遺していくもの ―1―


 マスケット銃を構えるようにクロスボウを構え、二十ヤード先の的に狙いを定める。板に描かれた同心円の中央に向かって、真っ直ぐ飛ぶように、指をかけた引き金を引く。
 目の前でぶんと起こる鋭い風音を聞き、ゆっくりと瞬きをしてクロスボウを下ろす。撃ち出された短い矢は、同心円の外側、板の端近くに刺さっていた。
「・・・・・・・・・・・・」
 少し前はちゃんと真ん中に当てられたのに、どんどん下手になっているようで、溜息が出る。クロスボウはきちんと整備されているし、風も吹いていない。それなのに当てられないのは、ダンテが下手だからだ。
 弦を引くためにレバーに手をかけ、思いなおす。練習場にしている広場の壁に背を預けて、地べたに座り込んだ。
(目がかすむ・・・・・・)
 最近、体調がよくないような気がする。気がする、というのは、そもそも死にかけの体なので、どういう状態が好調で、どこからが不調なのか、自分でもよくわからないからだ。
 長くない、というのは覚悟していたが、このままでは自分の手で始末をつけることができなくなるのではないかと、不安でたまらなくなる。早くしないと、と焦るが、ここトランクィッスルから一人で出ていくことは不可能だし、ダンテを手伝ってくれるヴェスパーはもう少し待てという。
(・・・・・・暑い?)
 そうかもしれない、と顔を隠すマフラー代わりに巻いた、薄いスカーフの間に指を入れる。季節はもう春を過ぎ、夏といっていい頃だ。上半身のほとんどが焼けただれ、あらゆる感覚があやふやな皮膚や粘膜では、空気に混じる季節のサインがわかりにくい。尤も、この町が山々に囲まれた秘境にあり、ダンテが生まれ育った村よりも北に位置するので、皮膚が焼けてなくてもわからなかったかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・」
 息苦しさを感じてフードを少し持ち上げ、壁に後頭部を付けると、辺りの音が良く聞こえてくるようだ。ここは工房街の一角にある試射場で、作られた弓矢、あるいは投てき武器の完成度をみるための場所だ。金属を打つ高い音、木を切ったり削ったりするザラザラした音、革や筋を扱く鋭い音・・・・・・それらを心地よく耳元で遊ばせていると、ぼんやりとした重い熱に包まれた体に意識が沈んでいく。
「ねえ、貴方」
 ひゅっと死体の手に顔を撫でられたかのような冷気を感じ、ダンテは驚いて目を開いた。
「!?」
 誰もいなかったはずのそこに、ダンテを覗き込む人物がかがみこんでいた。
「あ、生きていたわ」
 素の美貌をうかがわせる濃い化粧の、あまりの近さに、地面に尻をついたまま後じさろうとして、すでに背が壁についていることを思い出す。目の前の顔は、化粧を施してはいるが、元の骨太さはあまり隠れていない。
(誰だ?)
 トランクィッスルの住人にしては、いままでに見たことが無い。長く白い髪が、光の加減で淡いピンク色に見える。精巧な刺繍が施された日傘をさし、色白で妙に女っぽい物腰だが、声の低さと着ているもので男だとわかる。スラリとした眉目のエルフ族のような美貌の持ち主だが、エルフ族の男が濃い化粧をしているところなんて見たことが無いし、こんな人間の貴族じみた服装をしているのを見たことも無い。金モールと宝石の縁取りが付いた薄紅色のジャケットなんて、ヴェスパーでも着ない突き抜けた趣味だ。
 ダンテの困惑を見抜いたのか、ルビーのように赤い目が小馬鹿にしたように歪み、色っぽい厚めの唇がニィッと吊り上がって白い犬歯を見せた。
(吸血鬼・・・・・・!?)
 まだ日は高いが昼はまわっており、朝日と違って日傘があればある程度防げるのだろう。ヴェスパーもあまり外には出ないが、夕暮れ前にはいつも起きてくる。
 吸血鬼はその習性からか、あまり群れることがない。集会などで一時的に集うことはあっても、同じ所に住むと獲物をめぐって縄張り争いになるからだ。ここトランクィッスルにも、吸血鬼の住人はいるにはいるが、支配者が吸血鬼なせいで、ほとんどが旅人か、理由や用事があっての仮住まいばかりだ。
(こいつも旅人?いや、伯爵の招待客だったら下手なことをしたら不味い)
 すぐにヴェスパーに助けを求めようと、ポーチにしまってある魔法の呼び鈴に手を伸ばす。この町では新参者や荒っぽい気性の種族になにかと絡まれやすいダンテが、ヴェスパーから「キミの判断は正確で速い。遠慮しないでいつでも使うといい」と渡されたものだ。
 対処のわかっている種族や、逃げ切れる自信のある相手ならいいが、この状況は明らかに蛇に睨まれた蛙だ。
「ッ・・・・・・!!」
 ものすごい力で手が蹴り飛ばされ、呼び鈴がちんからりと地面に転がる。痛みで思わず手首を押さえたが、そっと蹴ってくれたようで折れてはいないようだ。
「グッ・・・・・・ゥ!」
「なぁに?・・・・・・あぁ、助けを呼ぼうとしたのね」
 靴裏で胸元を押さえつけられ、身動きも出来なければ息も詰まる。当然、呼び鈴は手の届かない場所に転がっており、このままでは助けを呼べない。ダンテは壁との間に挟まれて自分の背に痛みをもたらしている黒板を引っ張り出し、なんとかコミュニケーションを取ろうとした。
「トランクィッスルでただ一人、自由に暮らしている人間と聞いていたから、もうちょっと骨のある人物かと思っていましたよ」
『誰だ?』
「これは失礼。口がきけないのを失念していました」
 自分の脚が邪魔でダンテが会話を書きにくいとわかったらしい男は、やっとダンテの胸から足を退かした。しかし、ダンテがほっと息をつく間もなく、胸倉を掴んだ片手で軽々と持ち上げられてしまった。フードが外れ、爪先が地面から離れかけてもがくが、たいして太くもみえない腕はびくともしない。
「ァ・・・・・・ハッ・・・・・・ッ!」
「しかし、誰だ、とは心外です。家畜に問われて名乗る名などありませんが・・・・・・まあ、いいでしょう。私はローレンス。クロックフォード家の当主です」
 常のダンテなら「ふぅん」で済ますところだが、この腹の立つお貴族様のローレンスに胸倉を掴まれたままでは、皮肉のひとつも言ってやりたい。ふりふりなレースの袖口から突き出た手には、大きな宝石の指輪がいくつも付いていて、実に趣味が悪い。
「それにしても醜いですねえ。ヴェスパーはこれのどこを気に入ったんでしょうか」
(ヴェスパーの知り合いか!?)
