この世の春は護られたり ―2―


 パーティー会場の準備が整ったらしく、各控え室から順次移動が始まった。席次の関係から、最も上座に近い族長たちが優先的に案内されていく。ラウルとイグナーツもおそらく上座側なので、案内役から声がかけられた。
「どうする?イーヴァルが戻ってきていないが・・・・・・」
「中で合流すると思いますから、行って大丈夫ですよ。席次的に距離が近いでしょうし。それに、会場全体の流れはスタッフの方が把握していますから、お任せした方がいいと思います」
「なるほど。ここで我を通すのは迷惑になるのか」
 イグナーツの理論的な説明にラウルは頷き、にこにこと笑顔を崩さない案内役に従って、控室の出口へ向かう。道順を教えた案内役は、他の招待客へと声を掛けに向かっていった。
「正月早々、大変だな」
 年末年始も休めないなんて、とラウルはスタッフを気の毒に思うが、イグナーツはくすくすと笑って大丈夫だと教えてくれた。
「あの人たちは、屋敷妖精です。世界中の屋敷妖精にとって、このお城に住み込みで働くのは、大変名誉なことなんだそうです。お給料もいいらしいですよ」
 世界中の王宮などには、代々仕えるその国の妖精たちがいるので、余所者が入り込むことはできない。それゆえ、どの国の妖精でも質が高ければ雇ってくれるミルド伯爵の城は、非常に競争率が高いらしい。世界に名だたる五つ星ホテルへの就職以上、と考えれば、ラウルにもその凄さの一端がわかるような気がした。
「おっ・・・・・・と」
「!」
 イグナーツとしゃべりながら歩いていたので、その通行人が見えていなかったラウルはぶつかる寸前で身をかわした。
「失礼」
「おい」
 粗野に呼び止められて、ラウルは首を傾げながら振り向いた。そこにいたのは、数人の取り巻きを引き連れた、妙に扁平な顔をした男だった。その男を見てラウルは最初、蜥蜴人リザードマンかと思ったほどだが、彼らほど屈強な体つきをしていないし、鱗の形跡もない。蛇のような顔形だとは思ったが、つるりとした生白い肌の中に光る緑色の目は、肥大した自尊心を見せつけるかのように鈍く動き、爪や牙を隠す狡知さは欠片も見いだせない。
「なにか?」
「見かけん奴だな。このダズルの前を横切って、先にパーティー会場に入れる身分か。這いつくばって謝罪することを許してやる」
「はぁ?」
 なんだこの頭の悪そうな生き物は、とラウルは思わず表情に出たが、イグナーツには面識があったらしく、進み出て丁寧にあいさつをした。
「こんばんは、ダズルさん。ご無沙汰しております。先生、こちらは主にヨーロッパのコミュニティで役員を歴任されているロマノ・ダズルさんです。こちらは先年からトランクィッスルの学校に赴任されているラウル・・・・・・」
 イグナーツがすべて言い終わる前に、彼の体はラウルの目の前から横なぎに吹っ飛んで床に倒れ伏した。フチなしの眼鏡がカラカラと転がっていく。
「イグナーツ!!・・・・・・イグナーツ、しっかり。怪我は?」
「っ・・・・・・だいじょう、ぶ」
 床に手を突っ張って無理に起き上がろうとするイグナーツを支えたラウルだが、彼の切れた唇や頬がみるみる腫れ上がっていく様子に、なすすべがなかった。
「なんてことを・・・・・・とにかく、医務室へ」
 慌てて駆け寄ってくる屋敷妖精たちにイグナーツを任せ、ラウルは厳しい表情のまま、粗暴な客に相対した。
「道を遮られたことに腹が立ったなら、俺を殴ればいいじゃないか。なぜイグナーツを殴った!?彼に謝罪すべきだ。彼はイーヴァルの従者だぞ!」
「もちろん、知っているとも。ハーフバンシーの忌み子。伯爵家の落伍者にぶら下がった金魚の糞。それが、このダズルに対して生意気にも・・・・・・!このダズルを軽んじて先に紹介するとは、伯爵家で仕込まれた礼儀も枯れ落ちたらしい」
 ダズルとその取り巻きたちは、ラウルの批難にも嘲るように笑うばかりで、まったく反省の色もなければ、敬意の欠片もない。イーヴァルすら落伍者と罵るこの連中を、ラウルは用心することにした。見た目よりもずっと厄介な能力や地位、人脈を持っているのではないかと思ったのだ。
「それは、それは。ずいぶん高貴な身分とお見受けする。では、こちらから自己紹介をしなければならないな。吸血鬼のラウルだ。以後お見知りおき願おう」
「なるほど、最近誰かに噛まれたせいで、この地に逃げ込んできたのだな」
 ダズルは勘違いしたが、当たらずとも遠からずで、あえて真祖であることも言わなかったラウルは黙っていた。おそらくダンテであることを言えば、ダズルの態度は多少変わるかもしれないが、こんな男におもねられるかと思うと、虫唾が走ったのだ。
「新参者が、弁えるといい。このダズルに逆らうことの恐ろしさを、よく覚えておくことだ」
 そう言うと、ダズルの体は、まるで玩具のプラスチック粘土のように、色を取り混ぜながらぐにゃりと歪んだ。
 吸血鬼として覚醒したラウルは感覚がより鋭敏になっていたので、普段なら誰かにぶつかりそうになるほど接近する前に気が付く。それが、今回は直前まで気が付かなかったのは、相手の種族特性によるものだと理解した。
変幻態シェイプシフター!?」
 様々な物体に擬態する能力を持った種族を、総じてそう呼ぶ。宝石箱に擬態して盗人を襲うミミックや、金貨そっくりな見た目のクリーピング・コインなどが代表的で人間にもよく知られているが、いまラウルに擬態した男は、人間に化けて能動的に襲うタイプのようだ。
 ラウルの前に現れた、ラウルでないラウルは、ぐにゃぐにゃと表情を動かした後で、ラウルそっくりに目元を緩めて微笑んでみせた。
「覚えた」
「・・・・・・なるほど、俺のふりをして悪事を働くつもりか。卑怯者の誹りを免れないと思うが?」
「なんとでも言えばいい。それが俺のやり方だ」
 表情も声も同じうえに、話し方まで模倣されると、自分という存在が脅かされているような気がして異様に腹が立つ。
 誰かの分身、あるいは霊的な双子に近いドッペルゲンガーと違って、シェイプシフターは対応するものであれば、どんな見た目であっても模倣、擬態できる。ダズルは様々な人物の姿を借りて、標的の社会的な地位を貶めてきたに違いない。そうやって、自分の地位を上げてきたのだ。
「競争相手を蹴落とすばかりじゃ、内実は全くともなっていないんだろうな。己の実力をもってせず、他人の生まれ持ったどうしようもないことを蔑んで悦に入っているようなろくでなしが、なぜ伯爵の城にいる?」
「口のきき方に気を付けたらどうだ、新参者。多数の統制とは、効率の良い少数での支配だ。無能な大衆なんