眠り姫 ―3―


 ファウスタ・コーネインは、表情の動きが乏しい女だった。感情がないというより、元々あった感性が摩耗して、外界からの刺激に対しての反応が鈍っているように見えた。
(眠りっぱなし、というのも良くないのだろうが・・・・・・)
 だが、茜色の目にある影が、ヴェスパーには覚えがあった。自身が壊れてしまいそうなほどの悲しみを経験した影だ。ヴェスパーが知っている者は、それを狂おしいほどの怒りに変換することで生きていたが、彼女のそれはひたすらに無気力だった。ファウスタは外界を拒絶することで、いつ来るともしれない終わりを待っているのだろう。
 ヴェスパーはひとまず、ファウスタをトランクィッスルの町長邸に住まわせることにした。仮にもローレンスの教育を受けているし、彼の思想や考えを持った者を、その辺に野放しをしておくわけにはいかなかった。
 財務官僚をかの国の首都に送り届けていた馬車も戻ってくると、ヴェスパーは事後処理を含め、改めてファウスタに面会を求めた。雇い入れた侍女のアンヌと、ヴェスパーの秘書ドロシーが、忙しい彼に代わってファウスタの身の回りの世話をしており、彼女らを同席させて深夜のティータイムとなった。
「さて、だいたいのことはドロシーから聞いていると思う。これからのことについて、あなたの意思を尊重しつつ方針を決めておきたい」
 ヴェスパーの前で、ファウスタの真っ直ぐな金髪がわずかに揺れ、茜色の目が瞬いた。頷いたのだろう。
 新たに仕立てさせた若草色のドレスは、上品ではあるものの、華やかさよりもくつろげる着やすさを重視されていた。いくつもある既製品やデザイン画の中から、ファウスタ自身が指をさして選んだらしい。しゃべり方を思い出すのに少々手間取っているだけで、一応、意思はちゃんとあるようだ。
「私がローレンスから依頼されたのは、あなたをあの廃墟から連れ出して、安全な場所まで移動させることと、砦を売った金をあなたの財産として渡すことだけだ。ここから先は、あなたの意思次第となる。・・・・・・ここトランクィッスルは、多くの種族が共存しており、人間も住んでいる。もしあなたがこの町に留まりたいというのならば、この町のルールを守っていただく。それが出来ない場合は、町の外に館を構えていただくか、あるいはご自分で州外に住まいを探していただくことになる。よろしいか」
 すっと顎が引かれ、先ほどよりも大きく髪が揺れた。そして、撫子のような唇が震え、か細い声がぽつりぽつりと夜気に漂った。
「わたし・・・・・・静かに、眠れる所がいいわ。人間は・・・・・・いない方が、いい」
「ふむ・・・・・・静かに、か。現状、あの砦のような廃墟を州外で探すのは難しい。人間は何処にでも踏み込んでくるし、寿命同様に気も短い人間が、どこで争いを始めるかわかったものではない。・・・・・・とはいえ、この町も、昼も夜も煩いからなぁ」
 ヴェスパーが腕を組んで頭をひねると、コカトリスのドロシーがくいと指先で眼鏡を押し上げて同意した。まとめて結い上げた髪の中で、特徴的な前髪が逆立っている。耳に心地よい、低くセクシーな声が、事務的な発言をした。
「少々不便ですが、街中よりは、郊外の方がよろしいかと。静かさで言えば、お城が一番静かではないでしょうか」
「ああ、あそこはたしかに静かだが、伯爵の居城に一人で置いておくのはなぁ」
 居心地、もとい、寝心地もよくなかろう。周囲に事情や気心の知れた者もいないのは、たまの起床時にも都合がよくない。
「わかった。とりあえず、町の外によい場所を探そう。家ができるまでは、窮屈だろうが今使っている地下の部屋に寝泊まりしていただく」
 今度はかくっと金髪頭が動き、了承の意を示した。
「ありがとう・・・・・・」
「住まいはこちらで提供するが、それ以外の衣食は、今後ご自分で賄っていただく。食事についてだが・・・・・・」
 ヴェスパーの視線が侍女のアンヌに向けられ、巨大な白い毛玉にしか見えないドモヴィーハの彼女は、老女のようにしわがれた声を出した。
「奥様はパンとチーズを食されます」
「なんだと・・・・・・!」
 ヴェスパーが驚きのあまり、目を見開いたまま言葉を失うと、ファウスタは恥ずかしそうに、もじもじと言葉を紡いだ。
