天国と地獄と ―2―


 ざあざあと激しく吹き付ける風と水の感触に、彼はふと目を覚ました。意外なことに、彼は拘束を解かれた上に誰かに膝枕をされ、がたがたと揺れる床から振り落とされないよう支えられているようだった。
「起きたか?」
 雷でも落ちたような気がして、彼は飛び起きかけた。かけられた声は、耳を聾するほど大きいわけではなかったが、心の底から震え上がらせられるような威圧感があった。
「急に動くな、人間。落ちたら、今度こそミンチになるぞ」
「・・・・・・・・・・・・」
 声を出そうとした口の中に、大量の雨粒が入ってきてむせた。さっきから吹き付けてくる雨風と真っ暗な空を見上げ、嵐のただなかにいるらしいと察する。
「多少マシなはずだが・・・・・・脆弱な人間の治療など、我はやったことが無いからな」
 ゆっくりと起こされ、ひじ掛けに乗せられていた脚を下ろして、ちゃんと座る。そこは、馬車の御者台だった。目の前には、闇の中を疾走する馬が、雨粒を跳ね返してうすぼんやりと見えた。
 体はあちこち痛いが、我慢できないほどではない。ぐったりと背を預けて隣を見ると、彼はもう一度雷に打たれたような気分になった。
 そこには、光を放つように美しい男が座っていた。いや、この暗闇ではっきりと見えるのだから、実際に淡く光を放っているのだろう。年の頃は、自分よりも少し年上に見える。三十過ぎくらいだろうか。座っているから正確にはわからないが、中肉中背、太い骨と引き締まった筋肉をもっていそうだ。上等な夜会服にその身を包み、まるでさっきまで王宮の舞踏会にいたように見える。
 子供の頃に見た麦畑のような小麦色の肌だが、その面にはシミひとつなく、若々しい。癖のある黒髪には、稲妻のように金髪が数房揺れ、それがとても洒落ている。意志の強そうながっちりとした顎の輪郭の中に、高い鷲鼻と厚い唇が配され、威風堂々とした面構えにため息が出るようだ。しかし何より異様なのは、その真っ赤な目だ。ごうごうと燃える炉を思わせるようなきらめきを持った赤い目が、ふさふさした眉の下から彼を見つめていた。
「・・・・・・我か?我はイラという。おぬしを拾ったのは気紛れだ。おぬしは炭酸水のような無軌道さのない、熟成されて実に美味い怒りを生産するからな」
 自分には相変わらず雨風が吹き付けているのに、イラと名乗った男には、水滴ひとつ付いていない。いよいよ、強大な精霊か悪魔の類だろうかと、肝がすくみ上る。
「ふははっ、似たようなものよ。しかして全くの別物。我はおぬしでもあり、またその他の全てでもある」
 イラが機嫌良さそうに片手で軽く手綱振ると、馬たちはさらに速度を上げた。その様子は、もはや狂乱に近く、彼は必死に両手足を踏ん張って、座席に背と尻を押し付けた。
「のう、人間よ。おぬしはなぜ、復讐しようと思ったのだ?」
 狭く不安定な足場でも、イラは難なく立ち上がって、空中に胸を反らせた。
「同族殺しで天国へ行けないのは、おぬしたちにはまっこと苦痛ではないのか?おぬしの知己は、諫めはしなかったのか?」
 その揶揄うような声に、彼は腹の底から煮えたぎる熱い物がこみ上がってきた。イラは、家族を見殺しにした神に期待しろというのか、それとも、そんなことをしても死んだ家族が喜ばないとでもいうつもりだろうか。
 彼が復讐を志し、必ず完遂すると闘志を燃やし続けられたのは、大切なものを奪われた悲しみと、留まることを知らずに噴きだす怒りのせいだ。誰の為でもない、自分を溺れさせる悲しみと、それ以上に身を焦がす、弱者の痛みを知らない者たちへの激しい怒りを鎮めるためだ。
「・・・・・・い。実にい」
 どこか陶然としたイラの呟きが降ってきて、次の瞬間には両頬を手のひらに包まれて、目の前に劫火を宿した目があった。
「おぬしを我が眷属の町に送り届けよう。そこで、最後の復讐を成し遂げるまで、怒りを放ち続けるがいい」
 甘く囁く低い声が頭の中に染み込んできて、彼は再び、気を失うように眠りの中に落ちていった。

 次に目が覚めた時、彼の周りはざわざわと人がいる気配がして、喉が渇いたなとぼんやり思った。
「ぅ・・・・・・」
 息苦しいうえに口の中が少し苦く、体中が痛い。特に、口の中や顔の中が燃えるようだ。両手を動かすと、身体にかけられていたシーツにするすると擦れ、添え木をされた腕とごわついた手指が見えた。
「なんとか、生き延びたようですね」
 頭を動かすと、長い金髪を背に垂らした美しい女が覗きこんできた。色白で、目は明るい緑色のようだが、あまり温かみのある声ではない。
「しゃべれます?」
「・・・・・・っ、ぁ・・・・・・」
 彼の唇からは、はぁはぁと息が出るだけで、言葉にならない。
「無理じゃよ。舌の肉が縮んでしまっておる。喉も焼かれておるし、鼻と顎が腐り落ちなかっただけ、御の字じゃ」
 色白の女の横に立ったのは、いやに年寄りくさいしゃべり方だったが、緑味を帯びた茶色の髪を結い上げた妙齢の女だった。
「カクの旦那、どうじゃ?」
 にょきっと枕元から顔を覗き込んできた男は、人間というよりも、大きな猿のように見えた。
「『大きな猿』と思っているな」
「ふはっ。違いないよ、旦那。それで、この子はどうやってここに来たって?御者のいない馬車で、人間がたった一人、ここにたどり着くはずがない」
 すさまじい勢いでいままでのことが思い浮かんでは消えたが、御者のいない馬車と聞いて、一緒にいたはずの男を思い出した。
「『貴族のような服装をした、イラ、という男といた』と思うておるな」
「イラ?」
「知り合いかい?」
「いいえ。でも、我らの結界を破るような者で、そんな名前は聞いたことが無い」
 白っぽい女は眉間にしわを寄せて顎に手を当てて考え込んだので、もっとヒントになるようなものはないかと記憶をたどった。
「・・・・・・『眷属の町、に・・・・・・送り届けてやる』と思っているな」
「なんだと?」
 それまではしなかった新たな男の声に驚く。若々しくて張りのある声は、舌打ちしそうな勢いでため息をついた。
「私の一存では処理ができなくなった。城に行ってくる」
「いってらっしゃい」
「この子は任せておきな」
「頼む。それから、そいつを食べるんじゃないぞ」
「ほっほ。まだ、待っといてやるわい」
 足音も少なくドアが閉まる音がすると、ゆるゆると息を吐きながら背中の力を抜いた。寝かされているベッドが、とても上等なものだということはわかる。
「『喉が渇いた』『顔が痛い』と思っているな」
 カクと呼ばれた猿のような男の、皴の深い顔から吐き出される言葉に、彼はこくりと頷いた。
「水を持ってきてあげる。それから、なにか食べられそう?」
 白っぽい女に聞かれ、彼は頷いた。腹は減っていたし、粥のようなものなら食べられそうだ。そうカクと呼ばれた男が伝えると、彼女は静かに部屋を出ていった。
「さぁて。お前さんのおかげで、いまこの町はちょっとしたパニックなんじゃよ。詳しく話を聞こうかね」
 枕元に椅子を寄せて座った女は、紅を塗った綺麗な唇をニタリと釣り上げた。


 公人としては馬鹿かと思われるほど開明的だが、人格者として堅物なきらいがあって馬が合わない父親の書斎で、ヴェスパーは苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したような顔で報告した。
「重傷を負った人間が、エルフと妖精が築いた結界を突き破ってきた、か・・・・・・」
 それは恐らく、現在のトランクィッスル最高の防御機構をあっさり破られたと同意義だった。ホルトゥス州の長である伯爵も、灰色が混じり始めた眉を深く寄せて唸る。
「私はいまのところ、人間をこの町に入れるつもりはありません。ですが、あの人間をここに送り届けた者が、トランクィッスルを『眷属の町』と表現したのが気がかりです」
「お前の言うとおりだ。我々より上位の者が、なにかしらの意図があって送り込んできた・・・・・・わしも同じ考えだ。それで、トランクィッスルをそう表現する者の心当たりは?」
「ないからここに来たんです」
 ぶっすーと不機嫌さを隠そうともしないヴェスパーを、伯爵はくつくつと喉の奥で笑う。頭も良いし、民に対する責任感もある息子だが、やんちゃな子供のようなところは、いつまでたっても直らずに、伯爵を呆れさせ、また楽しませた。
「あいわかった。人間を車内に残して姿を消した御者の名は、わかっておるのか?」
「イラ、というそうです」
「イラ・・・・・・!?」
「お知り合いか?」
 伯爵の反応が大きかったので、ヴェスパーの方が軽く驚いた。伯爵は椅子から立ち上がって、本棚から一冊の大きな本を取り出してきた。革表紙の立派な本が机の上で開かれ、伯爵の青白い指がページをめくっていく。
「おそらく、この者だろう」
 とんとんと爪が指したのは、版画の一部だった。七匹の強大な魔物たちが描かれており、伯爵が示した魔物の冠には『IRA』の文字があった。
「罪源の魔物・・・・・・!?」
「『憤怒イラ』・・・・・・たしかに、我々吸血鬼は、『憤怒』の影響下にある存在だ。その者がトランクィッスルを『眷属の町』と呼んでもおかしくはない」
 罪源と呼ばれる彼らは、普通の魔物ではない。生きとし生けるもの全てから発生する、概念であり性質であり現象である。その力は、この地を統べる伯爵すら足元にも及ばない。力のある魔王、あるいは神でなければ、対抗はおぼつかないだろう。
 想像外の事態に唸り声を上げるヴェスパーに、伯爵は落ち着いた声をかけた。
「そう張り詰めて考えることはない、我が息子よ。まず、その人間がなぜここに連れてこられたのか、よく話を聞いてみればいい。『憤怒』が我々に何をさせようとしているのかはわからないが、理由の一端くらいは察せよう」
「うむ・・・・・・」
「トランクィッスルの防衛に関しては、『憤怒』の意図を理解してからでも遅くない。なに、我々が手も足も出ない存在の干渉があったのだ。結界も破られて当然なのだから、お前も、エルフたちも、なにも落ち込むことはない」
「・・・・・・・・・・・・」
 しばしの沈黙で感情と理性を整合させることに成功したらしいヴェスパーは、ため息をついて頷いた。
「わかりました。相手の正体が判明しているなら、まだ対応の仕方もあります」
「その通りだ。冷静な町長で助かる」
「嫌味ですか」
「褒めとるのだ」
 行儀悪く足音を立てて去るヴェスパーを見送り、伯爵は版画を載せた本を静かに閉じた。