この世の春は護られたり ―3―


 それを見ていた者たちは、完全にダズルが滅びると思った。誰も手出しができなかったからだ。
 しかし、ラウルの鎌たちは途中で向きを変え、ラウルに襲い掛かる、より濃い闇を迎え撃った。圧に耐えかねた床が一瞬で崩落し、壁はむこう側の部屋へと新たな出入り口を作る。重なる金属音は澄んで響き、白光をまき散らす炎と、濃紺よりも深い夜闇が、戯れるように触れ合い、舞うように絡み合い、やがて収束して二つの人影になった。
「いやはや、賑やかだね。私をのけ者にしてパーティーを始めるなんて、ひどいじゃないか」
「ヴェ、スパー・・・・・・?」
 もたれかかるラウルをしっかりと抱きかかえ、今夜のホストであるミルド伯爵は、ラウルの手に指を絡ませ、噛んで含むように機嫌よく囁いた。
「私の愛する弟よ、実に美しい姿だった。少し疲れただろう?静かな所で休んできなさい。・・・・・・イグナーツ」
「は、はいっ!」
 呼ばれて偉丈夫の背後からひょこりと顔を出したイグナーツに、ヴェスパーは驚いたように顔をしかめた。
「ああ、ひどい痣だ。腫れているじゃないか。この子を医務室に案内してあげてくれないかな。イグナーツも一緒に診てもらいなさい」
「はい、伯爵さま」
 イグナーツはラウルに肩を貸し、屋敷妖精の先導で道を開けてもらいながら、医務室へと歩いていった。
「父上」
 呼ばれて振りむいたヴェスパーは、床が抜け落ちて繋がった階下から、白っぽい物体を掴んで跳び上がってきたイーヴァルを讃えた。
「重畳、重畳。よくやった、息子よ。逃げられたら元も子もないところだった」
「しかし、死にそうですが」
 イーヴァルが首根っこを掴んで、ずいっと突き出したのは、埃まみれになった手足のないダズルだった。イーヴァルの表情には、怪我人に対する慈悲の欠片もなかったが、廊下の片隅にレンズにひびが入った眼鏡を見つけると、その握力は容赦なくダズルの首を細くして、耳障りな悲鳴すら絞っていった。
「落ち着きなさい、イーヴァル。たしかに、ダンテは少しばかりやり過ぎた。しかし、完全に、完璧に、やり過ぎたわけではない」
「・・・・・・。いつもの場所で?」
「うむ。すまないが、先に行っていてくれ」
 怒りを無表情の下に押し込めたイーヴァルは、すっと優雅に礼をして、床に空いた穴を無造作に飛び越えて行った。
 ヴェスパーは大きく深呼吸をすると、さて、と息子の従者を護った親友を見返した。
「クラスター、見ていたなら止めろ」
「いやぁ、長いこと生きているつもりだが、地表に見えてないからって、地雷原で踊り狂う馬鹿を初めて見たんでな。呆れて声も出なかった」
 楽しそうに唇を歪めるクラスターは、ああいう馬鹿は俺も嫌いだ、と視線だけでイーヴァルに引きずられていくダズルを見送る。
「なかなか華麗な花火だったぞ。ずいぶん無駄にエネルギーをまき散らしていたが」
「それがお前さんの見立てか。正直、私は底のない井戸に槍を突いている気分だったぞ」
 腰に手を当て、眉根を寄せて見上げてくるヴェスパーに、クラスターも少し表情を改めて顎をさすった。
「そうだな、半分ぐらいは出たか・・・・・・?せいぜい六割だな。それも、コントロールされずに、ただ放出されているだけの力が四割強。フルパワーには程遠いな」
 つまり、あのラウルは潜在能力の二割にも満たない力で、シェイプシフターを圧倒したことになる。
「キレてもあの程度しか出ないのは、力に耐えられる肉体がまだできていないのと、ダンテが真祖吸血鬼のカタログスペックを全く知らんからだろう。武器庫も宝物庫も扉は開錠されているのに、あの元人間はそれらの存在自体を知らん。まあ、ああいうタイプは、自分の力に慣れて制御できるようになるまで、長い時間がかかるもんだ。完全に己の能力を把握出来たら、いい勝負になるかもな?」
「それは私とか?それとも、クラスターとか?」
 しかし、クラスターはそれには答えず、ただニヤニヤと笑いながら「ってみてぇな」と呟いただけだ。クラスターは族長としての分別があるだけで、そもそもかなり好戦的な個体なのだ。
