眠り姫 ―1―


 ただ、喉が渇いていたから。お腹が空いていたから。そこに、食べ物があったから。
 温かい食事はたくさんあったけど、どれも動き回って、捕まえるのが大変だと思った。それに、ちょっとうるさい。
 屋敷中の外に繋がる扉と窓を全部閉めて、ひとつ、ひとつ、捕まえていく。たっぷりの温かなスープを飲み干して、お腹いっぱいだと思うのに、すぐに喉が渇く。きっと、お腹が空きすぎているんだわ。メインディッシュだって食べていないもの。
 美味しい・・・・・・美味しかった。でも、足りない。これだけじゃ足りない。これじゃないの・・・・・・あぁ、アレだわ。あそこにいた。
「やめてくれ!助けて・・・・・・助けて!!嫌だッ!死にたくないぃぃッ!!」
 喉から食べると、すぐに静かになるってわかった。それに、私の弟だもん。いつの間にか大きくなっていたけど、残さずきれいに食べてあげなきゃ。
「はぁ」
 白っぽくなった弟を床に転がして、最後に残った一人が待っている部屋のドアを開ける。
「・・・・・・ファウスタ・・・・・・」
 杖がある。もしかして、歩けないの?まあ!いつの間に、そんなに太っちょになったの?
「パパ・・・・・・!」
 わたしは駆け寄って、椅子に座ったままの父の、柔らかな首に噛みついたの。

「終わったかしら?・・・・・・まー、ずいぶん思いっきりやりましたねえ。あ、別に悪く言ってるんじゃないの。私そういう派手なこと、好きですから」
 静かになってしまった屋敷の中で、ファウスタはこれからどうしようかと首を傾げ、とりあえず自分の寝室に戻ろうと廊下を歩いていたら、そう声をかけられた。
「だれ?」
 ファウスタが閉め切ったはずの屋敷の中に、いつの間にか入り込んでいたその人影は、月明かりに浮かび上がるように白く、背が高かった。声は太く低かったし、服装も男物だったが、その顔には濃く派手な化粧をしていて、仕草も話し方も女のようだ。
 彼はファウスタの知らない人物だったが、「温かい食べ物」ではなかった。ファウスタと同じ、冷たい匂いがする。
「私はローレンス。お嬢さんの母君と懇意にしていた魔術師に、ちょっとした借りがありまして。それで、こういう事態になるだろうから、貴女の後見になってくれって依頼されてきたんです。まあ、貴女にその気がなければ、このお話はなかったことになるんですけど」
「こうけん?」
「要は、同族の生活の仕方を教える保護者ってことです。貴女の両親、死んでしまったでしょう?」
 両親、と聞いて、父はそこに・・・・・・、と歩いてきた方向に首を回したが、母が何処にいるのかは知らないと気付いた。
「ママは?死んじゃったの?」
「あら、知りませんでした?」
「うん」
「では、会いに行きましょう。貴女が目覚めたから、会えるはずですよ」
 ニイィっと白い牙を見せながら笑うローレンスに、ファウスタも嬉しくて笑顔になった。
「本当?ローレンス、ありがとう!」
「おっほほほほ!感謝されるって、いい気分ね!で、お嬢さん、貴女の名前は?」
 そういえば名乗っていなかったと恥ずかしく思い、ファウスタは寝巻の裾をつまんで、ちょこんとお辞儀をした。社交界に出る淑女のようにはいかないが、ローレンスは貴族のようだし、きちんと挨拶をしたかった。
「ファウスタ・コーネイン、五歳です」
「っはぁあああ!??!?!?どーみても五歳じゃないでしょ、アンタ!?」
「え?」
 ファウスタは目を瞬いたが、ローレンスは何か思いついたらしく、あーあーと口を開けて天井を眺めている。
「そうか、寝っぱなしで、五歳から中身が成長していないんだわ。やだ、アタシ幼女のお世話なんてしたことないわよ。ハタチの乙女だって言うから、そのつもりで来たのに・・・・・・」
 ローレンスは「困ったわねー」と首を傾げたが、すぐに気を取り直したようだった。そして、言葉遣いも五歳児に合わせるように、柔らかく簡単なものになった。
