伊織からのとばっちりなのか、やはり何かと絡まれることが多かった。
(まあ、兄ちゃんは、俺よりつえぇんだけど)
 兄の大樹は高校生の時点で剣道と柔道合わせて五段の益荒男で、幹部自衛官となった現在は、もっと強くなっていることだろう。喧嘩殺法しかない伊織など、足元にも及ばない。
(兄ちゃん元気かな。最近電話もしてねーし)
 大樹は職業柄、家族にも近況を話せないことが多いようだ。毎日、忙しくしていることだろう。
 そんな文武両道の兄は、世間の偏見にいじけがちな弟の頭を撫でながら、よくこう言っていた。「伊織を理解しない人間に、わざわざおもねる必要はないよ。伊織を本当に大事にしてくれる人の役に立てるように、いまは一生懸命に勉強しような」と。
 兄に励まされて頑張った伊織は、めでたく大学まで卒業して、景気の波に左右されつつも、大手食品会社の下請けに就職することが叶った。なお、怖がられる顔面のせいで落とされるんじゃないかと、内心ではかなり不安に思っていたことを知っている人間は少ない……。

「だからぁっ、なんでできねえんだよ!? できねえんじゃなくて、やれっつってんだよ!!」
「も、申し訳ございません……」
「申し訳ないじゃないんだよぉっ!!」
 午前の業務を終えて昼飯を買うためにコンビニに入った伊織は、レジで怒鳴り散らす老人と、縮こまっている若い女性店員、それと、迷惑そうな顔をしてもうひとつのレジに長蛇の列をつくる客たちを見た。
「なに、あれ?」
「いまシステム障害で、クレカや電子マネーが使えないんだってさ。お兄さん、現金ある?」
「ああ、大丈夫っス。ども」
 こぼれ出た呟きに答えてくれた、親切そうなおばちゃんに会釈して見回すと、たしかにその旨が張り紙になっていた。伊織は愛読している漫画週刊誌とお茶のペットボトルとおにぎりをふたつ棚から掴んでレジに向かった。
「人を馬鹿にしてさぁ! 客を舐めんじゃないよぉっ!」
「おいジィサン、いま札か小銭がねえなら、買い物できねえぞ」
「あぁ……ッ!?」
 振り向きざま伊織を睨んだ中年男だったが、百八十センチ以上ある図体からの、眉間に深い皺が寄った威圧に、怒鳴り声は喉の奥に引っ込んだようだ。
「……ガキじゃねえんだからさぁ。あのカンバンが読めねぇの? それとも、日本語が理解できないほどボケてんのか? あぁん?」
「っ……!」
 目を眇めて低い声を出す伊織に睨まれてビビったらしく、老人は何も持たずに、そそくさとコンビニを出ていった。
「チッ。自分より弱そうなヤツにしかデカい声出せねーんかよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
「おう。慌てなくていいから」
 老人が買うつもりだったらしい品物の登録をレジから消去するのも、結構面倒なのだ。並んでいる客をすぐに呼ぶわけにもいかない。
「なんだこれ?」
「あ、さっきの人の忘れ物ですね」
 カウンターに置きっぱなしになっていた薄いカードを取り上げてよく見ると、小さな字で「テレホンカード」と印刷されていた。
「うおっ。ガキの頃、ばあちゃんに見せてもらったことある! これ、公衆電話で使うんだろ? あのジィサン、テレホンカードで買い物しようとしたの!? バッカじゃねーの?」
 最近ではちょっと珍しくなった物を見た感動と驚きのあまり、大きな声を出してしまった伊織の言葉に、まだ店内に残っていた客たちから、盛大に噴き出す音が聞こえた。
「ぶほぉっ」
「は? マジで?」
「そりゃ無理だな」
 システムが停止していなくても、買い物決済用のカードですらないのでは、会計ができるはずもない。あの老人はずいぶん激しく思い込んでいたようだが、手持ちのプリペイドカードかギフトカードと勘違いしていたのだろうか。
「今度ああいうのが来たら、ちゃんと警察か警備会社呼べよ。殴られるかもしれないし、危ねーよ」
「はい、そうします」
 伊織個人は警察にいい思い出はないが、一般人への暴力に対する抑止装置としてはちゃんと機能しているという信頼があった。真面目に働いている人が理不尽をこうむっているところなんて、伊織は自分を重ねてしまって見たくなかった。
 普段はスマートフォンで決済をしているが、今日はたまたまベッドの傍に置いたまま忘れてきてしまった伊織は、尻ポケットから財布を出して千円札で会計を済ませると、商品が入った袋を受け取る。
