親鳥雛鳥 ―1―


 紹介されたのは閑静な住宅街にある小ぢんまりとした庭付き一戸建てで、治安の良さもあって、昼も夜も静かで快適だ。一人暮らしには少し広い家だと思ったが、のびのびとした空間にすぐ慣れてしまった。
 職場でのラウルは、主に放課後や夜間部の子供たちの勉強を見ており、帰宅は日付が変わる頃だ。なんとなく日差しが眩しいと感じ始めてから、夜型の生活になるのは、あっという間だった。いまでは昼のサングラスや帽子、日焼け止めが欠かせない。
(これで流れ水が苦手だったら、さらに面倒なところだった)
 どういうわけか、ラウルは雨も川遊びもプールも平気で、もちろんシャワーも風呂も問題ない。子供たちの相手をして汚れやすい身としては、幸運と感じるほかない。
 一日の汚れを落として寝室に向かうと、かすかな音に視線が窓に向かう。誰かがノックしたようだ。
(ここ、二階だけど?)
 空を飛ぶ種族なんてこの町では珍しくないので、ラウルは少し首を傾げながら、慎重に窓に近付いた。まだここに住み始めていくらも経たないというのに、誰が自分を訪ねてくるというのか。この町での強盗が、どういう手順で行われるのかも知らないし、ラウルは用心深くカーテンを引き開いた。窓の外には、暗い夜が続いているばかりだ。
「・・・・・・誰?」
 窓を開けて夜の空気が流れ込んでくると同時に、上から逆さまの男がずるんと降ってきた。
「っぎゃあああ!?」
「やあ、いい夜だね」
「ヴェスパー!?なにやってんだ!?」
「期待通りの反応をありがとう。とりあえず、入っていい?」
 窓から飛び退いたラウルはこくこくと頷き、麗しい伯爵を招き入れた。
 ひらりと窓から飛び込んできたヴェスパーは、いつもの貴族然としたクラシックな正装ではなかったが、革靴はきちんと磨かれ、カジュアルなスーツの上に羽織ったチェスターコートはカシミアか。下手な高級店に入る為のドレスコードなど軽くクリアしている。とりあえず、夜中に人の家の屋根に上るような恰好ではない。
「はぁ、びっくりした。もうちょっと普通に登場できないのか?せっかくいい家を斡旋してもらったんだし、玄関から来いよ」
「ふむ・・・・・・では、Take2・・・・・・」
「やり直さなくていいっ!!」
 入ってきた窓から出ていこうとするヴェスパーの腰を掴んで引き留めると、クスクスと笑ってラウルの腕の中に寄りかかってくる。完全に甘えて遊んでいるヴェスパーを、ラウルは呆れて抱きとめた。
「お忍びか」
「休暇を満喫しているだけだよ」
 ひとりでに窓が閉まり、カーテンが引かれる。ラウルはそれを、不思議だと思わなくなったどころか、便利だなとすら思うようになってきた。
「俺、明日も仕事なん・・・・・・」
「学校には休みと伝えてお・・・・・・」
「やめろ。頼むから、やめてくれ」
 州の最高権力者からの命令に、この町の誰が逆らえるというのか。ラウルがダンテ・オルランディの生まれ変わりだというのも、ヴェスパーに可愛がられているのも知られているが、恥ずかしいからやめて欲しい。
 「あの伯爵さまに懐かれて大変ねえ」などと生温かい目で見られるならまだしも、「伯爵との仲を利用している」といったネガティヴな噂でも流された日には、噂を流した方がこの世から消えてしまう。
(穏便に。頼むから、穏便に・・・・・・!)