「まあ、いいわ。まずは、私たち、お友達になりましょう。それから、貴女のママを探しに行きましょう。すぐに会えるわよ」
「うん!」
 ファウスタは寝巻の裾をひるがえして、音もなく歩いていくローレンスの後をついていった。
 青い月影が降り注ぐ屋敷の上階から、地下、人知れず出入り口を塗り固められた秘密の通路の先に、ファウスタの母はいた。ローレンスに導かれて入った小部屋は丸く、天井が高い。涸れ井戸の底なのかもしれないその部屋は、小さなランタンの明かりだけでも、ファウスタには充分に見渡せた。
「話には聞いていたけど、凄まじい怒りと執念だわ・・・・・・。ファウスタ、貴女のママは、本当に意志の強い女性よ」
「うん」
 複雑な魔法陣の中心には、埃が積もってボロボロになったドレスに埋もれて、ミイラ化した死体が転がっていた。彼女は自身の命を捧げて、自分の子供たちを奪った者たちに復讐したのだ。
「ママ・・・・・・」
 もう効力のなくなった魔法陣にファウスタは踏み込み、自分に人外となる呪いをかけた母の頭蓋を拾い上げた。首はもとより、あちこちの関節から崩れていて、ドレスがなかったら、遺体は散らばっていたかもしれない。目と鼻の穴がぽっかりと開いたしゃれこうべに、わずかにこびりついた細い凸凹は、ファウスタの記憶の中では長く美しい金髪だったように思う。
「ねえ、ローレンス。なにがあったの?何か知ってる?」
「私もまた聞きだから、詳しいことは知らないわ。でも、それに書いてあるんじゃないかしら?」
 床に落ちていた本をローレンスが指差したので、ファウスタは母の頭を置いて、本を取り上げてみた。各ページに日付が付いているので、彼女の日記だと思われたが・・・・・・。
「また、あのひと・・・・・・わたしの、ファウスタを、を・・・・・・?もう・・・・・・できない。・・・・・・んんぅう、読めないわ」
 五歳児には難しすぎた。
「ローレンス、読んで」
 しかし、白い影は肩をすくめて首を振った。
「それはダメよ。その日記はファウスタだけが読んでいいの。ファウスタだって、自分の日記が、読んでほしくない人に勝手に読まれるのは嫌でしょう?」
「うーん、そっか・・・・・・。じゃあ、わたしに読み方を教えて?」
「それならいいわよ。喜んで。私も大人の会話を楽しみたいもの。ファウスタを立派な淑女に育ててあげる。舞踏会にいけるようになるわよ」
「本当!?嬉しい!」
 ファウスタはパッと立ち上がり、母の日記を持ったまま、ローレンスの傍に駆け寄った。そして、おもむろに振り返ると、日記を胸に抱いて、小さく膝を曲げた。
「さようなら、ママ。ママが天国へ行けますように。神様がママを憐れんでくださいますように」
 いまだ少女と自覚している彼女は、白く長い髪をなびかせた男の背を追って、月明かりさす闇の中へ、軽やかな足取りで躍り出ていった。炎を上げて焼け落ちていく生家には、ついとも目をくれず。
 コーネイン侯爵家の惨殺事件は、このように締めくくられた。十年以上の歳月を眠り続けていると噂されていた、ファウスタ・コーネイン侯爵令嬢であるが、彼女の姿は焼け焦げた屋敷のどこにもなく、この日の後も、誰も見ることはなかった。


−それから月日は流れ

 その手紙が届く前の事を少し説明すると、ヴェスパーには大きな課題がいくつも圧し掛かっている状態だった。
 一番急がないが面倒なこととしては、結婚相手を探すことだ。今のところ、父親であるミルド伯爵から、それとなく考えてはどうかと水を向けられただけだが、好きな相手を見つけられなければ政略結婚ということもありうる。正直、現在のヴェスパーにはそんなことを考えている余裕はなかったが、後回しにするほど自分の選択肢が狭まるような事に陥りがちな案件ではあると危惧してはいた。
 喫緊かつ重要な問題として、移民の受け入れである。ミルド伯爵がかつて危機感を覚えた情勢かどうかはわからないが、とにかく、現在人間社会が世界的に不安定であり、急速に発展する科学技術やそれに伴う居住環境の悪化により、トランクィッスルに流入する人口が増えていた。
