この世の春は護られたり ―4―
そばにあったイグナーツの気配が消えて別人になったので、ラウルは驚いて顔を上げた。 「イグ・・・・・・エルヴィーラ!」 「お邪魔するわ」 パーテーションをまわって現れた、ワインレッドのイブニングドレス姿が、小さな腰掛に着席した。たったそれだけで、質実なだけの医務室が、絢爛豪華な夜会会場になったような錯覚に陥る。 「こんな格好で失礼するよ」 「かまわないわ」 普段は下ろしている長い黒髪が、新年の装いらしくアップにされ、煌びやかな髪留めで上品に飾り付けられている。普段は隠れている白く細いうなじが晒され、眼差しの強さと相まって、その傾城の美貌に平伏したくなるような気持ちにさせられた。 弟のイーヴァルは、若い頃のヴェスパーによく似た、鋭い眼差しと美貌を持っているが、姉のエルヴィーラは、ヴェスパーの妖艶さを強く引き継いだ美しさを持っている。髪に癖が少なく、目の色に赤みが強いのは、母親のファウスタ譲りだろう。 「お加減はよろしくて?お父様が食べ過ぎで苦しいとぼやいていたわ」 「ハハッ、俺はそんなに喰われたのか」 「頭に血が上った真祖を、怪我をさせずに大人しくさせるなんて、当代の伯爵でなければ不可能な芸当だわ。まあ、あなたを袋叩きにできたとしても、こちらの被害も甚大になるでしょうし」 「あ・・・・・・ごめん。お城壊した・・・・・・」 「そんな些細なことを言っているんじゃないの」 エルヴィーラは呆れたとばかりに目を伏せて、ため息をつく。 「つまり、俺は特別扱いなわけだ。他の吸血鬼に刺されないように、背後に気を付けるべきか?」 「心当たりがあるなら、そうなされば?」 「俺、ヴェスパーには、ずいぶん甘やかされているからなぁ・・・・・・」 最後の血液パックにストローを刺すラウルに、エルヴィーラは冷ややかさも極まった眼差しを送る。どうも会話のテンションといい、ペースといい、かみ合わないので、エルヴィーラもラウルとの会話では、なかなか調子が出ない。 「あ、そういえば・・・・・・あの、ダズルとかいう奴、エルヴィーラの客だったか。すまない。顔を潰してしまった」 「いいのよ。私の面目を潰したのはダズルの方だし、そもそも、あれを捕まえる計画だったのよ」 「・・・・・・え?」 ラウルは驚いて少しむせたが、エルヴィーラはそんなこともわからないのかと言いたげに眉を顰め、顎を上げた。 「まさか、あんな下種をわたくしが取り立てるとでも思ったの?」 「え、あ・・・・・・いや、そういうわけでは・・・・・・」 ラウルが詳しい事情を尋ねると、そもそも三者の合意があっての計画だったのだとエルヴィーラは説明した。 ダズルの悪行は噂こそあれ、証拠に乏しくて立証が難しかった。あれだけ完璧に模倣されるのだから、さもありなん。被害者は「悪事を働いたのは自分ではない」という証明をしなければならず、ダズルが作った偽の証拠を前に、歯ぎしりをするしかなかった。 だが、チリも積もれば山となり、ダズルが手広くやればやるほど、ミルド家の目につくようになっていった。内政担当のエルヴィーラとしては、有能な者が蹴落とされるせいで効率が落ち、人間社会に及んだトラブルシュートを担当するイーヴァルも、差別的で階級主義なダズルの影に眉を顰め、総括するヴェスパーとしても看過できなくなっていた。ダズルの手下も続々と増えていき、盤石な勢力になるのも時間の問題だった。 「なるほど。それで、エルヴィーラ直々の声掛りで、新年パーティーを餌におびき寄せて、一網打尽に・・・・・・するはずだったのか!」 