遺していくもの ―2―


 どんなにもがいても、どろどろとした熱の中を揺蕩っているような感覚が、長く続いたように感じる。まるでフツフツと鍋で煮られるオートミールになったような気分だ。もしかしたら、粥の食べ過ぎでそんな夢を見ていたのかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・」
 額に当たるひんやりとした感触に、ふっと目を開けると、額に載せられた濡れ手ぬぐい越しに、毎朝夕見上げる自室の天井が見えて、少し安堵する。しかし、自分の服がなく・・・・・・少なくとも上半身は裸でベッドに横たわっていた。さらに、そばには見知らぬ女性がいたので、慌てて起き上がろうとしたが、ぐわんぐわんと揺れる視界に、呻き声をあげることしかできなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
 柔らかく小さな手が、ダンテの頬や首筋に当てられ、その心地よいひんやりとした感触に吐息が漏れる。彼女はなにか言っていたが、それがダンテの知らない異国語のせいで、まったく意味が分からない。母音や濁音の発音が強めの、囁くように低い声は、落ち着いてまろやかな聞き心地で、ダンテを安心させようとしているようだ。
 長く真っ直ぐな黒髪を背中でくくり、見たことのないアジア風の薄青い服を着ている。すっきりと出した額の下には、長い睫毛が影を落とす切れ長の目があった。鼻は高くないが、ちんまりとした小鼻と、引き締まったこれも小さな唇が、態度は控えめでも強い意志を感じさせる。
(きれいなひとだな・・・・・・)
 彼女から発せられる冷たい空気が、熱を持ちすぎたダンテの体を冷やしていることから、はっきりと人外だとわかる。しかしそれでも、ダンテは自分の顔が熱くなるのを感じた。
「?」
 皮膚がなくてもダンテの様子がおかしいことがわかったらしく、彼女は首を傾げたが、情けない格好を晒しているのが恥ずかしいのだと伝える手段がない。もじもじと腹のあたりにあるシーツを手繰り寄せると、なんとなくわかってくれたようで、口元に手を当ててニコニコと微笑んでいる。
 そんな彼女は静かに立ち上がり、ベッドサイドの水差しに手を伸ばした。カップに水を注ぐと、そのなかに指先を浸してくるくるとまわし、やがて何かをつまみ上げて、それをダンテの唇に押し当てた。
(つめたっ!)
 氷の塊を口に含んで、動かない舌のせいでむせないように、少しずつ舐め溶かす。これなら起き上がれなくても、乾いた喉を潤すことができる。
 ホルトゥス州で湧く水は、そのまま飲めるほど綺麗だったが、凍らせるには冬を待たねばならない。冷気を操るその能力から、彼女はきっと寒い雪国出身の種族なのだろう。
 彼女は、感心しているダンテの、ひきつった皮膚に覆われた胸を労わるように撫で、少し待っているように、とでも言いたげに、ぽんぽんと叩くと、しずしずと部屋を出て行った。優しく微笑んだ黒い目が、とても澄んで綺麗で、ダンテの心象に深く残った。
(あ、名前聞いてない・・・・・・)
 しゃべれないので仕方がないとはいえ、口の中でもごもごと氷を舐めながら、礼を言うために次にどんな顔をして会えばいいのかと悩む。どうせフードとスカーフで見えないのでは、と考えが落ち着いたころに、部屋を出て行った彼女とは別の冷気が部屋に入ってきた。
「気がついたかい、ダンテ?まったく、酷い目に遭ったね」
「んぐむ・・・・・・」
 つかつかとダンテの傍まで来たヴェスパーは、ダンテを覗き込みながら、彼女が座っていた椅子に腰かけた。ヴェスパーの手がダンテの頬に触れ、いつもの冷たい感触にほっとする。
「さて、何処から話そうか・・・・・・あぁ、あのオカマの事なら気にしなくていいよ。町から追い出したから」
(追い出したのか・・・・・・)