 これに対応するべく、ヴェスパーは以前から進めていた町の拡張工事を急ぎ、治安を維持すると同時に、住人の雇用を生み出すことに苦心していた。
「あぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ・・・・・・」
 オフィスの椅子に身体を投げ出し、いっそ口から魂が抜けないかと思えるほどのため息を、ヴェスパーは天井に向かって吐き出した。
「よくやっていると思うわよ」
「みんなのおかげだよ・・・・・・特に、エルフ族や人狼族が治安に目を光らせてくれているから・・・・・・暴動やパニックが起こったら、私じゃどうにもならん」
 町長に褒められて、エーレベッカは細い肩をすいとすくめた。エーレベッカたちエルフ族は、主に深い森が広がる城壁の外を監視する役割を担っており、スプリガンたちと共に、旅人に町での注意事項を教え、整然と案内する役目も負っていた。
 それとは別に、町の中での治安維持には、主に人狼族がその任を受けていた。人狼族の強靭な肉体と戦闘力の高さは、十分に抑止力として働いたが、それ以上に、彼らはネットワークを構築して素早く情報を共有することに慣れており、協力して困難に当たれることを誇りにしている。個人主義な種族が多い中で、これは大きなアドバンテージであった。ヴェスパーたち吸血鬼とは、昔からそりが合わない事で有名だが、ヴェスパーが腰を低くして協力を仰いだことで、彼らは自分たちの仕事として、自らに規律ある行動を課すようになっていた。
「ヴェスパーが作っていた新市街地の詳細な計画がなかったら、建設もこんなにスムーズにはいかないって、ドワーフの棟梁が感心していたわ」
「その居住地も、私の感覚では広く予定していたつもりだが、計算し直した方がいいかもしれないなぁ」
 とりあえず、集合住宅を建てて受け入れているので、ある程度落ち着いたら、きちんと区画整備をして住居や市場を作るつもりだ。それよりも前に、上下水道の整備や食料の供給を急がないと、新しい住人だけじゃなく、もともと住んでいる住人にも不満が広がる。
「ひぃぃ・・・・・・不死じゃなかったら過労死してる」
「不死身でよかったわねぇ」
「そうじゃない、そうじゃないよ、エーレベッカ・・・・・・」
 ヴェスパーはよろよろと腕を伸ばすが、エーレベッカは背を預けていた壁からすいと離れ、窓を開けた。
「ヴェスパー」
「なんだい?」
 だらしなく背もたれにひっくり返ったままのヴェスパーの上に、足に何かをくくりつけた白い鳥がひゅんと飛んできた。エーレベッカが開けた窓から入り込んできたようだ。
「あぁ?」
 ヴェスパーが差し出した手の上で、白い鳥はふるりと震えて、分厚い紙筒になった。鳥の足にくくられていた小さな袋は、ヴェスパーの手の上で金属の重みを伝えている
「急ぎのようね。席を外しましょうか?」
「ああ、いや。ちょっとここにいてくれ」
 ヴェスパーは見知った蝋封を割って、高価な羊皮紙を広げた。そしてその手紙の内容に、形のよい眉がぐっと寄せられる。
「・・・・・・まずいな」
「どうしたの?外のコミュニティが襲われたの?」
「いや、そうじゃない。・・・・・・伯爵家の者として、行かなければならないかもしれない。いまは町を離れたくはないんだが」
 ひとまず城へ行って伯爵と話をしてくるというヴェスパーに、エーレベッカは頷いた。
「わかったわ。クラスターたちを呼んでおく」
「頼んだ。・・・・・・ドロシー!ドロシーはいるかい?」
 ヴェスパーは秘書を呼びながら自分の椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしてきびきびと歩いて自分の執務室から出ていった。疲れていないわけではない。しかしあの姿勢を保てるところが、ヴェスパーらしいとエーレベッカは思うのだ。