黄昏の影踏み ―1―


 二メートルを超えるコンクリートの壁、鉄柵、金網、そして監視カメラ。それらが広大な敷地を囲む港湾地区の路上で、人影を見つけた。この辺りは、車の通りが多くて道路は広く、その割に歩道は狭い。その細い歩道が、門前の為に少し広がったスペースに差し掛かる。そこで、白壁に向かって立ち、ポケットに両手を突っ込んで、黄昏時の空を見上げている人影があった。まさか壁を乗り越える目測をしているのではあるまいなと、声をかけることにした。
「キミ」
「はい?」
 キッと自転車を停めると、空を見上げていたフード姿がこちらを向き、彫りの深い顔立ちと青い目を見せた。まだ若く、二十代半ばぐらいだろうか。先日三十歳になったばかりの自分と、あまり変わらないようだ。フードの影に、茶色っぽい巻き毛が見える。
「おっと・・・・・・言葉わかる?こんなところで何をしているんだ?」
「ああ、大丈夫。知人と待ち合わせです」
 職務質問されているのだと理解が早い。こちらに住み始めたばかりではなさそうだ。制服を着た自分が言う前に、パーカーの懐からパスポートを取り出し、そこで働いている人を待っている、と傍の門を指差した。
 白い門の向こうには石畳が続いていたが、夕日の残照すら消えかけたこの時間は、要所のみに煌々とライトがつくばかりで、特徴的な赤レンガの建物も影に沈みかけている。
「TEARSの?」
「そう。守衛さんに聞いてもいいよ」
 厳めしさの中にも端麗な気品のある門の向こうでは、武装した守衛が可動式の重い鉄柵と共に立っていたが、彼らは全くこちらを気にしていない。ここでこの若者が人を待つのは、今日が初めてではないのだろう。
「そうか。時間を取らせて悪かった」
「お勤め、ご苦労様です〜」
 ばいばい、と手を振る外国人の若者に敬礼を返して、自転車をこぎだす。もう少し先にある、広い公園を見回ってから交番に戻ることにしよう。

 最近知ったことがある。
 彼は夕方になると、よく空を見上げている。以前は見通しの悪い繁華街で会っていたし、二人でいるときはもちろんそんなそぶりを見せたことはない。
「ダンテさん、お待たせしました」
「こんばんは、大和さん。今夜も綺麗だなぁ」
「・・・・・・ダンテさんにとって、綺麗でない僕はいるのでしょうか?」
「ないよ。大和さんはいつでも最高に綺麗で・・・・・・」
「はいはい」
 こちらを見て穏やかに微笑むまでにしている、少し寂しいような、悲しんでいるような表情は、水面に映った月に向かって飛び込むかのように、触れられない幻影を追いかけてそちらに走って行ってしまいそうで・・・・・・。
「?」
「いけませんか?」
「ううん!嬉しいなっ」
 きゅっと握り返してくる、荒事とは無縁そうな手の温もりが、一瞬冷えた胸を温め直してくれる。
「・・・・・・最近、突然ペットがいなくなったと嘆く人の気持ちが、よくわかるようになってきました。喪うことの怖さは知っているつもりですが、理由もわからず去られるのも、怖いですね」
「え?」
 きょとんと青い目に見詰められ、大和は「独り言です」と返した。