「人間の血は、温かくて、美味しい・・・・・・でも、普通の食事も、美味しいわ」
 これ好きよ、とファウスタが指差したのは、ケーキスタンドの中段にあるエッグタルトだった。
「あの・・・・・・」
「もちろん、食べるといい」
「ありがとう」
 ファウスタは少し頬を染めて手を伸ばし、細やかな笑顔を見せてエッグタルトにかぶりついた。
「吸血鬼なのに、食物の味がわかるのか・・・・・・」
「ボス、彼女は元々人間なのだそうです」
「は!?」
 聞いてないぞとこめかみを押さえるヴェスパーに、紅茶で一息ついたファウスタはティーカップを置いて、またぽつぽつと身の上を話始めた。
 人間の貴族の娘として生まれた事。父親とその親族が、まだ幼児や赤子だった自分と弟を溺愛し、母親から子を取り上げて冷遇した事。恨み辛みを抱えた母親が、復讐のために娘に呪いをかけ、十五年かけて吸血鬼になったファウスタが、実弟を含めた父の一族を皆殺しにした事。その日から、ファウスタはローレンスに拾われて、彼の庇護の元で暮らしたこと・・・・・・。
「ローレンスといて、楽しかったわ・・・・・・でも、ママの日記を読んで、私は何なのか、わからなくなってしまった・・・・・・とても悲しかったの」
 結局自分は母親にとって復讐の道具で、愛されてはいなかったのだろうか。父親は優しかったが、母をそこまで追い詰めたのは、他ならなない彼だ。眠り続ける自分に対して、どんな考えを持っていたのだろうか。すべてはあの夜、館と共に焼け落ちていった。ファウスタに遺されたのは母親の日記のみで、あとはなにもわからなかった。
「それで、あの砦に引っ込んでいたのか」
 かくっと大きくうなずき、ファウスタはアンヌが淹れ直してくれた紅茶を、大事そうに口に運んだ。
「・・・・・・ローレンスは大好きよ。私のために、いろんなことをしてくれた。あの砦も、私が落ち着くまで、好きなだけいていいって」
「そうか・・・・・・」
 なにやら考え深げにヴェスパーの目が伏せられ、その夜の面会は終わった。

 ファウスタはアンヌの事を気に入っていた。ふかふかもこもこしていて抱きつくと気持ちいいし、なにより白い毛がローレンスを思い出して落ち着いた。「奥様、奥様」とファウスタを大事にしてくれて、こまごまと世話を焼いてくれるのが頼もしかった。
「ねえ、アンヌ。どうしてヴェスパーは私を・・・・・・ローレンスに育ててもらった私を警戒するのかしら?」
 アンヌを連れていれば自由に街中へ出歩いていいと許可が出て、ファウスタは日暮れのトランクィッスルを散策していた。いままでローレンスの屋敷か人間の村や町くらいしか見たことのなかったファウスタであるから、様々な種族で活気にあふれたトランクィッスルは、大都会に匹敵する興味深さだった。眠気も今のところ、どこかに行ってしまっている。
「アンヌも存じ上げません。アンヌも少し前にトランクィッスルに来たばかりですので、昔からいる住人に聞いてみてはいかがでしょう」
「いい考えだわ。そうしましょう」
 とはいえ、ヴェスパーやドロシーをはじめ、町役場で働いている職員たちはみな忙しそうだ。新市街地は建設中だが、今日もあちこちから新たな住人が入ってきているらしい。
 食事を提供する屋台が集まった広場は、夕食時を迎えて賑やかだ。パンに肉やピクルスを挟んだホットドックを買い食いしながら、ファウスタは住人たちに話しかけるが、ローレンスを知っている者がほとんどいなかった。だが、道具屋を営んでいるという魔女が、トランクィッスルに住んだ最初の人間に危害を加えたために、出禁にされた吸血鬼がいるという話をしてくれた。
「だいぶ前の話だからねえ・・・・・・ドラゴンたちの族長で黒竜のクラスターか、城壁の守備隊長をしているエルフのエーレベッカなら、知っているかもしれないね」
 二人ともこの町では有力者で、新顔のファウスタでは会ってもらえなさそうだ。ファウスタはバンバンダルと名乗ったその魔女にビールを奢って礼をすると、今度はトランクィッスルに住む人間について調べ始めた。
 トランクィッスルに住む人間のほぼすべてが、他の住人の生餌か、下僕らしい。町中で人間をはじめ、他種族を殺して食べることは固く禁じられており、それは領主のミルド伯爵でも例外ではない。町長のヴェスパーも吸血鬼だが、彼も生餌から定期的に血気や血液の提供を受けているらしい。
