憎しみの矛先 ―2―


 目の下に青黒い隈を作った大和は、食事中も残業の多さに文句を言っていたが、食べ終わる頃にはすっかり機嫌がよくなっていた。大和オススメの牡蠣料理を出してくれる料亭から出ると、オレンジ色に光る太った月が、ビルの間から顔をのぞかせていた。
 場所は交通量の多い大通りから少し入った路地裏で、ぽつぽつと飲食店の灯りがある界隈は、この時間でもそこそこの人通りがあった。
「大和さん、息止めて!」
 突然、ダンテが手に持っていた上着を広げるように、大和のすぐそばにいた通行人へ投げつけると、驚いたにしては焦り過ぎた悲鳴と、ぱしゃりと零れる水音がした。
 その間にも、大和はダンテに柔らかく押されて背に壁を感じ、別の男が蹴り飛ばされていくのを、街灯の頼りない光の外に見た。
「・・・・・・二人?」
 大和を襲うにしては数が少ないと首を巡らせたダンテが、壁際で鼻と口を両手で押えて突っ立っていた大和に向かって走ってきた。もう息をしてもいいのかと手を緩めかけた大和に、ダンテは見たこともないほど厳しい表情で怒鳴った。
「伏せろ!!」
 すとん、と腰を下ろした大和の上を、ダンテが壁に体当たりするような勢いで覆いかぶさる。
(ダンテさん・・・・・・!)
 苦痛を堪えるような小さな呻き声は一瞬で、ダンテの身体に遮られていた大和の視界はすぐに広がった。一発、二発と殴打の音に混じって、悲鳴と一緒に骨が折れる音を大和は聞いた。
「ダンテ、さ・・・・・・ッ」
 そろそろ限界だと、肺の中のわずかな空気を絞り出した大和の声に気付いたダンテが、襲撃者の残り二人を引きずりながら慌てて戻ってきた。
「なにもかかってないね?目も痛くない?ごめん、もう息していいよ」
「っはすうぅぅぅっ、はあぁっ、はぁ・・・・・・こんな、はぁっ、街中での、窒息プレイは、はぁっ、斬新です・・・・・・!」
「いや、そうじゃない」
 死んだ魚の目でぱたぱたと手を振るダンテをよそに、大和は『後始末』を任せる連絡のために、スマートフォンを弄った。警察と救急は仕方がないとして、襲われた大和の方に、面倒なしがらみが多いのだ。
「・・・・・・ダンテさん?」
 さっさと必要な処置を取って顔を上げた大和は、最初に投げつけた自分の上着を拾い上げて憮然としているダンテを見つけた。
「毒ガスでなくてよかったよ。・・・・・・臭いもないし、やっぱりただの硫酸みたいだ」
「はい?」
 ダンテのパーカーは大小の穴が開いてボロボロになっており、持っていた酸で自分の手を焼いてしまったらしい犯人は、地面に転がったまま呻いている。
「アシッドアタック・・・・・・ですか」
 特に顔などを焼くため、被害者は女性が多いと聞く攻撃方法だ。広範囲に傷跡が残ることが多く、心身共に重大なダメージを負うことになる。どちらかと言えば辱めを目的としたもので、下手をすると殺意はなかった、と言い逃れができてしまうだろう。
「変ですね」
 被害者であるはずの大和は、解せないと首を傾げる。たしかに、銃や致死性のガスに比べて、酸は入手や管理が易しいかもしれない。しかし、大和を殺したいのならば、刃物でも持ってきた方が簡単で確実だ。逆に誘拐したいのならば、面倒な怪我をわざわざ負わせるだろうか。
「・・・・・・大和さん、最近、言い寄ってきた誰かをフッた?」