 取ってもらった黒板と白墨で、同族ではないのかとたずねると、ヴェスパーはそうだと頷いた。
 ローレンス・クロックフォードは異国に住んでいる吸血鬼で、ヴェスパーとの親交がある。最近はヴェスパーが町作りに忙しくしているので、様子を見に来たらしい。
「私のダンテに狼藉を働くなど、じつにけしからん。友人付き合いもここまでだ!」
『そう怒るな。客観的に見て、ヴェスパーが俺に甘いんだ』
 ダンテはローレンスに貶されて個人的に腹が立ったが、その種族が持っている基本的な文化や考え方まで否定するのはどうかと思う。共存とは、同じ思想や意見を持つのではなく、多様な考えを認め合うことで、時には住み分けることも必要だと思うのだ。
「・・・・・・私は私を恥じている。少し前までは、私もローリーのような考えだった」
『人間は放し飼いの家畜だって?まあ、食料には違いないだろ』
「ダンテ・・・・・・」
『だからといって、アイツを許すわけじゃない。俺に良くしてくれるヴェスパーまで貶されたと思ったから、俺は腹が立った』
「・・・・・・怪我がなくてよかった。体調が悪い時は、先に言いなさい」
 体調は自分でもよくわからないので、何とも返事がしづらい。それでも、ダンテはわかったと頷いた。
 ダンテからの呼び鈴は、本当に一瞬だったのだが、それ以降何の追鈴もなかったので、ヴェスパーは余計に緊急事態だと悟ったらしい。寝起きの自分が頼りなくて、たまたま公館にいたエーレベッカを連れていったのは正解だったと嘆息する。
『寝ていたのに、ごめん。それから、エーレベッカにも礼を』
「わかっている。エーレベッカは本来の用事を済ませに行っているから、あとで来るだろう。・・・・・・キミは私が渡した道具を、正しく使うことができた。それで君自身を救うことができたのだから、なにも謝ることはないよ」
『ありがとう』
 ヴェスパーはカップの中にあった氷を、もうひとつダンテの口に放り込んでくれた。まだまだ体は渇いていたが、起き上がれないのだから仕方がない。
 ダンテの体を冷やしてくれていたのは、遠くジパングからやってきた雪女郎という種族らしい。親善団の一員としてこの町に滞在しており、すぐに故郷に帰ってしまうとかで、あまり話す機会が得られそうもなくて残念だ。
「それから、ダンテ。良い報せと、悪い報せがある」
 ヴェスパーの改まった調子に、ダンテは頷いて先を促した。
『悪い報せから』
「・・・・・・キミを焼いた拷問吏が生きていた」
 一瞬で当時を思い出したダンテは、自分が焼ける熱さと激しい痛みを感じてチリチリと皮膚が引きつり、また胃のあたりがむかむかしてきたが、冷たい雫を呑み込むことで耐えた。もう痛みは過ぎ去ったことだと、自分に言い聞かせて深く息をする。
「それで、謝りたいのは・・・・・・私が、彼を殺してしまった」
「・・・・・・ぁ?」
 申し訳なさそうに縮こまるヴェスパーが言っていることを、ダンテは脳内で反芻して、どこにヴェスパーが謝る要素があったのかと首を傾げた。
『ヴェスパーが、もう殺したのか』
「そうだ。キミが起こした火事の後遺症で苦しんでいたが、私が・・・・・・その、キミを傷付けた人間だと思ったら、つい・・・・・・」
 ヴェスパーは恥ずかしそうにうつむいてしまい、ダンテはむせながら、口の中の氷を噛み砕いた。
「ふ、ふふぁはっ、ゲホッ・・・・・・は、ははっ・・・・・・!」
「ダンテ?」
 こんなに心が晴れ晴れとしたのは、いつぶりだろうか。ひとり、またひとりと、復讐相手を手にかけている時には感じなかった。ただただ、苦しかった。自分の手で全員始末すれば、少しは悲しみと苦しさが癒されるだろうと思っていた。
 それなのに、ヴェスパーがやってしまっても、なにも怒る気になんてなれない。あの下士官が死んだのが嬉しいのではない。
(ヴェスパーが、俺のために怒ってくれた)
 それが、とても嬉しかったのだ。