「どうも最近、心身がなまっていかん。あのくらいで血が騒ぐようじゃ、俺もまだまだだな。俺は奥方に挨拶をしてくる。起きているだろう?ヴェスパーもさっさと片付けて来いよ」
 そう言って悠然と歩き去っていくクラスターの背を見送り、ヴェスパーは怒り狂ったラウルの血を飲みすぎてもたれた胃のあたりをさすった。クラスターの言う通り、早く行かないと痺れを切らしたイーヴァルが、ダズルにとどめをさしてしまうかもしれない。

 よたよた歩いているうちに、むこうから担架隊が現れてラウルを乗せ、イグナーツは小走りで医務室へと向かうことができた。
(広すぎると、こういう時面倒なんだよなぁ)
 豪邸というよりテーマパーク並みなのだから、仕方がない。
 医務室では、ふんだんにレースがついたゴスロリ服を着た看護師のラテラテが、イグナーツの頬に湿布を貼り、上着を脱いでベッドに寝かされたラウルの口に血液パックを突っ込んだ。
「急性栄養失調?」
「そ。イグナーツは半分人間だし、疲れすぎると低血糖で動けなくなるの知ってる?それと似たようなもん。ココ見てみ。えっぐいキスマークついとるで」
 派手だが可愛い化粧に、豪華な金色のくせ毛をツインテールにした、こう見えて女装男子のラテラテは、ラウルの頭を横向きにして、耳の下にかかる巻き毛をかきあげて見せた。たしかに、紫色の痣ができている。
 太い動脈から、衣類に遮られずに露出している体表面まで、一番近いのがここなのだ。急所と言っていい。
「食事の為じゃなくて、攻撃の為に吸うなら・・・・・・相手を傷付けずに、即時戦闘不能にするなら、ここしかない。一撃必殺を成功させるのは、さすがは伯爵さまだね」
「その・・・・・・口同士の方が、効率いいんじゃ?」
「舌噛み切られる覚悟で?」
「あ、そっか」
 診察室、処置室、調剤室などを内包した、メディカルエリアの責任者であるシャーリー女史は、現在ヴェスパーに呼ばれて席を外している。より重症な者の面倒をみるためだが、ラテラテに言わせると「死なない程度に生かすのがなによりの楽しみと公言するサド」なので、イグナーツはもうダズルの事を考えないようにした。
「ゆっくりでいいから、あと三パックは飲んでおいてね。イグナーツもそっちのベッド使っていいから」
 ラテラテは追加で血液パックを持ってくると、安静にしているようにと言いおいて、パーテーションを立てて行ってしまった。
「・・・・・・すまない。迷惑をかけたな」
「先生!大丈夫ですか?」
「なんとか・・・・・・」
 空になった血液パックから口を離したラウルは、顔色悪いままで微笑んだ。
「あー・・・・・・情けない」
「いくら真祖の先生でも、いきなり伯爵さまに勝つのは・・・・・・」
「ハハッ、そうじゃないよ。まさか。俺がヴェスパーにかなうはずないだろ」
 ベッドサイドの腰掛に控えたイグナーツが、次の血液パックにストローを刺して渡すと、ラウルは礼を言って受け取った。
「イグナーツは、大丈夫か?あぁ、こんなに大きな絆創膏・・・・・・イーヴァルが怒るだろうな。俺としたことが、生徒を守ってやれなかったなんて・・・・・・」
「いえ、大丈夫ですから」
 ダズルの性格はイグナーツも知っていたし、従者としての則に沿ったうえでの負傷なので、恥じるところはない。もちろん、イーヴァルは怒るだろうが、それよりもラウルが怪我をした方が、ヴェスパーが怒るので最大限に避けたいところだ。
「先生は、十分に俺を守ってくれましたよ。俺が貶されたこと、怒ってくれたじゃないですか」
「当たり前だ。イグナーツがイグナーツとして生まれた事の、どこが悪いんだ。あの言い草、思い出すだけでも腹が立つ」
 じゅぅぅぅぅっと一気飲みして空にすると、ラウルは次の血液パックに手を伸ばすついでに、半身を起き上がらせた。イグナーツはすかさずクッションをあてがって、支えてやる。
「ありがとう。・・・・・・俺が俺を情けないと思うのは、なにより『憤怒』イラを喜ばせるようなことをしたからだ。自分を見失うような怒り方・・・・・・。イグナーツは、罪源の『憤怒』に会ったことは?まだないか。会わない方がいい。あれも性格の悪い魔物でさ」