それなのに、ラウルと先に接触して暴発してしまい、ヴェスパー、イーヴァル、エルヴィーラが、周到に立てた計画がおじゃんになったのだ。 「もっ、申し訳なぃ・・・・・・!」 「別にかまわないわ。首魁のダズルは捕まえたし、その手足にしかならないような小物を撲滅するのは無理があるもの。いいのよ。お父様は長く遊べるからって、そんな失敗をいちいち気にする人じゃないわ」 ラウルは頭を抱えたが、エルヴィーラは平然としたものだ。 「わたくしがここに来た理由は、それを伝えることだけよ。それじゃ・・・・・・」 「あぁ、待って、エルヴィーラ」 すらりとした立ち姿を見上げ、ラウルは胸の中に沸いた温かい物を言葉にしようと苦心した。 「ありがとう。ダズルのような人物が、市長や支部長になるなんて、俺には耐えられない。エルヴィーラが、そういうのに理解のある、とても有能で、敏腕な為政者であることが、嬉しいんだ。感謝する」 「・・・・・・わたくしを馬鹿にしているの?」 「とんでもない!!ただ、本当に・・・・・・ヴェスパーの後継者が、君で良かったと思っているんだ」 ラウルの真っ直ぐな賛辞に、エルヴィーラは細い肩をそびやかすと同時に豊かな胸を張って、形のよい白い顎をツンと上向かせた。 「それから、この機会に、ひとつ聞きたかったことを、聞いていいかな?」 「どうぞ?」 機嫌の良さが滲み出たエルヴィーラの声音に、ラウルはここぞと畳みかけるように要求を告げた。 「エルヴィーラというのはいい名前だ。気品があって、美しい・・・・・・君によく似合っている。ただ、俺としては、もう少し気軽に、親しく呼びたいんだ。許してもらえるだろうか?」 人を軽々しく愛称で呼びたいなどと言うラウルに、エルヴィーラは心底哀れなものを見る眼差しで嘲笑した。 「あなたが子猫になったように?」 「あれは忘れてもらいたい記憶だけど、君の膝の上でなら、ニャーと言っても構わないよ、ララ。もちろん、俺に首輪を付けたがるヴェスパーには内緒でね」 その時のエルヴィーラの表情の変わりようを、ラウルは一生忘れないと思った。理解、驚愕、困惑、拒絶・・・・・・そして、羞恥。 「な・・・・・・な、なな・・・・・・っ!!」 気位の高さと気の強さで知られる荊姫が、頬を染めて慌てふためく姿は珍しい。呆れられ、冷ややかに見下げられるよりかはマシだが、やっぱりエルヴィーラの好みじゃなかったかなと、ラウルは激しい罵倒を覚悟した。 「ぶ、無礼な!わたくし以外の者がいるときには、そんな呼び方、決してしないで頂戴!!」 声を震わせて勢い良く踵を返したエルヴィーラが、長いドレスの裾をひるがえして、ぷんすこと歩き去っていく後姿を眺め、ラウルはベッドに積まれたクッションに頭を預けて、にっこりと微笑んだ。 「つまり、二人きりの時ならいいんだ」 気に入ってもらえてよかった、その嬉しさが、重く倦んでいたラウルの心を、また少し軽くしてくれたのだった。 エルヴィーラと入れ替わりに医務室を出たイグナーツは、近くの植物園で時間をつぶそうと歩き出した。城内に飾る花や、薬草などが育てられている植物園の中には温室もあり、寒い時期でも凍えずに済む。 しかし、そういくばくも行かないうちに、聞き慣れた声に呼び止められた。 「イグナーツ!」 「イーヴァ・・・・・・!」 城の中なのに飛ぶように駆けてくるなんて珍しい、とイグナーツが思っている内に、イーヴァルに問答無用で抱きすくめられてしまった。 「えっ・・・・・・えっ!?」 「・・・・・・・・・・・・」 ぎゅぅっと大事に抱きしめられるのは嬉しいのだが、耳元に流れてくる低い声音が、延々と呪詛を吐き出しているのに気が付いた。 