 ローレンスを追い出したことといい、ダンテを焼いた下士官を殺したことといい、ヴェスパーは本当にダンテを気に入ってくれて、ダンテを虐げるものに心から怒ってくれたのだ。
『ありがとう、ヴェスパー』
「よかったのかい?」
『もちろん。ああ、いい気味だ。それで、良い報せというのは?』
「キミのターゲットが、自分の町に戻ってくる日取りが判明した。下準備も終わっている」
 いよいよ出発できる。その報せは、ダンテにとって何よりの吉報だ。首筋がざわざわして、胸がいっぱいになる。知らず湧き上がった涙が、ぽろぽろと零れ落ちていった。
『ヴェスパー、ありがとう。感謝する。なんて礼を言ったらいいか・・・・・・』
「キミの役に立てて、私も嬉しいよ。さあ、しっかりと休んで、体調を回復させなさい。急がないと、また彼の領地からいなくなってしまうよ」
 ダンテは何度も頷き、涙を拭ってくれるヴェスパーに微笑んだ。長かった。これでやっと・・・・・・。

 風を切る鋭い音が、タンッと板に描かれた同心円の中心に突き立つ。
「ちゃんと当たるじゃない」
 そばで見ていたエーレベッカの声に、ダンテは困ったように肩をすくめてみせた。エルフ族の戦士である彼女に、姿勢など悪いところがあったら教えてもらおうと思ったのだが、射撃の腕は回復していた。
「きっと体調が悪かったせいよ」
 そういうことにしてダンテは頷いたが、もうひとつ理由に心当たりがあった。
『ローレンスのおかげだと思う』
「あの人が?」
 ヴェスパーに叩き出された派手な吸血鬼を、エーレベッカも良く思っていないのか、凛々しい美貌が嫌そうに歪む。それを見てダンテの口元は緩んだが、はっきりと頷いた。
『あれを的じゃなくて、殺す相手の頭だと思うことを、思い出させてくれた』
「そうね。ふふっ、いい考え方だわ」
 的に刺さった矢を引き抜き、クロスボウに不備がないことを確認して背負ったダンテは、もう一度黒板に白墨を滑らせた。
『エーレベッカ、今までありがとう。いろんなことを教えてもらえて、とても助かった』
「そう。・・・・・・もう行くのね。悔いのない様にして」
 ダンテは頷き、エーレベッカの肩を抱いた。エーレベッカもそれに応え、別れを惜しんだ。
『元気で』
 夕暮れを待って馬車が転移門に消えていくと、見送っていたエーレベッカに、薄青い着物を着て長い黒髪を束ねた小柄な女が声をかけてきた。
「あのお方は、どぢらへ行かれだのだべが?」
「彼の故郷よ。もう、生きて帰ってこないでしょうね」
 お初も簡単にではあるが聞いていた。禍々しい力に憑りつかれた男が、どんな経緯でここにきて、まもなく死ぬ運命であることを。
「殿方はいづだって、おなごを置いで行ってすまう」
 彼女の手には一輪のエーデルワイスがあったが、その開いた手のひらに、ころり、ころりと、小さな宝石が転がり落ちてきた。
「人魚の涙が真珠になるというけど、雪女郎も?」
「他の人は知んね。溶げねがら、石だどは思う・・・・・・」
 エーレベッカはお初の手から小さな粒をつまみ上げ、その乳白色の中に虹の輝きを認めた。
「・・・・・・オパールじゃないかしら?」
 小粒だが金銭的な価値はあるはずだとエーレベッカが言うと、お初は自分の涙が凝った粒を、すべてエーレベッカに渡した。
「こっちの人はどうか知らねが、おらの国では、渡し賃がねど三途の川を渡れねえ。地獄の沙汰も金次第というべ。あのお方の墓に入れてやってくれねが」
「わかったわ。ダンテも喜ぶだろうから、ヴェスパーに頼んでみる」
「よろすくお願いすます」
 深々と頭を下げたお初が、仲間とともに故郷に戻っていくのを、エーレベッカは転移門まで見送りに行くことにした。
 数日後、お初にエーデルワイスを手渡した男が灰になって戻ってきたが、エーレベッカはお初の望み通り、彼女の涙を棺の中に納めてやることができた。