 そうため息をつくと、ラウルは血液パックを片手に、ぽつぽつと自身の昔をイグナーツに語って聞かせた。
「俺はあの時、家族を殺されて怒ったことを後悔していない。『憤怒』に気に入られたことは偶然だったとしても、そのあとも精魂尽き果てるまで復讐に生きた事は・・・・・・全部、俺が選んだことだ」
「やめようと思ったり、誰も先生を止めたりはしなかったんですか?」
 怒りを保ち続けるのは並々ならないエネルギーがいる。それを知るラウルであったから、不躾ではあるが至極まっとうなイグナーツの問いに、ラウルはこれも当然という顔で頷いた。
「全然。視野が狭いと言われればそれまでだけど、その時の俺には、生きる為のよすがが、他になかったんだ。奴らを殺したい同じ目に遭わせたいという気持ちがなければ、きっと抜け殻のような廃人になって、野垂れ死んでいたんじゃないかな。当時はいまよりずっと封建的な時代だったからね。平民が貴族に逆らうには、なかなか難しい世の中だったよ。俺ができた選択は三つ。仕方がない事だと呑み込んで生きるか、命を懸けて罪を犯すか、絶望のまま生きることを放棄するか・・・・・・イグナーツなら、どうする?」
 たしかにイーヴァルを奪われたら、その三つしか選択肢がないのであれば、自分もラウルと同じ道を選びたいとイグナーツは思う。
 人類社会が腐心して作り上げた法治国家において、平等な司法制度とは、狂おしいほどの怒りや悲しみを、生きる為に呑み込める大きさにしてくれることなのではないだろうかと、イグナーツは胸の痛みと共に気付いた。たとえ納得は出来なくても、許せなくても、畳んで胸に仕舞えるように。これ以上の悲劇が起きないように。
 しかし、ダンテが生きていた時代はそうではなく、共に戦ってくれる仲間を募ることも難しかったことだろう。
「俺が生きていることを喜んでくれる人も、俺が復讐に身を落とすことを諫めてくれる人も、その時は、みんな墓の下にいて、この世にはいなかったんだ。俺以外の誰が、みんなの無念を晴らせるっていうんだ?いや、ここにみんなを含めるのは間違いだな。俺が感じた無念を、だ」
 言い直したラウルの、孤高ともいえる潔癖さが、おそらく当時の彼を奮い立たせていたのだろう。征くも倒れるも自分自身の責任だと言い切る、ある種の頑固さがなければ、暴虐な権力者に刃を届かせられなかっただろう。
 しかし、ラウルの峻烈な表情は、不意に悲しげに崩れた。
「でもさ、俺ここに戻ってきて、自分のしたことが、すごく自分本位だったって反省したんだ」
 ヴェスパーが人間だったダンテの墓を作って弔ってくれたと聞いたとき、墓前で死を悼んでくれたと聞いたとき、頭を殴られたかのようなショックを受けたのだと、ラウルは呟いた。
「生きていることを喜んでくれる人も、行動を叱ってくれる人もいなかったけど、死を悲しんでくれる人がいたんだ。トランクィッスルに来た時には、もう後戻りできなかったし、終わりに向かって進むだけの俺を、ヴェスパーはずっと支えてくれた。それなのに、俺はよりにもよって、ヴェスパーに俺自身を殺させてしまった・・・・・・なんて馬鹿だったんだ。犯した罪に相応しく、最後まで一人で死ねばよかったのに」
 声を震わせて自身の首筋に手を当てているラウルに、イグナーツはゆっくりと首を振った。ヴェスパーに噛まれなかったら、ダンテはラウルとしてここにいなかったかもしれないのだから。
「伯爵さまは、先生が還ってきたことを喜んでおいででした。それが、何よりの結果じゃないんですか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「それに、今日先生がいたからこそ、あの町がもう一度階級主義者を代表に戴かずに済んだんです。もうそんなに、自分を責めないでください」
 若いイグナーツには、ラウルを慰められる言葉が見つからない。思いつめた顔をしたままのラウルに身を揉むが、ふと現れた深紅を帯びた影に息を呑んだ。そして、白く形のいい顎をすいとしゃくられ、静かに気配を消して席を外した。