「コロスコロスコロスコロスコロスコロス・・・・・・」 「イーヴァ・・・・・・」 思わず小さく噴き出してしまったが、イグナーツもイーヴァルに抱き着いて、ぎゅっと抱きしめ返した。イーヴァルのこんなに子供っぽい言動は珍しいのだが、頬の絆創膏には触れないように、そっと髪を撫でてくれる手の優しさが嬉しい。 「イーヴァ、仕事は上手くいった?」 「最悪だ。お前が怪我をした。・・・・・・最初からダズルに接触しないよう気を付けさせるべきだった!!」 「仕方がないよ」 イグナーツが怪我をした以外は、イーヴァルの中ではおおむね問題なく片が付いたのだと、イグナーツは了解した。 「それじゃあ、労災手当として、ひとつイーヴァにお願いしていいかな?」 「言え」 無駄にきりっとした表情で催促するので、イグナーツはまた噴き出してしまった。 「ぷぷっ、あのね・・・・・・眼鏡が無くなっちゃったから、イーヴァと一緒に買いに行きたいんだ。似合う物を、選んでもらえるかな?」 「いいだろう」 ふんと尊大に鼻を鳴らしたイーヴァルは、なんとか平常心を取り戻したようだ。 「まったく、最悪だ。今年限りだ。来年は来るものか!」 「必要があったら、来なきゃいけないんじゃ・・・・・・」 「ずらす!センとオミを見習うべきだと痛感した。来年の正月はお前と二人で過ごす」 「えっ・・・・・・えへへへへっ」 イーヴァルの堂々たる決意に、イグナーツは思わずデレデレと笑うのを止められず、頬の痛みをしばし忘れることができた。 ラウルがパーティー会場に戻れたのは、結局夜半過ぎ。宴もたけなわ、無礼講タイムに突入してからだった。 「まあっ、ラウルちゃん、大丈夫?」 シャンパングラスを片手に、いそいそと近付いてきたのは伯爵夫人ファウスタ。起きている方が珍しい、ヴェスパーの細君である。 「すみません、遅くなりまして・・・・・・。奥様にも、ご迷惑をおかけしました」 「大丈夫よ。まぁ、すごい魔力だったわね。私、あれですっぱり目が覚めちゃったのよ。さすがは真祖ね。ああ、みなさん。彼がラウルよ。普段はうちの人が放さないから、今のうちに聞きたいこと聞いておくといいわ」 ファウスタは少し背伸びをしながら、ラウルの頭をいい子いい子と撫で、親しい婦人たちの輪の中へと引っ張っていく。 「ああっ、ファウスタ、ダンテはこっちに・・・・・・」 「あー、ありゃダメだな。しばらくは女の相手で手いっぱいだろ」 ぷくーっと頬を膨らませるヴェスパーに、クラスターは飲め飲めと酒を注ぐ。 「いやもう、私は腹がいっぱいなんだが?イーヴァル、クラスターのお相手をして差し上げなさい」 「は?俺は口の中が切れたせいでろくに食えないイグナーツでも食べられる物を探すので忙しい」 「あぁ、えっと・・・・・・」 どっちが従者なのかわからない事を言いながら、イーヴァルはイグナーツを掴んで離さない。 エルヴィーラはといえば、だいぶ離れたところで従者たちを引き連れて、招待客たちと談笑している。 「はははっ、やっぱり正月はみんなで楽しく騒ぐのがいいな」 「来年からは来ないぞ」 「イーヴァ、可愛くない事を言うんじゃない。パパは悲しいぞ」 イーヴァルはヴェスパーの戯言など聞き流し、イグナーツを料理の皿が並ぶ方へと連れていく。 「まぁ、先の事なんぞわからんが、今年もいい年になるといいな?」 「まったくの賛同を表明する。今年もよろしく、族長殿」 「こちらこそ、二代目」 ヴェスパーとクラスターはグラスを交わし、華々しいパーティー会場を眺めた。それは、この聖域が、太平の世にある証だった。 |