天国と地獄と ―1―



― いまはむかし、トランクィッスルという地名が出来たばかりの頃。

 これは、ある人間の物語である。
 彼には両親と祖父母、そして幼い二人の弟妹がいた。彼の家は広い麦畑の他に、ジャガイモやビーツなどを栽培する畑を所有しており、羊とヤギと鶏も飼っていた。特別裕福というわけではなかったが、七人の生活は潤いがあり、不自由などなかった。笑い声の絶えない、幸せな家庭だといえるだろう。
 彼は家業を手伝う傍ら励んだ勉学が優秀で、学校の先生に勧められて、町にある中学校に進学した。進学するための金に、余裕があったのだ。
 寄宿舎に入った彼は、語学と数学を学び、物理と地理歴史に親しんだ。迷信よりも科学的なものに説得力を見出していたためか、神学に興味は薄かったが、文学は好きで、神話にちなんだ戯曲や演劇を殊更喜んだ。
 彼は順調に学業を修めたが、背丈が父親と並びそうになったある年に、悲劇は起きた。
 彼が夏季休暇のために実家に帰るおり、両親と弟妹が買い物ついでに町まで迎えに来たのだ。無骨で小さな荷馬車であったが、彼らと荷物を載せるには十分だった。その日はちょうど祭日で、貴族の誰かがやってきていて、いつも待ち合わせに使う広場が大変混雑していた。
 どどんっ、どんっどんっ、という祝砲が、空砲にしては黒い塊を吐き出したのは偶然ではなく、貴族の悪い遊びだったらしい。逃げ惑う住民たちの中で立ち往生していた荷馬車に、それは不幸にも直撃してしまった。
 人波を押しのけてたどり着いた彼が見出したのは、血臭と焦げ臭さが充満する惨憺たる有様の広場と、ばらばらになった家族の死体だった。
「ぁ・・・・・・っはぁ、あ、ぁああああああああああああ!!!!いやぁ!!いやだぁ!!お、おとうさ・・・・・・おかあさん!!ジャン!エミィ!どこ?・・・・・・どこぉぉっ!?いやあああああ!!!」
 他人の死体が散らばるなかから妹の上半身を拾い、血まみれの石畳の上で弟の肉片をかき集め、壊れた荷馬車の下から潰れた母の体を引きずり出し、そしてその母の手をしっかりと握りしめた父の片腕だけしか、彼は見つけることができなかった。
 彼は物言わなくなった家族を家に連れて帰り、涙ながらに祖父母にわびた。これだけしか見つけられなかった、自分がもっと早く寄宿舎を出ていればよかったのに、と。
 激怒した祖父は、たった一人で息子たちを殺した貴族に立ち向かった。彼の祖父以外は誰も・・・・・・誰もが無駄だと、貴族を訴えようとしなかったのだ。そして祖父は、軍隊に拘束されてしまった。
 処刑はされなかった。拷問の末に獄中死したようだ。死体すら、彼と祖母のもとに還らなかった。
 彼と祖母は土地と財産を没収され、人目を避けるように森の中に住まいを移した。彼が幼い頃にはもう使われなくなっていた、古い山小屋があるのを覚えていたのだ。
 そこで彼らは数年を過ごしたが、季節の移ろいも、鳥のさえずりも、夜のしじまも、何の慰めにもならなかった。悲しみに暮れる祖母と二人、支え合って生きてきたが、家族七人で過ごした、あの家の温かさには、遠く及ばない。
 彼は祖母を看取って、両親と兄弟たちが眠る墓の側に手厚く葬ると、山小屋を捨てた。

 おおよその調べは付いていた。生前の祖父が、逐一手紙で情報を送ってくれていたのだ。それから数年経っているとはいえ、彼の標的が遠くに行ってしまったという事態にはなっていなかった。ただ、あの日の広場で惨劇を起こした張本人たちは、結婚して家庭を持っているという・・・・・・。
 奪ってやるべきだ。自分たちが何をしたのか、その目に見せつけてやるべきなのだ。
 彼は逸る心を押さえ、念入りに準備をした。そしてその過程で、結局は標的たちの家族を巻き込むことにこだわるのをやめた。良心が痛んだわけではない。標的たちが、自分の家族に対してそこまでの思い入れを持っていなかったからだ。
