天国と地獄と ―3―


 人間が載せられていた馬車は、種も仕掛けもない普通の馬車だった。ただ、それが将官などを乗せる軍の所有品だったため、ヴェスパーはすぐに処分を決めた。なかなか良い馬だったが、心身の消耗が激しくほとんど狂死寸前で、生かしておくのもかわいそうだった。
 エルフのエーレベッカが言っていた、「馬車も人も強烈な魔力にさらされた形跡がある」というのは誤りではなかった。罪源が関わっていたのでは、「強烈」という表現でも生温いほどだ。ヴェスパーはその点をすぐに周知させ、特に結界を突破されて動揺するエルフや妖精たちを安心させると同時に、保護した人間に危害を加えないよう注意を呼び掛けた。
 問題は、この町に転がり込んできた人間だ。治療にあたった魔女のジョセアラは、「死んで当然の状態を誰かが持ち直させた」と言っており、これもまた「誰か」が『憤怒』ならば理にかなっている。ただ、罪源が人間を助けたなどという事例が、古今東西にあったかというと、ヴェスパーは寡聞にして知らない。
「うーん・・・・・・」
 自分の町を混乱させる厄介事だとは思ったが、ジョセアラが聞き取った人間の経緯については納得できるものがあった。『憤怒』が肩入れしたというのも、嘘ではなさそうだ。
 これ以上の判断は、ヴェスパー自身が人間と話し合ってみない事には決められないが、「厄介事の原因」という認識からか、なかなか腰が重かった。たぶん、トランクィッスルに人間を入れたくないというヴェスパーの方針を力任せに覆されたから、プライドが傷付いているのだろう。
 そこまで自覚して、誰かに指摘されるのも癪だと腹を決めると、ヴェスパーは人間に充てている部屋に向かって歩き始めた。
 贅沢とは言わないが、町長の邸宅に相応しく作った家の中を歩き、人間がベッドの上で眠っているのを見て、いまが夜中だと気が付いた。次の夕方に出直そうかと考えたところで、包帯が巻かれた頭が動いた。
「・・・・・・・・・・・・」
 ヴェスパーがなんと声を掛けようかと逡巡しているうちに、人間はベッドに起き上がって何かを引き寄せた。カツカツという音の後に、それが黒板だと知れた。
『こんばんは』
 少なくとも、むやみに怯えてはいないようだ。ヴェスパーはカンテラを灯し、ベッドのそばに腰を下した。
「こんばんは。回復は順調・・・・・・なのか?」
 頭も首も包帯ぐるぐる巻きでよくわからないが、本人は笑った様子で頷いた。
 痩せた人間だった。火傷を含めた大怪我で弱っているのも当たり前だが、元々栄養状態も良くなかったのかもしれない。筋張った腕や手で火傷を免れた部分を見る限り、子供でも年寄りでもないが、大人というには若いように思えた。
「私は町長のヴェスパーという者だ。キミの事情は把握しているので、これからの話をしに来た」
 包帯頭がこくんと頷き、さらさらと手を動かした。
『人間の俺を匿ってくれて感謝しています。元気になったらすぐに出ていくので、もう少しここにいさせてください』
「出ていくのか?」
 自分から出ていくと言うのを少し意外に感じたが、人外だらけの町でたった一人混じっているのも生きた心地がしないだろう。
『俺のせいで町が混乱していると聞きました。手当てしてもらって本当にありがたく思いますが、俺にはやらなきゃいけない事もあるし、すぐに発ちたいと思っています』
「ふむ・・・・・・」
 せっかちな男だなとヴェスパーは首を傾げ、『憤怒』について聞いてみた。
「キミが会った『憤怒』から、なにか言われたことはないか?」
『・・・・・・俺は美味い怒りを生産する。この町に送り届けるから、最後の復讐が終わるまで、怒りを放ち続けろ、と』
「なるほど。ジョセアラから聞いたかもしれないが、あれら罪源の魔物という存在は、それぞれが司るものを食べて生きている。キミの怒りが美味いから生きろというのは、ありえそうな話だ。・・・・・・ん?」
 ヴェスパーはふと違和感を覚え、人間の顔をじっと見つめてみた。両手で頬を固定すると驚いたようだが、わずかな星明りでも見通せるヴェスパーには、カンテラの明かりを跳ね返す人間の目が白く濁っているように見えた。
「キミは、目が見えていないのか?」
 まつ毛も焼け焦げてなくなった目が、ぱちくりと瞬きし、ふるふると首が横に振られた。
『見えていますよ?』
 しかしヴェスパーには、その目は熱にやられて失明しているように見えた。元は綺麗な青い目だったろうに、虹彩も瞳孔も、膜がかかったように白く濁っている。どうなっているのかとよく目を凝らすと、それ以上干渉するなとでも言いたげに、白濁した瞳孔の奥からオレンジ色の炎がきらめいた。
「っ・・・・・・そうか、『憤怒』の力か!キミはすでに、『憤怒』から力を分けられているのだな!?」
 驚きを隠せないヴェスパーに、人間は少しためらった後、シーツを剥いで半ズボンからむき出しになった両足首を見せた。
「なんだこれは?」
 そこには、人間のものよりはるかに大きな手でつかまれたような、赤黒い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
『貴方には見えるのですね。ジョセアラは、なにも見えないと言っていました』
「なるほど。『憤怒』の影響下にある者にしか見えないのか」
 燃え盛る炎の足枷にも見えるその痣が、生き延びた代償なのか。生ある限り『憤怒』の食餌であるべしという、囚われの印なのか。
「・・・・・・ふむ、気に入った。今日からキミは、私の義兄弟としよう」
 人間の目が開いたまま、こてっと首が傾いだ。言われた意味が分かっていないようだ。
「同じ『憤怒』の眷属という意味だ。それに、キミという人間がいてくれると、この町の人間に対する法律を具体的に検討するよい材料になると思う」
 嫌だ嫌だと遠ざけておくよりも、気に入ったものがそばでサポートしてくれれば、一歩ずつでも先に進めるだろう。

ひとつ、帰る場所がない者
ひとつ、人間から迫害された者
ひとつ、眷属及び肉体以外の生餌として、完全に従属している者
ひとつ、上記のいずれかで、トランクィッスルの法を順守する者

 さしあたり、このくらいならトランクィッスルに入れてやってもいいかもしれないとヴェスパーは思う。追々、公事及び業務に就くために認められた者なども加えるべきだろう。
「ふむ。キミのおかげで、この町はより良くなっていくに違いない。よろしく頼む」
 でも、と黒く焦げた肉を見せる唇が震えた。
「この町に住み、この町で働けばいい。さしあたっては、私の相談役ということにしよう。その代わりと言っては何だが、君の復讐について、私にも手伝わせてくれ」
『待って。こんな個人的なことに、貴方を巻き込むわけにはいかない』
 焦るせいで指先が震え、黒板に書かれる文字がよれている。
「相手は貴族、私も貴族。相手にとって不足はなかろう?ふふっ、人間相手の政戦謀略か。挑み甲斐があるじゃないか」
 いずれ父の跡を継ぐのなら、いまから慣れておいて無駄ではない。地方の小貴族なら、立場はヴェスパーと大して変わらないだろう。
「私はキミの手伝いをするだけだ。相手をどうしたいのか、最終的な結末は、キミの望むようにしよう。それとも、私のお膳立てでは不満かな?」
 ヴェスパーが見つめる前で、人間はうろたえ、もじもじと白墨を弄ったのち、少し時間が欲しいと書いた。
「わかった。急ぎすぎるものではないな。体が治るまでに、ゆっくり考えてくれればいい」
 そうヴェスパーは言ったが、自分が思った通り以外になるなど考えていないから、自分のお気に入りには唾を付けておくことを忘れなかった。
 油薬で少しべたついたが、ボロボロになった口腔を労わるように舌先で撫で、しばらくぶりに温かい生きた血の気を失敬する。
「んっ・・・・・・ふ、は・・・・・・ぁ、あ!はっ、ァ・・・・・・!」
 言葉を話すことができなくなった唇から甘い悲鳴が上がり、白墨と黒板を持っていた指先がヴェスパーに縋りついてくる。怪我人に無理をさせてはいけないから、ほんのちょっとだけもらって我慢して、ヴェスパーは赤い唇を離した。
「個人的には、こんな風に時々ご馳走をしてくれると嬉しいな、兄弟よ」
 喘いだ胸を落ち着けるようにベッドに寝かせ、潤んだ目をそっと手のひらで閉じさせた。
「おやすみ。良い夢を」
 カンテラの火を落として怪我人の部屋を出ると、ヴェスパーは精力的に今夜の執務に取り掛かっていくのだった。


 あの石牢で死にかけてから数日・・・・・・正確には覚えていないが、保護されてから十日ほどは過ぎたと彼は思っていた。
 相変わらず言葉を発することは出来なかったが、そういえば御者台の上で、イラはしゃべれないはずの彼と会話をしていたと思い出す。こちらの思考を読んだのだろう。今思い返してしても、とても逆らったり嘘や誤魔化しがきいたりするような相手だとは思えない。
 そんなイラに連れてこられた町は、彼にとって驚きと畏怖に溢れていた。人間以外の種族が集う町、そんな所がこの世にあるなんて思いもしなかった。吸血鬼も魔女も、みんな迷信で、神も悪魔も人間が都合よく作り出した架空の存在だと思っていた。
 しかし現実に、彼は強大な魔物に命を救われ、吸血鬼が支配する町に匿われて、魔女の手当てを受けた。エルフが、妖精が、魔獣が、ドラゴンが、興味津々で窓から覗きこみ、物珍しそうに見舞いに来てくれた。尤も、半分くらいは「食べられないのか」と本気で聞いてきたが。
 現在この町では、食用の人間は死体でのみの搬入になり、いわゆる生餌は禁じられているそうだ。しかしそうすると、肉や臓器は食べなくても、精気を吸い取るタイプの魔物は、この町で食料を調達できない。この難題を解決するのに、彼の存在が何らかの足掛かりにはなるはずだと考えられているらしい。
 その件に連なることでもあるが、ヴェスパーが彼の血の気を吸ったことは、ジョセアラにすぐにばれ、こっぴどく叱られていた。回復が遅れると言われればそれまでだが、彼自身としては、そんなに怒らなくてもと思う。
(気持ちよかったし・・・・・・)
 誰かに抱きしめてもらったことも、誰かに必要とされたことも、遠く温かい記憶の中だけになっていた。もう一度、誰かの手を握ることができて、その相手が自分の復讐も手伝ってくれるというのなら、疲れ切った身体を、もう少し預けてもいいという気持ちになっていた。
 彼がヴェスパーにした返事は、ヴェスパーが望むものであり、揃えた書類を抱えて満足そうに微笑まれた。
「霊に導かれて地獄を巡った詩人よりも、もっとずっと有意義な時間を過ごすといい。歓迎しよう、義兄弟ダンテ。ようこそトランクィッスルへ」

 これは、最初にトランクィッスルの住人になった人間の話である。