「心当たりが・・・・・・えぇ、実家の呼び出しを、多忙を理由に何回か断ったくらいで」
 真面目な顔で大和は首を振るが、恨みなんてどこで買うかわからないのが人付き合いだ。誰に対しても柔らかな物腰で丁寧な対応をする大和だが、TEARS名坂支部で日々残業している大和よりも、小鳥遊財閥の『小鳥遊大和』が持つ人脈と財力と影響力は計り知れない。
「うーん、警察が来る前に尋問してみようか?」
「あまり期待はできませんが」
 あまりにも下っ端だと、情報を持っていない可能性が高い。揃って渋い表情になった二人だが、ぎゃああ、という悲鳴に振り向いた。ダンテが伸して転がしておいたうちの一人が、白目をむいたままメキメキと体を膨らませていく。
「下がってください!」
 コードファクターが暴走していくのを目の当たりにして、遠巻きにしていた野次馬は我先にと逃げ出していく。遠くにサイレンの音が聞こえたが、ここまで入ってこられるかはわからない。大和が腕を掴んだ人物は、逆に大和を抱きかかえて、悠々と路地から大通り側へと歩いていった。もう誘拐の心配をするよりも、応援が駆けつける方を期待した方がいいという判断だ。
「やめてくれ!やめろ、たすけ・・・・・・ぃぎゃああぁぁ!!」
「あ、困ったな。TEARSが来る前に、全部食べられちゃいそう」
 手近なところで仲間だった人間を捕食し始めた発症者アンセラに、ダンテはうーんと首を傾げた。襲撃者はなるべく生け捕りにしたいが、大和の傍に避難させるわけにはいかない。すぐに安全な場所まで避難するべきだが、怪我人を見殺しにするのは大和が嫌がるかもしれない。でも大和を襲った襲撃者を抱えて走るのは、ダンテが単純に嫌だ。
「すぐに討伐しに来るよね?」
「はい」
「じゃあ、時間稼ぎだけ」
「え?」
 足の裏に地面を感じた大和は、義手が掴んでいたはずの筋肉質な腕がするりと抜けていくのを止められなかった。
 手足をバラバラに引きちぎられた胴を咥えた大きな頭が、真横からの衝撃で吹っ飛び、アスファルトに這いつくばる。犠牲者の血と内臓がまき散らされた道を、ダンテは不快気に顔をしかめたまま踏みしめた。
「うーん、やっぱり鈍器か、威力のある銃が欲しいなぁ」
 発症者はおおよそ、捕食するたびに強く変異していく。身体のどこかにあるコアを破壊しない限り、細胞は変化を続けて、肉体を補い続ける。つまり、ダンテが得意とする知覚器官潰しが、発症者相手にはほとんど意味をなさなかった。
 綺麗に決まったハイキックだったが、やはり火力不足は否めない。不自然に隆起した胴体からザリガニのような脚をいくつも突き出して、発症者の体は腹を上にして地面から持ち上げられた。脛骨が折れたせいで肥大した頭はだらんと垂れ下がっていたが、その喉元には新しい開口部が割け現れ、瘤のように隆起した腹部からは、触覚のような細長い物がにょろにょろと突き出して蠢いている。
「うっわ、きっしょー」
 カチカチとコンクリートを叩く足は、ずいぶん堅そうだ。しかも・・・・・・。
(はや・・・・・・ッ!?)
 飛ぶように一瞬で間を詰めてくる俊足から、ダンテは慌てて飛び退いた。ひゅっと何気なく振られた足の一本が、ジーンズのわきを直線に割いていく。腿の肉が掻き削られたのを感じて、ダンテは顔をしかめた。
(ハサミを持ってないだけマシか!)
