親鳥雛鳥 ―2―


 今世では動く舌を重ねると、奥まで舐められ、吸いだすように絡みついてくる。感覚が鈍くなった口腔内を舐めまわされていた時よりも、「喰われている」とずっと強く感じた。
「ん、ぅ・・・・・・はぁっ、ぁ・・・・・・んうっ」
 犬歯同士がぶつかり合うような深い口付けにラウルがもがくと、ヴェスパーの白い指先が静かに動く。その動作は小さく優美ですらあるのに、ラウルの顎はがっちりと抑え込まれて動けなくなった。上顎を舌で撫でられ、唇を甘噛みされるたびに、とろとろと快感が滴り落ちて、喘ぐほどに頭がぼんやりとする。
 唇を合わせて行う血気の提供は前世で慣れていたつもりだったが、何かおかしいとラウルは必死でヴェスパーの肩を掴んで引き離した。
「はっ、ぁ・・・・・・ん、んッ!ヴェスパー・・・・・・!」
「なんだい?」
「なんだ、じゃ・・・・・・ない・・・・・・」
 はぁはぁと息が弾み、指先が冷えるのとは逆に、ぞわぞわと這い回るような熱が、体のあちこちで染み出してくる。体を支える熱量が抜けてだるいのに、肌の感覚ばかりが敏感になっているようだ。
「血を、吸われるのって・・・・・・はぁっ、こんな、だったか・・・・・・?」
「そりゃあ、相手が同族で、それなりの量を、いただいているからね」
 生命体としてはほとんど瀕死状態だった人間のダンテからは、舐める程度の少量しか出せなかったが、今のラウルからなら比率は同じでも絶対量が違う上に、同族アドバンテージが付くらしい。
「気持ちよすぎて、変になりそう?」
「いままでに、経験したことのない感覚だな」
 ひんやりとしたヴェスパーの手に首筋を撫でられ、ラウルは小さく悲鳴を上げて体を跳ねさせた。そこは、かつてヴェスパーが噛みついた場所だ。
「はぁっ・・・・・・ヴェスパーッ・・・・・・や、ぁああァ!」
「私は本当に心配しているんだよ、ダンテ。お前は生まれたばかりの赤ん坊と変わらないくらい、何も知らない」
 歯型の痣をなぞるように強く唇が吸い付いてきて、絶頂に似た快感の波に、ラウルは涙声を上げて体を震わせた。
「ひ、あぁ、あぁァッ・・・・・・ぁ、はぁっ、はぁぁっ・・・・・・な、にすんだっ」
「気持ちよかったかい?ほら、飲んで」
 ヴェスパーから手渡された血液パックにストローをさして飲むと、強い鉄の臭いが鼻の奥に抜けると同時に、甘い味付けの肉を食べているような幸福感が、口いっぱいに広がる。舌触りはさらりとしてごくごく飲めるのに、うまみの濃厚さがしっかりと腹にたまるようだ。
「うっま!クイーンズバーガーのダブルテリヤキビックバーガーを食べたみたいだ」
「ジャンクフード慣れした味覚や感性も矯正させるか・・・・・・」
「なんか言ったか?」
「なんでもないよ」
 ラウルの場合は、単純に消費が少ないせいで、血液への欲求が少ないのだろうと、ヴェスパーは判断した。美味そうにストローを啜るラウルの姿は、紛れもなくトランクィッスル在住の吸血鬼だ。
「それにしても、昼間でも動き回れて、これだけ血気を吸い取ってようやくこの程度の空腹レベルとは・・・・・・真祖とは思えない低燃費だ。やっぱり私が血を吸った人間だったからかなぁ?」
「よくわからないけど、不都合が少なくていいよ。それに、不利益がない分、ヴェスパーたちに比べて吸血鬼としての利益が少ないのかもしれない」
「ふむ、それもそうだが・・・・・・まだ私たちが気付いていない部分に、重大なハンデが付いているのかもしれない。当分は慎重に行動したまえ」
「ん、わかった」
 空になったパックを屑籠に放り投げ、ラウルは満足そうに口元を拭った。
「この町にいる限り食餌に困ることはないだろうが、万が一人間から直接吸血する事態になった時のために、食べ方と食べる量は把握しておきなさい」
