白いカトレアの暴威 ―4―


 つんとした、むせかえるように強い性の臭いが立ち込める中、病的などとめ色をした、一見して男性器に見える巨大な物体が、激しく何度も池のほとりにぶつかっているのを見つけて、センは唖然と立ち尽くした。
 目測で縦に六メートル半、直径はおそらくニメートルほどだろうが、横幅は一番広い接地面でやはり六メートル近い。長い三本の尾はサソリの様に節くれだって巻きあがり、毒針で攻撃するためというよりも、身体のバランスをとるように揺れている。立ち上る紺青色の瘴気が、まるで触手のようにうねっては、池の周囲ではじかれて霧散する。人間の悲鳴以外に、切羽詰まった喘ぎ声のような、それでいて相手をいたぶって楽しんでいるような、奇妙な笑い声が響いている。
 ぶよぶよと肥大しているように見えた接地部分は、ひとつひとつがビーチボール大の乳房で覆われているのがわかった。血管を太く浮かび上がらせて圧倒的なまでにそそり立った御柱は、肉感的な力強さを感じさせたが、激しくぶつかっていくので、ともすれば自分の股間が切なくなるようだ。後姿だけでも十分想像できる形状だが、できれば正面から見たくはない、とセンはそそけ立つ首筋をひと撫でして覚悟を決めた。
「やめろ、オミ!!」
 オミを止められるのは自分だけだという、自信とも責任感ともつかない感情に身を任せ、蒼褪めた桑の実のような乳房に覆われた太い胴にしがみつく。瞬間、ビリビリとした痛みが全身を貫いて手を離しかけたが、詰めた息を吐いて下っ腹に力を込める。
「ぐッ・・・・・・、やめるんだ、オミ!!そんなに力いっぱい結界にぶつかったら痛いだろう!?オミ!!おい、聞け!!オミ!!!」
「・・・・・・センチャン?」
 引きずられまいとしがみついて脚を踏ん張る小さな生き物に気が付いてくれたか、小さな牙をびっしりと生やした巨大な開口部を襞の中に隠し、女の子のような悲鳴をあげて魔物は縮んでいった。
「ひええぇぇぇぇんっ!!見られたぁあああああ!!!ふえええぇぇん!」
「お、おぅ・・・・・・」
 巨大なものがしゅるしゅると縮んでいくのは妙な気分だったが、ようやく人間サイズに戻って座り込んだオミは、センとのセックスをしている時のような、文様が浮き出た姿になっていた。
「ああ、この人間サイズがいい。あんなにでかいアレだと、さすがにどこ触っていいのか、ちょっとわからんからな」
「うえぇぇっ、ごべんなじゃいぃっ、ひっぐ、嫌わないでぇぇ」
「大丈夫だ、嫌いじゃねえよ。ほら、もう泣くなって」
 えぐえぐとしゃくりあげながらしがみついてくるオミを撫で、センはほっと息を吐き出した。巻き添えを食って自分が死んだら、それこそオミは発狂したに違いない。我ながら、ずいぶん向こう見ずな事をしたものだ。
「それで・・・・・・やっぱり、あいつが元凶か」
 池にかけられた橋の真ん中で、半分気絶したように座り込んでいる男がいる。センたちを追い払った、あの紫の袴をはいた若い男だ。
「なんだったんだ?・・・・・・ほら、もう泣き止めって。オミはあいつが怪しいから、ここまで出てきたんだろう?」
「うん」
 恥ずかしそうに涙を拭ったオミは、センにべったりとくっついたまま、ひょいと片手を振った。その何気ない一撃で、橋のこちら側にある両の親柱と控柱がまとめて粉砕され、足場も地面から浮いてしまった。同時に、池を覆っていた結界も高い音を立てて爆ぜ割れた。
「っ・・・・・・びっくりした。なんだ、簡単に結界を壊せたんじゃないか」
「壊すのは簡単だけど、あいつを怖がらせないと反省しないかなぁって」
 センは額を押さえたが、オミの言い分にも一理ある。相手にけがをさせずに、戦闘不能状態にするのは大事だ。
 センはオミをくっつけたまま壊れた橋に飛び移り、御神鏡を回収した。男はオミが襟首をつかんで引きずっている。
「セン!セン、大丈夫か!?」
 まったく元気な加納が、赤い狩衣の宮司を伴って走ってきた。センがオミに目配せをすると、オミは恥ずかしそうに微笑んで、いつもの上品な若者の姿になった。ちゃんと服を着ていてくれると、センも落ち着く。
「宮司さん、これがご神体ですね?」
「おお、ありがとう!!ありがとう!!」
 通常、御神鏡と言えば縁がなく裏面が凝った造りになっているが、この神社の御神鏡は少々風変わりで、どこか西洋風な縁飾りが付いた、可愛らしいものだった。
「さて・・・・・・」
 加納の厳しい視線は、引きずられている男からオミに移って、だらしなく蕩けた。
「はうっ・・・・・・」
「加納さん、無理しないでください」
「お前さんは本当に、精神も鋼で出来とると違うか?」
「まさか。俺はこいつにメロメロです。全然鋼じゃないですよ」
 さっきはガン泣きしていたのに、もう嬉しそうににこにこしているオミに、センは小さく苦笑いを浮かべて説明を促した。
「これは人間だけど、インウィティアの眷属に取り憑かれていたんだよ」
「インウィティア・・・・・・?たしか、『嫉妬』か?」
「そうだよ」
 顔を見合わせる神主たちに、実演が必要だとオミは男を持ち上げた。
