その手を取るのは ―4―


 医科大学の門を出た天城は、自分の車を停めてある駐車場に戻りながら、右手で自分の頬を撫でた。いつもの笑顔が、イラつきに引きつりかけている。
 わざわざ昼間に出かけたのに、ターゲットが外出中ときた。帰りは明日以降だなんて、とんだ無駄足だった。
『ゴミ箱あさられたんだってよ。あっ、もちろん俺のじゃないぞ。そんなヘマするかよ』
 憮然と唇を尖らせたレイモンドに渡された資料には、EA機関に所属する末端研究員のパソコンが、何者かに接触された形跡があったとされている。そして、その足取りは、ある大学からとなっていた。研究員にも心当たりがあったらしく、犯人の目星はついていた。
『抜かれたのは本当にただのゴミだが、関係者は全員消せとさ。うちのボスは神経質だからな』
『取られたデータはどうする?』
『首と一緒に持ち帰れたら、土産になるんじゃないの? 医療ゴミだって専用の処理が必要だし』
 まるで犬だなと感情が顔に出たのか、レイモンドは白衣に包まれた厳つい肩をすくめてみせた。
『ないとは思うが、無茶はするなよ』
 天城の左腕には、グラスファイバーの薄いギプスが巻かれていた。ダンテの金属バットを受け流し切れなかったせいで、打撲で青黒く腫れ上がり、手首と前腕の骨にひびが入っていた。
 コードファクターのおかげで回復が早い反面、それが暴走すれば取り返しのつかないことになる。天城は、そんなくだらないことで身を滅ぼしたいとは思わない。
(明日の夜まで暇になったな)
 運転席のシートに腰を落ち着けた天城は、少し考えたあと、サービスエリアに戻ることにした。美味しそうな菓子でも土産にすれば、天城の帰りを待っている彼女はきっと喜ぶだろう。


 アポイントメントも取らずに、忙しい大和と面会することは、基本的にできない。たとえそれが知り合いだとしても、緊急時でなければ門前払いであるし、親しい友人知人であればなおの事、先に訪問の許可を得ておくことを知っている。
 だから、大和は昼間あいさつに来たと聞いていた来訪者が、終業時間後にまた来ていると言われて柳眉をひそめた。
「寿村先生が?」
 そのしつこさに、先日の学会で義手を撫でまわされた記憶がよみがえり、大和の全身にぷつぷつと鳥肌が立った。幸いと言っては何だが、まだ仕事が残っており、会わずに追い払うことはできるだろう。だが、正規にアポイントメントを取られると逃げられないし、明日も明後日も来られるかもしれないと思うと、一度はっきり断った方が良さそうだ。
 大和は白衣のまま医療棟を出て、正門まで歩いていった。すると、銃を持った守衛たちがスーツ姿の寿村を押しとどめているのが視界に入り、やっぱり出ていかない方がいいかと二の足を踏む。
「ああ、小鳥遊先生!」
 笑顔で大きく手を振られ、判断が遅かったと胸の中で舌打ちをする。
「寿村先生、困ります」
 大和に敬礼してくれる守衛たちを押し退けて、支部の敷地内にずかずかと入ってくる寿村に、大和はあからさまに眉をひそめてみせた。
「いやあ、申し訳ない! せっかく名坂まで来たのに、小鳥遊先生に会っていかないではいられないですよ!」
 僕あなたと全然関係ないですよね、全然申し訳ないなんて思ってないですよね、と心の中で突っ込みつつ、大和はあくまで紳士的にご退場願おうと口を開きかけた。
「え・・・・・・」
「もう終業ですよね? せっかくですから、その辺でお茶でもどうです?」
「あのっ、まだ仕事が・・・・・・!」
 無遠慮に右手を掴まれ、大和は少々パニックを起こした。女性がされているのをはたから見れば、ずいぶん強引なナンパだと止めにも入るだろう。自分がその立場になるとは思わなかったが、たしかに誰かに助けてもらいたい。
 守衛が二人、大和から寿村を引き剥がすべく寄ってきたが、寿村は笑顔を崩さず、大きく腕を振って大和を引っ張っていこうとする。
「さあ、さあ。時間がもったいないです」
「いい加減に・・・・・・!」
 片方は義足であり、無理に引っ張られればバランスを崩しやすい大和が、紳士的な温和さをかなぐり捨てるべく拳を握ったところで、寿村のきちんと整えられた黒髪を、誰かが鷲掴みにした。
「え?」
 バキッという、乾いた枝を折ったような音は、それにしては少しくぐもっていた。
「イッぎゃぁああぁぁっ!?」
 ぽいっと放り捨てられた寿村が地面に転がったので、大和は数歩後退ることができた。だがそれは、腕を解放されたからだけではない。
「なんだ、この躾のなっていないサルは」
「ぐあっ! あっ、ギっ、ッ・・・・・・!」
 横向きになった寿村の頭を、アスファルトですり下ろしかねない勢いで踏みつけている青年が放った声は、大和が普段聞いているよりもずっと低かった。
「いぎぎゃっ、ひしゃ・・・・・・にゃにしゅ・・・・・・!?」
「サルが人間の言葉を話すな、汚らわしい」
 ちょうど出勤してきたらしいダンテは、いっそ無表情でいてくれた方が怖くない笑顔を大和に向けてきた。
「大和さんが出張先で困ったことって、コレのことだったんだね! あー、これはちゃんと聞いておかなかった俺が悪いなぁ」
「ダ、ダンテさん・・・・・・あの、できれば、殺さないでください」
「は?」
「ごぎゃぁ」
 ごりっという寒気のする音がした下の方を、大和は見ることができなかった。守衛たちは慌ただしく詰所と門の定位置に戻っていき、一応の味方から大和を助けてくれそうもない。
「やだなぁ、大和さん。俺がなるべく苦しまないように殺すのは、血肉になってくれる豚や羊だよ。サルなんか食べるわけないじゃない」
 食べる価値もないのに、慈悲をかける必要はない。つまり、死んだ方がマシな苦痛を与えるべきだと、目の前にいる人間の形をしたものは言いたいのだろう。
 しかし、大和はいくら寿村が無礼であっても、彼が一般人である限り、生きて帰してやらねばならない。
「お願いですから、短気を起こさないでください」
「へえぇぇ〜〜。無理やり連れて行かれそうになっていた人が、短気を起こさないで、だって」
「っ・・・・・・」
 焦るあまり火に油を注いだ大和は、さらに焦って適切な言葉が探せない。自分の被害を計算に入れて交戦に踏み切ったダンテを咎めたくせに、甘い見通しでのこのこ出ていって捕まりかけていた大和が、なにか言えるはずもない。
「すみません。僕が軽率でした」
「そうですよぉ〜。僕の目を盗んで抜け出すなんて、なんて軽率なんでしょう☆」
「ルイスさん!」
 糊の利いた真っ白なTEARS礼服を着こなし、カツカツとヒールを鳴らしてやってきたのは、プラチナブロンドの髪を青いリボンで結んだルイスだった。
「はい。おやおや、膝を壊したんですかぁ? おかしな方向に曲がっちゃっていますけど☆ ダンテさんも素敵な格好ができるんですねえ、ちょっと見直しちゃいました☆ さて、そこのドブネズミに三択です。わあ、すごい。選択肢が三つもあるなんて、僕は優しいですねえ」
 そう微笑むルイスの目は、よりいっそう嗜虐の笑みに満ちていた。
「ひとつめ、このままダンテさんに顔面の凹凸が無くなるまですりおろされる。ふたつめ、不法侵入の現行犯として警察に引き渡される。みっつめ、僕と平和的にお話して解決。さあ、どれがよろしいですか? 僕のおすすめは、みっつめですよぉ☆」
 地面に這いつくばって声も出せない寿村の手が、指三本を立てた。
「ということです。ああ、それから・・・・・・」
 にこにこと笑顔を崩さないルイスは、急なシフト変更でダンテは今夜休みになることと、大和の残業が無しになったことを告げた。
「僕も急にお仕事・・・が入ってしまって、大和さんのお手伝いができないんですよぉ。よろしいでしょうか☆」
「・・・・・・ヴァリアント管理官に従おう」
「うふふ。道理と利害さえ通せば、ダンテさんはお話の分かる人ですからねぇ☆」
「そいつはどうも」
 ダンテが寿村の頭から足を退かすと、話が聞こえていたらしい守衛たちが寿村を引き立てていき、大和はダンテと共にルイスによって追い払われた。