「はーい。・・・・・・どうやって?」
「ここに練習相手がいるだろう?」
 当然のように言い放ったヴェスパーを眺め、ラウルはぱちぱちと目をしばたいた後、首を傾げた。
「・・・・・・え?」
 ラウルの目の前にいるのは、態度も行動も軽薄だが、怪物社会でも人間社会でも指折りの重要人物だ。モーリンを引き渡させたように、大国相手に話を付けられる地方領主なんて、ヴェスパー以外にいないだろう。
 そのヴェスパーが、義兄弟と扱っているとはいえ、他人に血を吸わせると言っている。
「ええぇっ!?大丈夫なのか!?俺、他の吸血鬼から刺されない!?」
「大丈夫だよ。・・・・・・たぶんね」
「たぶんかよ」
 顔を引きつらせるラウルの前で、ヴェスパーはジャケットとシャツの袖をまくりあげた。
「私たちの吸血方法は三通り。ひとつは、肉体に傷をつけて直接血を啜る方法。これは双方に危険が伴うので、最終手段だ」
「俺が死んだときのような状況だな」
「その通り。ふたつめは、先ほど私がしたように、口腔粘膜を介する方法。物理的に血液を摂取するわけではなく、血液が運ぶ生命の粋、血気とか精気とか呼ばれるものを吸収する」
「周りからはキスしているようにしか見えないな」
「効率もいいので、他の種族もよくやる、一般的な方法だ。みっつめは、血管が見えるほど皮膚の薄い部分から、同じように血気を吸い取る方法。これはちょっと吸いにくいが、提供者と受給者の双方が慣れていない場合に、やりすぎなくていい」
「なるほど」
 差し出されたヴェスパーの手首は、ラウルのものに比べて色白で、人間なら当たり前のように見える青紫色の筋がほとんど見えない。
「召し上がれ」
 優雅な笑みに促され、ラウルは覚悟を決めて、ヴェスパーの手首の内側に口付けた。唇に感じる、皮膚の奥のかすかな血気を求めて、舌で探り、思わず強く吸い付いてしまう。
「ふっ、ふふっ。くすぐったいな」
「ん・・・・・・はぁっ・・・・・・結構難しい」
「私が不死者だからな。人間や生き血を持つ種族なら、もっとすんなり吸えるだろう。首でもいいけど、勢い余って噛みつかないようにね」
「わかった。・・・・・・ヴェスパーの血って、なんか不思議な味だな」
「そうかい?」
 ラウルは吸血鬼の血気をもらったことは初めてだが、人間の生き血とはだいぶ違うと唇を押さえた。さっき飲んだ生き血と合わせて、ヴェスパーに吸われた分はほぼ補えたはずなのに、また頭がふわふわし始めた。首回りも暑い。
「いや、味じゃないか。ほんのちょっとなのに、テキーラでも飲んだみたいだ」
「おやおや。同族の血で酔ってしまったかな」
 酔った、と言われて、ラウルは納得した。ラウルにとって同族の血は、強すぎる酒か、ドラッグのようなものらしい。
「ヴェスパー・・・・・・なんか、すごく気持ちいい」
「・・・・・・私を誘惑するなんて。その貌、どこで覚えたんだい?」
「ばかぁ・・・・・・」
 いくらなんでもこれはまずい、恥ずかしい、と、かすかな理性が叫んでいるのに、ラウルはふにゃりとヴェスパーの首に抱き着いた。ヴェスパーの匂いだけではなく、同族の血の気配を強く感じる。酔っぱらったせいで、普段はカバーがかかっていた吸血鬼としての感覚が全開になってしまったのだろう。
「ヴェスパー・・・・・・もっとぉ・・・・・・」
「これは想定外だ、が・・・・・・まあ、自分の限界を知るいい機会だな」
「うるさぁい。もっとよこせ」
 ラウルはヴェスパーの膝の上に乗り上がり、甘露を求めて赤い唇に舌をねじ込んだ。自分がされたように、などと考える余裕もない。少し舌で探るだけで、溢れるように流れ込んでくる血気を飲み干すのに忙しい。