(奴らは家族すら・・・・・・いや、自分以外は大切ではないのだろう)
 貴族とはそういうものらしい、と納得すると、なにやら虚しい気持ちで胸が涼しくなった。もちろん、家族を大切にする貴族もこの世にはいるのだろうが、彼の目には映り込んでこなかった。
 彼が経験した悲嘆と同程度の報いすらくれてやれないのかと思うと、自分の気持ちの持っていく先があやふやになってしまうようだった。それでも、せめて自分の家族を殺した連中だけは、この手で命を奪ってやるという決心だけが、彼の顔を上げさせて硬く揺らがなかった。
 標的は三人。そのうち二人は、あの日と同じ祭りの期間に手を下すことに成功した。
 一人目は、以前よりも落ちぶれて、町の酒場で管を巻くようになっていたから、同情する振りをして付き合ってやり、十分に酔って前後不覚になったのを、暗い路地に連れ込んだ。秘伝の酔い覚ましだと言って、数種類の毒草を煮詰めて作った毒薬を飲ませると、苦しんで死ぬのに十分もかからなかった。
 二人目は、人混みに紛れて近付いて、拳銃で一発。厚い脂肪を突き抜け骨にも当たらず、肺と心臓を貫通できたようで、実に運が良かった。奴は知らなかっただろう。自分が冷遇してきた妻が、出来ることなら離婚したいと、懇意にしていた見目のいい花売りに漏らしたことを。その花売りが、奴が死ねば財産も手に入ると唆したことを。そして、自分を撃った銃が、奴自身の持ち物だったということも。
 三人目はしくじってしまった。二回成功した彼に慢心があったのか、それとも標的の守護天使が微笑んだのかはわからない。ただ、警戒されていたところに突っ込んでしまったようだった。すぐに逃げれば、再挑戦の機会があったかもしれないが、目の前にいる標的に、彼の視野は狭まっていたのだ。
 彼は捕まり、彼の祖父と同じように、軍の収容所に放り込まれてしまった。

 憲兵たちに乱暴に小突かれながらも、彼は夫人の協力があったことは伏せて、前二人の殺害も得々と自供し、自分がどれほどの苦痛を味わって生きてきたのかを訴え、残る一人を殺せなかったことを悔しがってみせた。
 粗末な毛皮を纏った薪売りが何者かを知った時、取り調べに当たっていた憲兵の半数は、表面上を取り繕っても、彼に対する同情の眼差しを禁じ得ないようだった。なにしろ、あの悲劇で亡くなった無辜の民は、両手足の指では収まりきらなかったのだ。
「私もあの日、友を亡くした。気持ちはわかるが・・・・・・」
「相手が貴族だから黙ったんだろ?自分たちじゃどうにもできないって、最初からあきらめた腰抜けどもが!俺がやってやったぞ!?少しはスカッとしたとか、素直に言ったらどうだ」
「お前がやったことは犯罪だ!」
「貴族がやったら犯罪じゃないのかよ!?そうだろ!!」
 しかし、平民が貴族を二人も殺し、もう少しで三人になっただろう罪は重く、極刑はまぬかれない。絞首台か断頭台が、彼を待つことになるだろう。
「あと・・・・・・ひとり、だったのになぁ・・・・・・」
 彼は天国の家族に、自分の力不足をわびた。ズタズタに引き裂かれて殺された両親と弟妹、情報を遺してくれた祖父、自分に毒草の見分け方を教えてくれた祖母に・・・・・・申し訳なくて、涙が止まらなかった。
 縛られて冷たい石牢に転がされていた彼だったが、彼の荷物は同じ石牢の隅、申し訳ばかりの藁の上に置かれていた。とは言っても、刃物のような武器になる物は没収されており、薪売りの変装のための束ねられた薪が三つほどと、鹿革の上着だけ。しかし、いま両腕を後ろに縛られているのでは、それらに手が届いたとしても、何もできないだろう。
 だが復讐の神は、彼にもう一度チャンスを与えてくれたようだった。牢屋に入ってきた下士官が、彼を見下ろしながら感心したようにため息をついた。
「ああ、そっくりだな。血筋だ」