 先日の市民団体撃退作戦の褒賞として、今夜は大和がご馳走してくれると言うので、ダンテは遠慮なく好物のシカゴピザを出すダイニングバーを指定した。
 ワインもビールもなかなかいいのが揃っているし、ダンテはアルコールがいくらでも入るのだが、大和がいるのでスパークリングロゼを一本だけ開けることにした。
「ふわぁっ、美味しいですね〜!」
「でしょー」
 たっぷりのチーズとトマトソースが絡んだ具が溢れ出す、キッシュのような厚みのピザを、はふはふと頬張る大和が可愛らしくて、ダンテの顔がデレデレとだらしなくなる。
「僕、普通のピザだと食べにくくて・・・・・・こうして、ナイフとフォークがあればいいんですけど」
「あぁ、手掴みは難しいか・・・・・・」
 そうなんです、と眉が垂れる大和の右腕は義手だ。料理に直接触れるのは避けたいし、具を落とさないようにバランスをとるのも、難しいだろう。
「オーブンがあれば、カルツォーネを作ってあげられるんだけどなぁ」
「それって、ピザを半分に折った、包み焼きみたいなものですよね?え、ダンテさん作れるんですか?ピザ生地ですよ?」
「作れるよ」
 こうやって広げる、と指先でピザ生地を回す真似をしていた大和は、あっさり答えたダンテをまじまじと見詰め返してくる。
「すごいですね」
「まあ、買った方が早いけど」
 好みの食感やサイズにするには、自分で作るしかない。
 料理はてんで苦手だという大和を、ダンテは意外だと思いつつも、そんなところも可愛らしくてまた好きだなと思ってしまうので、少しも瑕瑾になるような事がない。
「食べたい料理のリクエストがあれば、できるだけ作るよ」
「えっ・・・・・・」
 なんだか嬉しそうなトーンの声がしたが、その後が続かないので視線を上げれば、大和は恥ずかしそうに視線を彷徨わせている。
「あの・・・・・・オムライスは、作ってもらえますか?」
「オムライス?チキンライスを卵で包んだ料理?」
「そうです」
 こちらに来てから何度か食べたので、ダンテでも味のイメージはできる。上にかけるのはトマトソースがいいと大和が言うので、レシピを探しておくことにする。
「わかった。上手く包めるように練習しておくよ」
「お願いします」
 少し頬を染めた、大和のはにかんだ微笑に誓って、ダンテは絶対に美味いオムライスを作ると決意した。
 美味い料理と酒で会話がはずめば、自然と今回の褒賞の元になった事件の話になる。
 活動家や市民団体もそうだが、ノンフィクション作家を含めたマスコミの取材申し込みも少なくないと大和は言う。
「忙しすぎて、なかなか対応できないんですけどね。緊急性がなければ、中央に丸投げですよ」
 今回は相手の支持基盤が地元の名坂市にあったことと、あの通りの勢いで、長門たちが通う名坂高校まで標的になってしまったので、早急に対処する必要があったのだ。
「てっきり、俺を怒らせたくてやっているのかと・・・・・・」
 敵を知るためとはいえ、大和が罵倒され続ける映像を見るのは、ダンテにとってかなり苦痛だった。
「そんなはずないじゃないですか!あれは・・・・・・あれは、僕だって見られたくなかったんですよ!」
「オナニー用に音声だけ抜き取って持っていっているのに?」
「っ・・・・・・!?なんで知っているんです?」
「本当に私用保存してたんだ・・・・・・そりゃあ、ハメ撮りデータ欲しいって言うくらいだしなぁ。若さを貶され、容姿を貶され、出自を貶され、仕事を貶され、存在を貶され・・・・・・それでよく気持ちよくなれるよね」
 変態極まってるよねーとぼやくダンテの視線に、大和は快感で緩む頬を両手で押さえた。
「あぁっ、ありがとうございます、もっと罵ってください。ですが、本当に助かりました。広報の仕事中に悦ぶわけにもいかなくて」
「広報以外の仕事中だったら喘ぎだすのか・・・・・・」
「え、あ・・・・・・言葉の綾です」
 限りなく信用の置けない否定に、ダンテは額を覆う。大和が困っているというから、協力はしたが・・・・・・。
「俺じゃなくても出来そうな人がいたのに・・・・・・」
「え?もしかして、ルイスさんの事ですか?」
 中性的で甘く小奇麗な顔をした青年の特徴を言う大和に、ダンテはそうだと頷いた。
「よくわかりましたね。ルイスさんには無理だって断られちゃったんですよ。彼には、主に情報の収集と分析をお願いしているので、仕方がないところはあるんですが・・・・・・なにかそういう話をしたんですか?」
「いいや。完全に勘」
 あの場にいたことで、武蔵、大和に次ぐ、作戦司令部の幹部だというのはわかるが、ダンテと同じように口が巧いタイプだと判断したのは、直感だ。
「一目でやりにくいなと思ったよ。準備中にちょっとだけ話したけど、俺、試されているのかと思ったもん」
「ええっ・・・・・・」
 ダンテのうがった見方に、大和は少々呆れたようだが、ダンテは自分の感覚を信じた。
「ルイスさんは、ダンテさんを戦略家だって褒めていましたよ。おしゃべりが上手だけど、しゃべらない判断も的確で、情報工作員そのものだって」
「ほらね。しゃべらない方がいい情報を知っている人間でなきゃ、その感想は出てこないよ。そういう人は、味方でいてくれるなら心強いけど・・・・・・敵だったら、俺は穏便に避けるね。勝算に対するコストもリスクも高すぎる」
 あれは宮廷で生き延びるタイプだと、ダンテは珍しく眉間にしわを寄せて唸った。まず勝利、もしくは戦略的撤退という最終状況を想定し、そのための条件を整えてから動いたうえで、不必要に戦線を拡大させずに素早く終息させて撤収するダンテと違い、ルイスは鋭利な武器を隠せるだけ身にまとって、それらを時に外からも随時入れ替えながら、際限のない舞台裏で華麗に踊り続けられるのだろう。話しかけられた瞬間に皮膚がそそけ立った感覚を思い出し、ダンテはますます口元を引き締めた。第一印象からしていけ好かないとは思ったが、ルイスを出し抜こうとしても、生半可なやり方では見抜かれるにちがいない。
(ヘドロだらけの臭い下水みたいな泥沼を平気で泳いで、他人を溺れさせてでも自分が欲しい宝石をつまみ上げるような怪物に見えたけどな。倫理観がぶっ壊れてんじゃなきゃ、それが普通の世界で生きてるんだろ。おっかねぇな・・・・・・)
「ダンテさんって、本当に感情が口元にでますね」
「悪かったな。気を付けるよ」
 大和といるのに、レパルスとしゃべっている時のように、ぞんざいで砕けた口調で呟いてしまい、ダンテは慌てて目を丸くしている大和に謝った。
「あわぁ、ごめん、乱暴な言い方をして」
「いえ、他人行儀さがないダンテさんだったので、なんだか新鮮でした」
 大和はくすくすと笑って許してくれたが、馬が合わないなりに評価し合う他人というのも、滑稽に見えたかもしれない。
「じゃあ、どうしてルイスさんが僕の代わりをするのを断ったのか、ダンテさんにはわかりますか?」
 ダンテは軽くうなずいて、大和の質問に答えた。
「あの三人の中に、顔を合わせると不味い相手がいたんだと思う。以前身分を隠して会ったことがあるか、これから顔を知られる可能性があり、今後の活動に支障が出かねないと判断した。・・・・・・そうでないなら、単に面倒くさかったんじゃないかな」
「ありがとうございます。簡潔明快で、大変説得力のある回答でした」
 大和がすっきりした微笑を浮かべたので、及第点はとれたらしい。