「こいつは、センちゃんが持っている刀が、ここに持ち込まれるのが嫌だったんだよ。自分が触れないものができるからね」
「御神鏡は触れたのに?」
「その鏡は古いだけで、多少の神力はあっても、退魔の効果はないもの。センちゃん、その刀をこいつにくっつけてみて」
 センが抱えていた刀を包みごと男の肩に押し当てると、凄まじい女の悲鳴が上がって男の体が飛び跳ねた。
「出たな」
 男の体を放り出し、オミは池の方に向き直った。橋の上に、着物を着た女のような影がわだかまっている。
「いったい、どうやって神社に入り込んだんだ?人間に取り憑けば、いくらでも入ってこられるのか?」
「そんなことないよ。あれにとっては、あの池の橋が通用門になっているんだよ。取り憑いた人間が中に入ったら、別の橋を通じてこの池に入り込めばいい」
 オミは宮司の疑問をといて、センを守るように一歩前に出た。
「オノレェ・・・・・・」
「相手が悪かったねえ。いくら橋の神というステータスがあっても、『嫉妬』の眷属である以上、『色欲』そのものの僕には敵わないよ」
「橋の神・・・・・・まさか、橋姫か!?」
 加納の愕然とした声に、鬼女の金切り声がかぶさった。
「ナンデ、ワタシダケェェェ・・・・・・!!!」
 丑の刻参りの恰好を最初にしたと言われる橋姫の形相に、人間の男たちは思わず腰が引ける。
「ミンナ、キライイイィィィィ!!キライイイイイィィッ!!!」
 橋姫が叫ぶと池の水面が泡立ち、浴衣を着崩したような格好の少女たちが次々と現れた。にっこりと微笑んで人間たちに近づこうとして、その笑顔が恐怖にひきつり、動きも固まった。
「・・・・・・どうしたんだ?」
 身構えていたセンが首を傾げると、呆れたような苦笑いで、オミが答えてくれた。
「彼女たちは川姫。欧州で言うところの、ウェンディーネやローレライの類だよ。水妖というくくりでは河童と同族だね。ただ・・・・・・河童と違って、彼女たちはほとんど『色欲』の支配下なんだよ。実力も、センちゃんの家にまとわりついていた奴らより、ほんのちょっと上っていうだけかな」
「う、わぁ・・・・・・」
 それは川娘たちが哀れだ。攻撃しろと呼び出されたら、相手が自分たちの最上長だったのだから。すでに池の周囲に集まっている夢魔たちにすごまれて、川姫たちは次々と池の中へと逃げ戻って行ってしまった。
「はぁ。『嫉妬』の眷属は一点集中することで、爆発的な力を発揮しやすいけど、致命的に頭が悪くてね。・・・・・・あの鏡を持っていたら、もう少し、実力以上の力を出せたかもしれないけど」
「なるほど。それであいつは、御神鏡を盗んでここに立て籠もろうとしたんだな」
 宮司が大切に抱えている御神鏡を見て、センは納得したとうなずいた。
「オマエバッカリ!オマエバッカリツヨイナンテ!ズルイ!ズルイ!!ヒキョウモノ!キライ!キライイイイイィィ!!」
 ぼこり、と池の表面が黒く盛り上がり、そこから長い黒髪をたらした巨大な女の頭が高く持ち上がった。水が滴る黒髪がまとわりつくその体は、大蛇。
「へぇ。神社の水でも濡女って召喚できるんだ」
「呑気に感心している場合か!」
「うーん、話の通じない相手なら、体で納得してもらうしかないね」
 オミは少し考えるように首を傾げ、橋姫と濡女を交互に眺めやった。
「元人間の橋姫は、渡辺綱わたなべのつなに斬られたように、力のある刀が滅法苦手。濡女は僕がひきつけるから、センちゃんはあのヒステリー女をやってもらえる?僕がやるよりスマートに済むと思うんだ」
「わかった」
 オミが空へ飛び立ち、長大な蛇の尾をかわして巨大な女の頭に拳を振るうと、濡女は地響きを立てて地面に打倒され、胴体に叩かれて水面から噴きあがった水が、雨の様に降り注いできた。
「お前にも、髭切ひげきりの様な箔が付くといいな」
 包んでいた布をはぎとり、センは白鞘の日本刀を携えて、半壊した橋に飛び移っていった。
「ギエエエエェェェェェッ!!!」
「情念で人は振り返らない。忍耐、鍛錬、精進を旨とせよ!」
 鬼火をまとってつかみかかってくる鬼女に、センは低く構えた姿勢から刀を抜き放った。
 センに退魔の技量はない。ただ、自分と他者を比べ、他人を妬み、羨むことしかできない不幸を哀れに思い、その不幸を切り捨てたいと願った。
「・・・・・・ァ、ぁあああああああ・・・・・・!!!」
「自分だけの幸せを見つけるんだ。お前には、橋の守り神という立派な名誉がある。誰かがなりたくともなれない、橋姫だけの名誉だ」
 鬼女を斬ったか、その手ごたえはセンにはわからなかった。それでも、女の悲鳴が消えた後には、白檀のような、いい香りが残っていた。
 センは自分が持っている刀を眺め、一振りの後、慎重に鞘に戻した。
「素晴らしい刀だ。さすがは榎枝刀匠の逸品だな」
 池は壊れて、あたり一面が水浸しになっていたが、濡女の姿はなく、オミの眷属たちも姿を消していた。
 神社の境内には、橋姫の妖力もオミの魔力にも支配されていない、温かな空気が戻っていた。