 血気の受け渡しって、意識を切り替えるだけで、こんなに簡単なんだなぁ、などと頭の隅で呑気に考えるうちに、満腹中枢がギブアップを申し出た。
「んっ、んーっはぁ・・・・・・ふにゃ・・・・・・」
「ふむ。粘膜経由の摂取も、問題ないようだ」
「うぅー・・・・・・飲む血に問題ありありだけどなー」
「おや、もう正気に戻ったのかい?」
「まだ体は熱いけど、思考のコントロールが取れるほどには、慣れた」
 泥酔のせいで体は言うことを聞かなくても、意識ははっきりしていると、もつれた舌でラウルは告げた。まだしっかりとヴェスパーに抱き着いているせいで、腰のあたりを撫でられているのだが、どうにも動けない。
「なるほど。知らない刺激に体が驚いただけか」
「笑うな・・・・・・」
「だから言っただろう、赤ん坊のようだと」
 飲ませたのはお前だとラウルは反論したが、ヴェスパーはクスクス笑うばかりで、くったりと力の入らないラウルの体をベッドに横たえた。
「私がひとつひとつ教えたい。その身に私がこの手で刻んでいきたい。なにも知らないお前を、私は最も静謐で美しい世界に導きたいのだ」
 生まれたばかりの真に無垢な同族を、温室のように行き届いた城内で手をかけて育てたい。それが長であるヴェスパーの望みで、ラウルも理解している。
 でもヴェスパー、とラウルは口を開いた。
「俺は、俺の生き方しかできない」
 自分を見下ろす綺麗な顔を真っ直ぐに見つめ、ごめんね、と頬を撫でる手のひらに唇を押し付けた。
「その気性あればこそ。真祖たる所以だ」
 愛しい我が義弟よ、と額に冷たい唇が触れ、ラウルは頬を熱くして微笑んだ。ヴェスパーはいつだってラウルを甘やかしてくれるので、実はかなり人間嫌いなうえ、薄情で利己的な現実主義者だということを忘れそうになる。
「ありがとう、ヴェスパー」
「やれやれ。今夜もふられてしまったか」
 ヴェスパーはおどけてみせるが、その誘惑にいつまで抗えるかなと、内心かなり自信がないラウルだった。

 白み始めた空に金星が輝く時間、伯爵家の馬車は地面に影が落ちる寸前に、城内へと走り込んでいった。険しい山の中にそびえるミルド伯爵の居城は、闇を抱くようにうなじに白い光を受け始める。
「なぁ、レジー。思い通りにいかないものだなぁ」
 丸眼鏡かけた執事にコートを預けながら、ヴェスパーは音もなく絨毯の上を歩いていく。
 レジナルドはヴェスパー第一の側近であるが、同時にミルド伯爵家の執事でもある。ヴェスパー、伯爵家、ホルトゥス州、その三者すべてが、互いに妨害せず栄華を得るために、心を砕いて差配する立場にある。そのレジナルドの個人的な心情から言えば、様々な点において特異なラウルは、過保護なヴェスパーに囲われている方が「ヴェスパーが大人しくしていてくれるので」望ましいが、仕事上の立場から言えば、ラウルの固辞と距離の置き方には感謝しかない。
「彼の事でしたら、旦那様が思い通りにいかないこと自体を楽しんでいるように、わたくしめには見えますが」
 付き合いの長い執事の言に、ヴェスパーは喉を鳴らすように笑い声を漏らした。
「あの子はむかしからそうだ。頑固で、潔癖で、不器用で、他人を寄せ付けない・・・・・・まるで孤高の王者だ」
 率いることも、囲うことも、侍らせることも可能な、荒々しくも冷徹な素質を持っているのに、当人がそれに気付いていない。磨かれることすら拒む、巨大なダイヤモンド原石のようだ。
「優しいあの子は、他人を傷つけるくらいなら、自分は鈍いままでいいと言うだろう。・・・・・・ふむ、ならば、やはり彼を彼として輝かせるのは、怒りだけ、か」
 因果なことだ、と当代の伯爵は独り言ち、陽光を避けるように寝室へと歩みを進めていくのを、忠実な執事は無言で見送った。