「・・・・・・長門くん、ナイス判断です☆」
「やっぱー? 俺ナイス! 全方位に殺気まき散らすダンテなんて初めて見たし、たけぞう呼ばなきゃヤベーかなとか思ったけど! べ、べつにビビってねーしっ!!」
 片手に植え込みから拾った小枝、もう片方に食べ終わったアイスの棒を持って詰所の影にしゃがんでも、黒ジャージに金髪頭が目立つ長門の大きな体は、ルイスからは丸見えだった。
 コンビニ帰りに偶然ダンテと一緒になった長門は、正門でのトラブルが手に負えないと判断するや、詰所にもぐりこんで無線で時雨に助言を求め、その時たまたま時雨の側にいたルイスが、こうして駆け付けたのだ。普段はいの一番に口や手が出て年長者に窘められる長門であるから、自分より先にダンテがキレてしまったので、どうしていいかわからなかったのだろう。
 コンビニのビニール袋を手に下げたまま、長門はぶらぶらとルイスについて歩いてくる。
「なあ、あれなに? 大和の追っかけ?」
「俗にいう、頭のいい馬鹿です☆ またの名を身の程知らず、でしょうか」
 ああいうタイプは、自分の考えたことが正しく現実に起こる前提で行動するので、脳みそに言い聞かせるよりも、きちんと体に指導しなくてはいけない。
「それにしても、ファインプレーでしたよぉ。さすがはS部隊の隊長さんです」
「ふふん、このスペシャルに頭脳派な長門様にかかれば、どんな状況も最適解を出してみせましょう」
「ええ、ダンテさんが抜けた分の夜勤、よろしくお願いしますね☆」
「ええー!? しょーがねーなあ、長門様が一皮脱ぎますか! ん? 皮は脱げないから、服か?」
「皮はむける方ですねぇ。大和さんじゃないので、服も脱がなくていいですよぉ。さあ、お仕事、お仕事☆」
 今度ダンテにおごってもらおう、などとぼやく長門を置き去りにして、ルイスは軽やかな足取りで自分の仕事場に向かうのだった。