「俺を・・・・・・知っているのか?」
「知っているとも。お前の祖父を拷問したのは、俺だからな」
 ごとりと重い音をさせて下士官が地面に置いたのは、真っ赤に焼けた石炭が入った石のバケツだった。うっすらとオレンジ色の焔と火の粉を巻き上げるそれには火箸が突っ込まれており、何に使われるものなのかは明白だった。
「・・・・・・っはは、ははははは!あははははははは!!」
 狂ったように笑い声をあげる彼を、筋骨逞しい下士官は冷淡に見下していた。
「楽に死ねるとでも思っていたか?」
「っはははは!まさか!いや、本当に・・・・・・神よ、感謝します!!なんてことだ・・・・・・俺の力不足で一人取り逃がしてしまったが、地獄の椅子は三人分用意されたままだったんだな!!」
 笑い続ける彼の腹にブーツがめり込み、転がったまま苦し気に咳込む。頭髪を掴まれて起こされたが、流れる涙を恥ずかしいとは思わなかった。悔し涙でも、苦痛の涙でもなく、嬉し涙だったからだ。
 仰向けに転がされて重い足に腹を乱暴に踏みつけられ、彼は自分の腕がみしみしいうのを感じながら強く息を吐き出した。火箸に挟まれた真っ赤に燃える石炭が口の中に突っ込まれたのは、幸い恐怖を感じる前だった。
 じゅう、と唾液が干上がり、舌と上顎が焼けただれる。火の粉が喉から肺に入り込んで息ができない。絶叫すら掠れて、噴き出る涙と脂汗が火照る顔を濡らした。
 激しい身もだえが途切れたのが失神したと勘違いしたのか、口の中から石炭が引き抜かれるときに、彼の体を踏みつけていた足の重みがふと軽くなった。その瞬間を見逃さなかった彼は、くるりと体を転がして身を縮めると、思いっきり石のバケツを蹴った。
 ごとん、と横になったバケツからは、燃えたままの石炭がざらざらと転がり出て、冷たい石畳を焼き始める。彼はその石炭も、爪先で蹴り散らした。早く、早く。これが最後のチャンスだと。
「がふっ・・・・・・!!」
「足掻くのはそれで終わりか?」
 踏みつけられた胸から空気が出るだけで、喉がひきつるように痛んだ。もう口は閉じられないほど痛い。自分の肉が焦げる匂いが邪魔をして、火口ほくちの匂いがわからない。それでも目を凝らし、燃え始めた藁と薪から立ち上る薄い煙を確認できた。
「ぐ、あ、ぁあああ!!」
「ぬうっ!?」
 がぶりと噛みついた先は硬い革靴。つるりと滑るが、歯も砕けよと噛み続ける。少しでも時間を稼ごうとしたが、転がったままの石炭入れに向かって蹴り飛ばされたために、髪や服が燃え上がってしまった。
 しかし彼は、上半身を焼き焦がしながらも最後の力を振り絞って立ち上がり、目の前の男に向かって突進した。逞しい首に噛みついて鉄格子に押し付け、自分の炎を移そうとするが、下士官が騒ぎ立てるせいで、牢の外から水を掛けられてしまった。だが、鉄格子に加えられた衝撃で掛けられていたランタンが落ち、あっという間に別の炎が増える。その時には、すでに灰色の煙が天井を覆っていた。
「ごほっ、火事だ!曹長殿!」
「火を消せ!水・・・・・・ごほっ!」
「む、り・・・・・・げほっ!退避!退避ィ!!」
 彼が持っていた薪は、ヤニがたっぷり含まれた松と、燃え出た煙すら猛毒な夾竹桃だった。ただでさえ通気の悪い石造りの建物の中を、もうもうと視界を閉ざし、息を詰まらせる煙に巻かれたまま、走って逃げきられるものではない。
「・・・・・・・・・・・・」
 ここで死ぬことに、後悔はなかった。天国に行けそうもない自分は、両親や祖父に叱られるだろう。それでも、この怒りを奴らにぶつけない限りは、自分に生きている価値など見いだせなかったのだ。
(・・・・・・?)
 誰かに足首を掴まれているような気がした。
(あぁ、地獄の・・・・・・迎えか・・・・・・)
 硬い石畳の上を引きずられていく感覚すら、彼にはもう遠いものだった。