 同程度の鋭さと怪力を持ったハサミに掴まれたら、いくらダンテの身体でも二つに切り分けられてしまうかもしれない。
 生き残っている襲撃者二人は、ダンテに負わされた怪我と恐怖のせいで、這いずって逃げようとしている。あまりにのろいので捕縛に失敗することはないだろうが、発症者の興味がそちらに向いたら即死しかねないので、もう少し頑張ってもらいたい。
 飛び掛かられるたびに致命的な一撃を何度も避けながら、じりじりと対峙していたダンテの耳に、待ち望んでいた車両がブレーキを掛ける音が聞こえた。
「伏せてください!」
 大和の声が聞こえる前に、頬や肩のすぐそばを弾丸が通っていき、ダンテはアスファルトの上を転がるように弾道から身を躱した。
 対発症者用の特殊弾は、コードファクターがもたらす細胞の増加を阻害することができる。ライフルのフルオートによって、触覚とザリガニの足を生やした奇怪なブリッジ男が、細切れの肉片になっていった。方向転換をしようと後ろ足で立っても、的が大きくなるだけだ。
「ぎょおぉぉおおおおぉぁぁ!」
 閃光を放つ二つのマズルが、肝臓のあたりに露出したコアを撃ち抜く。ズタボロになった肉塊がべちゃりと崩れ落ちて、やっと銃声が消えた。あたりには硝煙のにおいが充満して、濃厚で温かな生臭さと混ざっている。
「お疲れ様で〜す☆」
 薄暗い路地に響いた、場違いなほど軽やかな声に、ダンテはキレ気味に叫び返した。
「アンタ、いま俺ごと撃とうとしたな!?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。三発ぐらいまでなら、誤射の範囲ですよぉ☆」
「・・・・・・ぶっとばしてぇ・・・・・・」
 思わず素の呟きが漏れたダンテであったが、アサルトライフルを片手に駆け寄ってくる大和には、いつもの笑顔を向けることができた。
「・・・・・・あれ?こっちは人間か。大和ぉ、生きてるー?」
 路地の反対側から飛び込んできた重い駆け足が急停止し、足元で這いずっている人影に向けた銃を退けた。タクティカルジャケットを着込んだ、上背のある立派な体格の少年は、地面で動かない肉塊を確認すると、二丁の愛銃をホルスターに収めた。
「生きていますよ。僕は無傷です」
「俺が来るまでもなかったじゃん」
「ご足労をおかけしました。長門くん、そのお二人を生け捕りにしておいてください」
「あ、僕のお仕事です〜☆」
「了解」
 ルイスが軽い足取りで長門のもとへ行くと、音を外した金切り声が上がった。
「化物め!全部小鳥遊が殺したんだ!!俺の親も、兄弟も、仲間も、みんな殺しやがって!!」
「はいはい、お話は僕の執務室で聞きますからね〜。たくさん、たくさん、お話してくださいねぇ☆」
「ちくしょおぉぉ!!」
 あまり代わり映えのない批難に大和が表情を動かすことはなかったが、大和に対する誹謗中傷には真っ先に怒りをあらわにするダンテが、いまはじっと沈黙したまま成り行きを見守っていた。大和はその横顔に、思わず声をかけた。
「ダンテさん?」
「え?・・・・・・ああー、気が抜けたらめちゃくちゃ痛いなー」
「棒読みで言われると、どこまで本気なのかわからないんですけ、ど・・・・・・!?」
 人間離れした回復力をもつダンテなので、打撲や切り傷程度なら一瞬で治ってしまう。特に、今は昼間ではなく、月も出た夜間なので、発症者の足に削られた腿の傷はすでに塞がっている。しかし、治っていない傷があった。
「なんで先に言わないんですか!?」
「え、洗い流せばすぐに治るもん」
「そういう問題ではありません!」
 大和への二発目のアシッドアタックを防いだダンテの背は、Tシャツが溶けて、その下の皮膚が焼けていた。火傷は肩や首の後ろにも及び、髪もまだらになってしまっている。
 ダンテが推察した得物を深く気にしていなかったと、大和は胃がギュッと締まるのを感じた。特徴的な刺激臭のある塩酸などは、携帯に向かない。硫酸に臭いが無いのは揮発性が低いからで、それだけ、皮膚に留まりやすいということだ。
 大和は自分の迂闊さを罵るのを後回しにして、爛れた筋肉があらわになっているダンテの手を引いて、TEARSの車両へと向かった。