 ヴェスパーの息子であるイーヴァルに仕えている従者も、よく同じ心境になっていることを、ラウルは知らない。
「そんなになんでもかんでもやめろって言われると悲しいよ」
「わかってやっているだろうが。それで、一番のお求めはなんだ?」
 唇を尖らせてしゅんとしていたヴェスパーだが、正しく受け止めるラウルにぱっと笑顔を見せた。
「ダンテとおしゃべりしたい。もっと言うと、城に監禁したい」
「前半は了解だ」
「後半は?」
「しつこい男はウザがられるぞ」
「つれないなぁ」
「その貌と声で誘惑するな。わりと揺らぐ」
 正直にため息をつくラウルのすぐそばで、玲瓏な美貌がクスクスと赤い唇を吊り上げた。ヴェスパーの外見は、三百年以上前になるラウルの記憶よりも幾分老けたが、それでも二十代後半から四十代半ばになったように見えるだけだ。刹那的な威圧は影をひそめたが、大人の色気を出されると、これも逆らいがたい。
「なにか飲むか?ヴェスパーの口に合うものはないかもしれないけど」
 なんとか抱き着いてくる男を引き離したラウルの背に、ヴェスパーはコートを脱ぎながら軽い調子で声を重ねた。
「ああ、その話もしようと思っていたんだ」
「なぁに?」
「ダンテ、お前あまり血を飲めていないだろう?」
「・・・・・・・・・・・・」
 その通りなのでラウルはうなずき、寝室に備え付けた小型の冷蔵庫から飲料水のペットボトルと血液パックを取り出した。
「開けても全部飲み切るのが大変で・・・・・・」
 血液パックは手のひらサイズで、二百ミリリットルも入っていない。
「味?それとも、人間の血だから?」
「なんだろうな。そんなに、たくさん飲みたいって思わない・・・・・・血を飲むこと自体は、嫌じゃないんだけど」
 ラウルはヴェスパーと一緒にベッドに腰かけ、首を傾げる。鉄臭いとは思うが、人間の血液だという拒否感から吐いたりはしない。それどころか、献血者の食事の好みまでなんとなくわかるほどだ。ご多分に漏れず、健康的な若い女性の血液は、そうでない物よりも甘く美味しく感じる。この前飲んだ時は、生クリームたっぷりのパフェみたいな味だと思ったほどだ。
「飲まなくて平気?具合が悪いとかは?」
「全然。・・・・・・そうだな、元気だから栄養剤を飲みたいと思わない感覚に、似てるかな。なんていうか、高カロリーな感じがする」
「あー・・・・・・」
 なにやら心当たりがありそうな様子でヴェスパーは視線を泳がせると、仕方なさそうに首を振った。
「個人差かもね。うちの息子も、似たような感じだ」
「えっ、イーヴァルが?」
「普通の生き血は重いんだって。ハーフバンシーのイグナーツの血がお気に入りだよ。それ以外は、わりとなんでも食べるみたいだけど」
「へえぇ・・・・・・」
 父親によく似た面立ちの青年の、意外な食の好みに、ラウルも瞠目する。
「それで、健康上は問題ないみたいだから、放っておいているけどね」
「そうか。でも俺は・・・・・・俺のことは、まだ様子見か」
「あんまりないケースだからね」
 転生による真祖というケースは・・・・・・しかも、元人間からとなると、今までに例がない。ダンテを噛み殺した当人であるヴェスパーは、ラウルに対する愛情と同等には責任を感じて、気がかりで仕方がないのだろう。
「大丈夫だよ。別に血を飲まなくたって、人間の食事をとっていれば疲れはとれるし、UVカットのパーカーと麦わら帽子があれば、花壇の世話だって問題なくやれる」
「昼間に!?やめなさい!」
 ヴェスパーは眉間を険しくさせるが、ラウルにしたら植物だって夜は寝ているんだと言い返したい。
「はぁー・・・・・・なんで私は町で暮らすことを許可しちゃったかなぁ・・・・・・」
