眠り姫 ―2―
見晴るかせば峻厳な山々、豊かな景観が彩る渓谷。そのふもとに広がる丘陵地帯に、大きな村があった。現在から、三、四世代ほど前にはこの地に定住しており、そろそろ町と呼んでもいいかもしれない規模にはなってきていたが、意外なことに、住人達には古臭い気質が残っていた。一番若い世代は、村の外で動く世界や、新しい技術、改革的な思考などに興味を持ち、自分たちの村が「遅れている」と感じて気勢を上げることもあったが、それでも依然としてタブー視されるものが、この村にはあった。 なぜならば、「それ」は根拠薄弱な伝承ではなく、今も続く「現実」だったからだ。 村の外れ、道も草に覆われかけた丘を登ったどん詰まりにあるその廃墟は、かつては砦だった。古い時代に建てられ、戦争が終わった後は放置されていたが、かなりの広さを有しており、天井や壁が崩れ落ちて床は草生しても、なお当時威容を偲ばせた。 村人は誰一人として、その廃墟へは近付かない。冒険心豊かな子供が遊びに行ったなどと知れたら最後、村の大人総出で引きずり戻され、体罰を含むお説教が待っていた。 ―――あの砦には、吸血鬼が住んでいる。 それが迷信でないのは、被害者がいるからだ。それを最初に見つけたのは、この村を作った人々だと言われている。 砦が築かれるくらいなので、要衝とまではいかなくとも街道が通っており、井戸が掘れるから水利も良い。住むにはいい所なのだが、旅人や農作物を狙う野盗が、時々現れた。街道沿いの村や町に流れていた野盗の噂が、ある時ぷっつりと聞かなくなり、さてはようやくお役人に捕まったか、いやいや高貴な人の馬車を襲って護衛に切り殺されたに違いない、などという噂にとって代わっていた。 しかし、野盗たちの干乾びた死体が砦で発見されるや否や、もっと恐ろしいモノがいるという噂が駆け巡った。調査の為に近くの町から役人が来たが、結局は大型の獣に襲われたのだと結論付けられた。確かに死体には牙の痕があったが、ずたずたに引き裂かれており、腹をすかせた熊か狼の群れにでも襲われたのだろうと思われたのだ。 多くの者は、それを信じた。まだ屋根などが残っていた砦を野盗が根城にしようとしたが、狼たちのテリトリーだったのだと。その方が、吸血鬼などという不確かな存在よりも、ずっと身近で、危険で、説得力があったからだ。 だが、死体を発見した村人たちだけは、吸血鬼だと信じて疑わなかった。狼に襲われたのなら、なぜもっと床が血で汚れていないのだ。体を引き裂かれたのが、干乾びるほど血を吸い取られた後だったからではないのか。 村人たちは、疫病でもないのに死体をよくよく焼いて、粉々の灰にしてから手厚く弔ってやった。野盗の死骸なんぞ野晒しでも、と呆れる人もいたが、吸血鬼が増えたり、恨みを残して悪霊などになって村を脅かされたりしたら、せっかく住み慣れてきた住人達としてはたまったものではない。 以後、その村では決して砦に近寄らず、誰も近寄らせないことを掟とした。余所者が面白半分で砦に行って戻ってこない、宿代を惜しむ旅人が砦の方に行った、などという話が出たならば、村の男たちが手に武器を持ち、必ず昼間に探しに行った。そしてたいていは、干乾びた惨殺体を見つけ、無言のままに灰になるまで焼いて葬るのだった。 ・・・・・・近年、きな臭い話が街道沿いを流れていた。どこの地方で町が燃えた、税の取り立てが厳しくなった、徴兵の役人が来た、などなど・・・・・・つまりは、戦争だ。この辺りも危険なのだろうかと、村人たちが額を寄せ合っていると、首都から役人や軍人たちが来た。なんと、あの砦を改修して使えるようにしたいと言い出したのだ。 血相を変えたのは古老たちで、口を揃えてやめた方がいい、関わってはならんと止めたが、彼らは聞く耳をもたず、すぐに工夫や人足を集め始めた。労働力を取られる村人もいい顔をしなかったが、若者たちの中には、いっそのこと、上から下まで砦を調べ尽くさせて、吸血鬼なんて本当はいない事を証明させてやればいい、と言う者もいて、村の中でも意見が割れるに至り、事態は混迷を極めだしていた。 