聖女の祝福 ―2―


 まったく、人間の想像力というものは、膨大な可能性と必然の偶然とを予見できるものではないと、この数年でつくづくと思い知らされた。
「オルランディ伍長、ちょっと来い」
「はいっ、ラティーニ少尉殿!」
 自習室の入り口から呼び出されて、すっ飛んで行って敬礼した相手は、ちょっとした事件で面識を得るようになった、五つ年上の上官だった。部署も違えば階級も離れているが、ごく個人的なことを言えば、なにかと便宜を図ってくれる好意的な人物で、自分が軍を辞めたいという意思を示した時も理解してくれた。
 兵卒の宿舎に何をしに来たのかと思えば、今朝あったトラブルに関する説教だった。
「・・・・・・前々から言おうと思っていたが、その売られた喧嘩をフルスイングでかっ飛ばす性癖を、どうにかしろ。普段大人しい癖に、貴様の言動はバヨネットよりも深く突き刺さるんだ」
 真面目な表情を装ってはいるが、まだ二十代半ばの若々しい顔が、笑いたいのを必死に堪えているのがまるわかりである。
「少尉殿からのご命令でありますか」
「命令してすぐに直るものなら、とっくにそうしている。・・・・・・あのな、色々ストレートに言うんじゃない。可哀そうだろう」
「極めて婉曲に言ったつもりですが・・・・・・」
 毛量が多くてヘアスタイルに難儀している部下に対して暴言を吐いた、頭部がお寂しい軍曹に、毎月の出費であろう発毛剤の値段を言ってみただけなのに。お互い大変ですね、と。
「それで殴られたら損だろう」
「むこうは反省文を書かされているでしょう?」
 それはそうだが、とラティーニは苦笑いを浮かべ、すぐに表情を引き締めた。
「仲間に八つ当たりする連中が増えてきた。生き残りが減っているせいで、あちこちギスギスしていてな」
「少尉殿のところもですか」
 思わず声を低めたが、ラティーニはそれには答えず、ハゲ軍曹に嫌味を言われた栗色の巻き毛頭をわしゃわしゃとかき回していった。
「来月末付で、貴様の除隊辞令が出るはずだ。それまで、生き残れよ」
「はいっ。ありがとうございます、少尉殿」
 ブーツのかかとを付けて背筋を伸ばし、かっきりと手をかざした敬礼の向こうに、迷彩柄の後姿が遠のいていった。

 賑わう食堂で向かいに座ったボッカが、ミートボールのトマト煮を頬張りながらパンをちぎっている。
「ねー、マジで辞めちゃうんですか、伍長ぉ〜?」
「そうだよ」
 ダンテはセロリと人参のスープを口に運びながら、二つ違いの後輩に微笑んだ。
「嬉しそうな顔しないでくださいよぉ〜。伍長がいないと、僕動けないんですけど」
「そんなことないだろう。ボッカなら、誰の下でもうまくやれるだろうし、俺より出世するだろうよ」
「えー」
 伍長は都合のいいことばっかり言うんだから、などともごもご言ったようだが、ダンテは気にしない。どんな状況変化にも動揺しないボッカの安定感は、背中を預けるのにこれ以上ない相棒で、多少の不真面目さは置いておいて、ムードメーカーとしてもチームに必要不可欠だ。
「まだ運命の女の子とも出会えていないのに、頼りになる上官はいなくなっちゃうし、僕の命はいつまでもつんだ・・・・・・」
「ボッカも辞めるか?」
「いや、食っていけねぇです。僕は伍長ほどすごいスキル持ってないですから」
 ボッカは無理無理と首を振り、付け合わせのオリーブにフォークを突き刺した。
「伍長って、まだ二十二歳になったばっかりでしょ?それでよく五ヶ国語もしゃべれますね。人生二度目ですか?」
 人生二度目と言われて、あながち否定できないところだなと心で呟き、ダンテは唇の端を持ち上げた。
「不自由なく読み書きしゃべれるのは確かに五言語だけど、その他に読み書きだけとか、なんとなく言っていることがわかる程度なら、さらに四言語ほどある」
「バケモンじゃねーですか」
 化物呼ばわりされる自分が可笑しくて、ダンテは食べかけのマッシュポテトを噴きそうになった。
「それほどでも」
「いーなー。いろんな国の女の子としゃべれるんでしょぉー?羨ましぃ・・・・・・」
「そうそう、そういう動機でいいんだよ。俺が日本語を覚えたのだって、そういう動機だし・・・・・・」
 フォークを持ったままボッカが固まったので、ダンテは目を瞬いた。
「なに?」
「伍長でも、女の子としゃべるんですか?」
「お前は俺を何だと思っているんだ。そんなに堅物に見えるか?」
「見え・・・・・・なくもないです。なんていうか、興味なさそうだなって・・・・・・」
 部下の率直な人物評に、ダンテは目眩がしそうだった。それを言うなら、女の子限定ではない、と否定したいところだが、説明が面倒くさくて、コーヒーを飲むことで沈黙を守った。
「えっ、えっ!じゃあ、伍長の好みって、日本人なんですか?エキゾチックな美女ですか!それとも、アニメみたいに可愛い感じの・・・・・・」
「話を飛ばすな。昔、俺を看病してくれた女の人が、日本人だったんだ。でもその時は言葉がわからなくて・・・・・・お礼もろくに言えなかったんだ。清楚な感じで、長い黒髪の、綺麗な人だったよ」
「おお。なるほど・・・・・・伍長の好みは年上・・・・・・」
「ボッカ!!」
 すみませ〜ん、と残りの食事を掻き込み、ボッカは若者らしい身軽さで逃げて行った。
「まったく・・・・・・」
 除隊の日が近づいているのがうれしくて、少ししゃべり過ぎたようだ。どうせこの国には戻らない、そんな油断から、災いを呼び込むことになっては困る。
(ラティーニ少尉は、なんとなく勘付いているだろうし・・・・・・)
 だからこそ、ダンテを監視とは言わないまでも、注視しているのだろう。こちらの要求をすんなり呑んでくれているが、国外に脱出するまでは気が抜けない。
(まいったな・・・・・・)
 あの事件から、怒りのコントロールが上手くいかない。先日の軍曹とのやり取りもそうだし、些細なきっかけで舌禍を起こしかける。そんな自分が嫌だと思うのだが、実際ブレーキが利かない。
 せめて、あと一ヶ月を乗り切らなければ・・・・・・。