「おかげさまで、毎日楽しいよ」
「うん・・・・・・うーん・・・・・・」
 頭を抱えるヴェスパーにだって、わかっているはずだ。いくら真祖とはいえ、いくらヴェスパーが義弟として遇しているとはいえ、ぽっと出のラウルが伯爵の身辺に侍るのは、それまでの近侍たちにいい顔をされないのは予測出来て当然だ。
(しかも、まだ人間の気分が抜けてないしなぁ)
 人間にしてはちょっと変、という認識から少しずつ、吸血鬼なんだな、という自覚が出始めたばかりだ。そんな甘ちゃんが、ホルトゥス州の中枢になんか入れるわけはない。
「ごめんね。なんか迷惑かけてるな」
「そういうのはやめなさい。謝るくらいなら、いますぐ私と一緒に来て城で暮らすこと」
「うっ・・・・・・監禁生活は嫌だ。束縛魔。独占欲の塊」
「お前への愛を的確に評価してくれてありがとう」
「百年単位の愛が重いぞ」
「ここに還ってきたお前に、そっくり返そう」
 今度はラウルが頭を抱える番で、ヴェスパーは機嫌よくラウルをベッドに押し倒した。
「おい、なにをする。奥方に不倫だなんて言われたくないぞ!」
「吸血鬼同士が血を吸い合うなんて、そんなに目くじらを立てるような事じゃないよ?」
「そ・・・・・・うなのか?」
 ラウルは疑わし気に半眼になるが、ヴェスパーは大丈夫大丈夫と笑みを絶やさない。
「ファウスタからは、『構ってくれる人ができてよかったですわね。イチャつくのも壊さない程度にしなさって。エルヴィーラやイーヴァルみたいに、神経が貴方とそっくりな人じゃないんですから』って言われたしね!」
「人身御供か俺は!?」
 人間に邪魔されない静かな寝室目当てでヴェスパーと結婚したというファウスタ・コーネイン・ミルド伯爵夫人は、伯爵家の子供を産んで役目は果たしたとばかりに、よほどの公事でない限り寝室からは出てこない。ラウルの帰還に際しても、真祖のお披露目パーティーに、祝辞を述べる公事と物珍しさに一瞬出てきただけだ。実にあっさりしている。
「そういうわけで、心配はいらないから、安心して私に食べられてくれたまえ。昔は飲みたくても、ほんのちょっぴりしかもらえなかったからねぇ」
「・・・・・・そういえば、よくあの頃の俺から飲もうなんて思ったな」
「なんのことだい?」
 長い睫毛をしばたかせるヴェスパーを見上げながら、ラウルはくしゃりと自分のくせ毛をかき回した。
「いやほら・・・・・・あの頃の俺は、見られるような顔じゃなかったしさ」
 自分でも不意に見てしまうと驚くくらいだったのだ。そんな焼けただれた容姿の人間に、ヴェスパーは何のためらいもなく口付けていた。
「ふむ?同じワインなら、細工物のグラスで飲もうと、くたびれた革袋から飲もうと、味は同じじゃないかね?」
「・・・・・・そういうものか?まあ、ヴェスパーが不快でなかったなら、それでいいけど」
 革袋以下の入れ物だったと思うラウルには、理屈はわかっても共感は難しいと苦笑うしかない。目の前にある、夜闇を切り取って磨き上げたような美貌からすれば、それ以下の美醜など気に留まるものではないのかも知れないが。
「不快というなら、今の方が不快な気持ちが出ることがあるなぁ。・・・・・・こんなに可愛い顔を、あそこまでボロボロにしてくれたんだから」
 ヴェスパーの手は愛おしそうにラウルの頬を撫でるのに、その目はすでにいない人間への憎悪で今にも火花が散りそうだ。殺す前に苦しめ方が足りなかった、と残念がる低い声は、ラウルの背筋を寒くさせるのに十分だったが、同時に嬉しくもあった。
「そうか。味は変わらないと思うけど、今夜は細工物のグラスで飲んでくれ」
「いただこう。最高のもてなしだ」
 すらりとした高い鼻が近づいてきて、ラウルは目を閉じた。