三台の立派な馬車からなる一行が村を訪れたのは、そんな時だった。 先触れとして村長宅の門扉を叩いたのは、丈夫そうな胴衣を着込んだ若い男だった。 「えっ、あの砦の持ち主なんていたんですか!?」 思わず素っ頓狂な声を上げた村長に、使者の男は表情を変えずに頷いた。色黒な顔はあまり整ってはいないが、上背のあるがっしりした体躯で、堂々とした態度は騎士にも劣らない。 「詳しいことは、我が主から。ついては、あの工事の責任者も同席してもらいたいのだが」 「わかりました。すぐに呼んできましょう」 村長がせかせかとした足取りで役人たちの所に行き、眉を吊り上げた尊大な態度の中年男を、連れ戻してきた。 「今度はいったいなんだ!?これ以上工期を遅らせれば、我が国の存亡にかかわるのだぞ!!」 「はい、ごもっともながら・・・・・・」 「砦のひとつも満足に修復できないなどと噂が立ってみろ!せっかく侯爵閣下に覚えをいただいたのに、デリトフェルト子爵家に泥を塗る気か、貴様!!」 怒鳴り散らすこの男が、名ばかりでも貴族でなかったならば、村長は遠慮なく眉のひとつも顰めただろう。 子爵と言っても年老いた父が健在であり、彼、マルセル自身はなんの爵位も持っていない。しかも、他国に侵食されて弱っていた王家が民主化の流れで断絶してからは、地力がない家は凋落が著しい。今もなお勢力を保つ大貴族の傘下に入れるうちに、なんとか手柄を立てておかねばならないのだ。 「どいつもこいつも脚を引っ張るばかりの能無しどもが!!」 乱暴にドアを開けながら入ってきたマルセルに、クスクスと若い男の笑い声が投げつけられた。吊り上がった眉の下で血走った目がぎょろりと剥かれたが、自分を嘲笑した者を視界に収めた瞬間、「無礼者!」という怒鳴り声は出番を失って引っ込んだ。 憮然とした表情でマルセルを眺めている男は、どう見ても財務省の高級官僚のバッジを付けており、彼も下級ながら貴族だ。そして、その隣に立って血色のよい唇を吊り上げているのは、人の形に切り取られた夜闇だった。 「大変ですなぁ」 「はっ、お見苦しい所を・・・・・・」 「なっ、なっ・・・・・・」 まだ日は中天を通過したばかりだというのに、その黒衣の男は夜気を纏っていた。青白い顔は怜悧なほど美しく、黄昏よりも暗い紫の目が冷ややかに微笑んでいる。革手袋に包まれた指先がトップハットを取ると、艶やかな黒い髪がさらりと揺れた。 「お初にお目にかかる。私はミルド伯爵が子、ヴェスパーという者だ。今日は、あの砦の持ち主であるクロックフォード卿の代理で来た」 「マルセル殿、ことは王国時代までさかのぼり、他国の貴族との金銭授受が発生している。今この時に、国際問題を起こされては困る」 状況が呑み込めずに唸るマルセルに、財務官は丁寧に説明した。 あの放置されていた砦は、王国時代に外国の貴族であるクロックフォード家が買い取っていた。いまから八十年ほど前の話だ。現在もその所有権はクロックフォード家が持っているが、諸事情で手放すことにした。長く放置していたので、代金は土地代として、当時の買い取り額を現在の価値に直した十分の一だけでいい。ヴェスパーを全権代理人として立てるので、金は彼に渡すように。 当時の国王と財務大臣のサインが入った領収書、クロックフォードのサインが入った権利書と委任状がテーブルに広げられ、財務官は「とんでもない金額だ」と締めくくった。それは八十年前にクロックフォード家が買い取った値段であり、地方の小さな砦に対して破格と言っていい。当時もあまり自由になる金がなかった王家は、もろ手を挙げて歓迎しただろう。その十分の一であるから、大金ではあるものの、土地の適正価格からはずいぶんと安くなっている。 「戦のせいで国外にある財産の管理が危くなるのは、大変残念なことだ。