「ありがとうございました!」
「っス」
 半泣きだった女性店員に笑顔が戻り、伊織はちょっといい気分でコンビニを出るのだった。
 食品会社の関連企業とはいえ、すべての支店に社員食堂が完備されているわけではない。オフィスに戻ってきた伊織は、休憩室でおにぎりをお茶で流し込み、漫画雑誌を広げて読み始めた。そこに、同期の山岸が怫然とした顔で休憩室にやってきて、ファストフード店の袋をテーブルに置いた。
「……どした?」
「また小平が田辺のババァにイビられてんの。飯が不味くなるよ。ホントやめて欲しい」
「ああ」
 小平春哉コダイラハルヤは今年の新入社員で、たしかに少しトロいところはあったが、伊織たちがフォローできる範囲だった。しかし、男性にしては小柄で薄暗い雰囲気を持っているせいか、お局の田辺に必要以上に厳しくされていた。
「やれやれ……」
「ん、止めに行くの?」
「飯は食い終わったしな。田辺サンきついし、小平が可哀そうだ」
「沖園君やさしー。人事査定でプッシュしてあげるから偉くなって」
「やめろって。ゆっくり食ってこいよ」
 バーガーにかぶりついている山岸に手を振って、伊織は自分のデスクに戻った。
「アンタねぇ、もう何回目よ!? 何度言えばわかるの!?」
「……」
(ん、ちょっとヤベェな。小平のやつ、ガンギマリじゃねーか……)
 ちらっと見えた小平の顔は無表情だったが、瞬きもせずに歯を食いしばっているのがわかった。伊織の経験上、あれはいつプッツンしてもおかしくない人間の顔だった。
 伊織は漫画雑誌と財布をバッグにしまってから、ギャンギャン吠える様な声を出して小平を詰る田辺の所に行く。
「あれー、田辺サン、どうしたんスか? もう昼っすよ」
「あ、あぁ、伊織くん……」
 書類の束ごとデスクを叩いていた田辺は、仕事のできるキャリアウーマンだが、けっこう貢いでいたという噂もある『私の仕事に理解がある夢追い人の彼くん』に三十も半ばで蒸発されてから、キツイ言動に拍車がかかってきていた。
 ただ、全体的に威圧感があるだけで意外と素直で大人しい伊織のことは可愛がっている節があるので、伊織は面倒くさく思いつつも、度々同僚たちの田辺に対する盾を引き受けていた。
「あー、課長の署名が必要なヤツか。こっちも抜けてんなー。……すんません、課長今週出張なんスよ。提出来週になっちゃうんですけど、ヤバいですよね?」
「はぁー、しょうがないわねぇ。こっちで上手くやっとくわ。その代わり、月曜には必ず頂戴ね」
「っス。すんませんした! 気を付けます」
 伊織が軽く頭を下げると、田辺は書類を置いて自分の部署に戻っていったので、伊織は急ぎである旨のメモを書類に貼り付けて、課長のデスクに放った。
「ほい、おっけ。災難だったな、小平クン。昼飯行って来いよ」
「……」
「あんまマジで捉えんなって。な?」
 頭一つ分低いので、伊織からはうつむいた小平のつむじが見える。
「……って……な……」
「ん?」
 ふすーふすーと呼吸荒く震える小平から、ぼそぼそとした声が聞こえて、伊織は少し首を傾げた。
「言われたから、届けただけだし……作ったの俺じゃない……なんで俺が、俺が……俺じゃないじゃん……俺悪くないじゃん……」
「まあ、落ち着けって」
 自分が実質関与していない事で怒鳴られたら、それは伊織だって面白くない。ただ、ここでの暴発は、これからのキャリアに影を落としかねない新人の小平のためにも避けたい。
 だが、わずかに首を上げた小平の顔は赤く、伊織を見ているような、見ていないような、それでいてまわりの全部が敵に見えている眼をしていた。
(うわ……)
 これは下手に触れないと下がりかけた伊織だったが、ふいに嫌な感覚を首筋から背中に覚えて、逆に踏み込んだ。
「そこ退け!」
 それは、幾度も鉄火場を乗り越えてきた伊織だからこそわかった、不穏というにはおぞましい空気だった。
 目の前の小平を突き飛ばした伊織は、あっけに取られている小平の顔を見ながら、足元から噴き出した影に絡みつかれて、消えた。
「は……? お、沖園さ……あ、あれ? ……誰か、いたっけ……?」
 その瞬間、沖園伊織という存在は、この世界から痕跡すら残さず抹消された。