 友達はもっと選べと文句を言うことに決めたが、ローレンスの言いたいことはダンテもよくわかる。まったく同意見だ。
「ウ、グ・・・・・・ッ、ハッ・・・・・・!」
「その汚い手を放してくださいませんか?家畜の分際で、非礼にもほどがあります」
(それはこっちの台詞だ!)
 苦しさに我慢できず、浮きかけた脚を振り子のように蹴りあげようとしたが、ローレンスはそれに気が付いたらしく、ダンテは軽々と放り投げられてしまった。
「グハッ・・・・・・ァ」
 硬い地面に転がり、這いつくばって痛みに呻くが、頭がぐらぐらして立ち上がろうとする力が湧かない。ローレンスに締め上げられたせいなのか、本当に体調が悪かったのか、目がまわってしまったらしい。
「ハァッ、ハァ・・・・・・」
「躾がなっていませんね。家畜は家畜らしく・・・・・・そう、捕食者に対し、恐れ慄き、従順であるべきです!」
 少しの塵も付いていない真っ白な鹿革のパンプスの先が、音もたてずにダンテの目の前までやってくる。
(さっきから、家畜家畜と・・・・・・!)
 このままでは、またあの靴に踏まれかねない。ダンテは地面についた腕に力を込め、ふらつく頭を無理に持ち上げた。家禽や山羊を幼いころに世話をしていた身としては、家畜だって労われながら暮らしているぞと心の中で反論する。人を人とも思わない言い草は、かつてダンテから家族を奪った人物たちを思い出させ、自然と眼差しがきつくなるのは否めない。
「・・・・・・そうです、その目が、気に入らない」
 日傘の影から見下してくる赤い目が、革靴の底に隠れていく。
(クソッ・・・・・・!!)
 自分が貶められるということは、自分を義弟として扱ってくれるヴェスパーも貶められているということだ。そんなことは断じて許されないと、靴底に向かって手を伸ばした。
「ぎゃんッ」
「?」
 伸ばした手がすかっと宙を掴んだのはその時で、なにか酷い音と共に、ダンテの前から白い脅威が取り除かれたのがわかった。
「大丈夫?」
 ダンテに覆いかぶさるように肩を抱いて防御に入ったのは、同じ白でも細くしなやかな女戦士の影だった。
「ぇ・・・・・・」
 ダンテが驚いて見上げると、エーレベッカはいつもの凛々しい無表情で頷き返し、腰から抜いた短剣を構える。
「いったいわねぇッ!!ちょっとぉ、いきなり顔を殴ることないじゃなぁい!!」
「黙れ、クソオカマ。私の物に手を出すとはいい度胸だ。ただちに滅びろ。いますぐ滅びろ。可及的速やかに、かつ、永遠に、滅びろッ」
「あぁっ!傘返しなさいよ!日に焼けちゃうわ!!いやぁあっ!いたっ!蹴らないでえぇっ!痛いったら!服が汚れちゃう、ぁいたいっ!!」
 叫び声に視線を転ずれば、ダンテが見慣れた冷ややかな闇色の後ろ姿に、白い物体がげしげしと踏みつけられている。
「・・・・・・・・・・・・」
 魔法の呼び鈴に触れられたのはほんの少しだったが、それだけで気付いてヴェスパーが助けに来てくれた。その安堵に、ダンテの体は急速に制御を失っていった。
「ゥ、ゲホッ・・・・・・ゲェッ・・・・・・!」
「ダンテ!?ダンテ、しっかりしなさい・・・・・・!」
 胃を搾り上げられるような衝動に、昼に食べた粥を胃液と一緒に吐き出すと、もう目を開けていることもできなくなった。体が震えているようだが、寒いのか暑いのか、よくわからない。
「ベッカ・・・・・・!」
「ヴェスパー、ダンテが・・・・・・酷い熱・・・・・・!」
「ダンテ、大丈夫だ。すぐに家に戻ろう。ベッカ、先に公館に戻って医者を・・・・・・ジョセアラに・・・・・・」
 ダンテの意識はグラグラとして定まらず、まわりの音が遠く近く聞こえて、やがて真っ暗な中に沈んでいった。