この国としても、あの砦がある土地が必要だろうし、下世話ながら悪い話ではないと思うな」 お前たちの国の運営がまずいせいで国際的信用が落ちているぞ、というヴェスパーの皮肉を、財務官は理解したようだが、まだ目の前の状況を把握するのに精いっぱいなマルセルは気付かなかったようだ。 「では、いつ工事を再開できるのだ!?」 「それはこれから話そう。とりあえず、一晩待っていただきたい。クロックフォード卿から個人的に依頼されている件を現場で確認出来たら、すぐにでも売買契約に入らせてもらう」 にこりとヴェスパーは微笑み、書類を片付けた。 「では、また明日の昼過ぎにでも。失礼」 トップハットを頭に載せ、ヴェスパーは足音もなく村長の家を出て行った。そして、その言葉通り、翌日には売買契約を済ませ、財務官から金貨の詰まった袋を受け取ると、すぐに村を出て行った。 やっと邪魔者がいなくなったと、マルセルは張り切って砦の修復作業にはいったが、村長をはじめとする一部の村人たちは首を傾げた。なぜ彼らは、夜も迫ってきた夕暮れに砦に向かい、何事もなかったかのように翌日の夕暮れには村を出発できたのか、と。しかし、そんな些細な疑問は、マルセルの怒鳴り声にかき消され、忙しい日常の中に忘れ去られていった。 古い砦は順調に修復され、村は徐々に戦火のにおいがする中へと巻き込まれていき、やがて吸血鬼の事も伝説の中へと埋もれていった。 ファウスタはガタガタと揺れる馬車の中で、一人ぼんやりとしていた。手にはボロボロになった古い本が一冊。荷物はわずかな身の回り品と宝飾品、そして、当面の生活費だと渡された、袋にぎっしりと詰まった金貨。 急に寝室の上がうるさくなったと思ったら、彼女の保護者とは違う同族が現れて、急いで避難しろと言われた。彼女の保護者の知人だという同族は、寝間着姿の彼女に若干呆れたようだが、安全な場所まで行くと言って立派な馬車に載せてくれた。 (何処に行くのかしら?) 何処でもよかった。静かに眠れる場所さえあれば、文句はなかった。時々喉の渇きを癒せたら、それはもうパラダイスだ。 (ローレンス・・・・・・) 赤い目と白く長い髪をした男は、彼女の面倒を見てくれた保護者で、大切な友達だ。しかし、彼自身が迎えに来られなかったことで、ファウスタは薄々察した。ファウスタを迎えに来た同族・・・・・・ヴェスパーも、ローレンスとはファウスタを保護してほしいという依頼が届いて以降、連絡が取れないと眉間を曇らせていた。 (ありがとう、ローレンス。叶うなら、無事でいて。もう一度会いたいわ) 優しくて、色々なことを知っていて、面白い男だった。そういえば、ローレンスもファウスタを迎えに来て、それまで眠っていた家から連れ出してくれたのだった。あの夜も今回も、ファウスタは迎えに来た男に寝巻姿を見られるなんて、おかしな偶然もあるものだと思う。 (懐かしいわ。もう何年前になるのかしら・・・・・・) 何も知らない小娘だったファウスタを、ローレンスは根気よく教育してくれた。文字の読み書き、礼儀、所作、ある程度の算数や、社会の仕組み。そして、人間の事、人間以外の種族の事・・・・・・吸血鬼の事。 「ローレンス・・・・・・」 自分にまだ流せる涙があったなんて知らなかった。自分が吸血鬼として目覚めたあの夜だけで、自分の存在価値は終わってしまっていたのだと理解して以来だ。 (ローレンス・・・・・・会いたいわ) ぽろぽろと零れる涙を手の甲で拭い、ファウスタは鼻をすすって目を瞑った。眠りたかった。悲しい事ばかり起こる世界なんて、退屈で仕方がない。自分のたった一人の理解者のローレンスとも会えないなんて、起きていても寂しすぎる。 しかし、眠ってしまおうと深く息をしたとたん、馬車のスピードが落ちて、ガタガタする振動がコトコトという小さなものになった。まるで、石畳の上を走っているような・・・・・・。 あの辺鄙な村から、もう次の町に到着したのだろうか。眠っているうちに、あのあたりも随分発展したのだろうか・・・・・・などとファウスタは思ったが、やがて馬車が停まり、「着いたぞ」という声に驚くことになった。 |