 この町での生餌というのは、牧場で牛乳や鶏卵を生み出す、管理された家畜のような扱いなのだろうか。元人間のファウスタはなんだかムズムズしたが、よくよく話を聞いてみると、人間に耕作地を用意して食料を作らせ、比較的のびのびと生かして、健康的な精気や血気を生産しているらしい。人間は社会性の生き物なので、疑似的なコミュニティを作らせた方が、ストレスが少なく効率的なのだとか。
「この町に住んだ最初の人間?・・・・・・あぁ、ダンテのことかな。すぐに死んでしまったそうで、共同墓地に葬られているよ」
 人間牧場を経営しているという羊のような姿をした妖精が教えてくれた通り、町はずれの共同墓地に、ダンテの墓はあった。ローレンスに比べれば、ダンテを知っている住人は多く、主に人間に関わる仕事や種族間の調整を業務とする者には常識の事だった。墓地を管理しているブラックドックたちによると、ダンテは人間の身でありながらヴェスパーの義弟として遇され、トランクィッスルに貢献すること多大であったとか。
「そう・・・・・・そんな人に暴力を振るったら、いくらローレンスでも追放されてしまうわね。誰かが私をぶったら、ローレンスならとても怒るでしょうし」
 ファウスタを引き取って育てたように、ローレンスは同族には寛容だったが、人間はただの食料だとみなしていた。食事の後始末として人間の体を引き裂く作法も、ローレンスに教わったやり方だ。ファウスタがローレンスと同じように、見境なく人間に乱暴を働くようなら、いくら同族としても町長として庇えない、そんなヴェスパーの立場が、ファウスタにはよくわかった。
「うん、納得したわ。そういうことだったのね」
「奥様、そろそろ夜明けになってしまいます。急いでお戻りを」
「いけない。ありがとう、アンヌ」
 すっきりしたファウスタはアンヌと共に町長邸に戻り、地下にある自分にあてがわれた部屋に滑り込んだ。
「では、おやすみなさいませ、奥様」
「おやすみ、アンヌ。・・・・・・また次の夜に」
 まだ長く眠るつもりはない、知らなかった事を知れて胸が高鳴る、そんなファウスタに、アンヌは毛むくじゃらな顔で微笑んだようだ。
「ちゃんと起こしにまいります」
「お願いね」
 ファウスタは大きく息を吸って、目を閉じた。

 日々の忙しさに追い立てられていたヴェスパーだが、その日、ファウスタから共同墓地の一角を買い取りたいという申し出を受けて首を傾げた。
「誰か死んだか?それとも、まさか墓地で眠りたいとは言うまいな?」
「違うわ。・・・・・・私の中のママを眠らせてあげようと思って」
 そう言ってファウスタが差し出した古い本は、もう文字が読めないほどボロボロだった。彼女の母親の日記らしい。
「私、次に長く眠るまで、この町で暮らせそうなの。ローレンスが貴方と友達だったことに感謝するわ」
 貴族の娘らしく、華やかな微笑を閃かせるファウスタに、ヴェスパーはやれやれと黒髪をかき回した。
「友達『だった』んだ・・・・・・」
「ローレンスが生きていれば、仲直りできるわよ。ヴェスパーはローレンスの頼みを聞いて、私を助けてくれたわ。それに、私は必要もなく人間に乱暴なことなんてしないもの。この町の食事は美味しいわよ」
「・・・・・・・・・・・・」
 砦の地下室から連れ出した時とは比べものにならないくらい、ファウスタは表情豊かに話すようになった。そして、自分を苦しめていた母の呪いを乗り越えようとしている。それは、ヴェスパーにとっても喜ばしい事だ。
「わかった。好きにするといい。墓地の件はドロシーに伝えておくから、何処を買うのかブラックドックと決めてきてくれ」
「ありがとう、ヴェスパー」
「礼には及ばん。貴女もこの町の住人だ」
 トランクィッスルにようこそ、そう言って唇を吊り上げるヴェスパーのタイピンに見覚えがあって、ファウスタには目頭が熱くなった。彼はそのアクセサリーひとつを報酬に、ローレンスの養女を保護したのだ。

 その後、ローレンス・クロックフォードの行方は依然と知れなかったが、いくつかの事件の後に、ファウスタはヴェスパーの求婚を受け入れ、ミルド伯爵夫人となることを選ぶことになる。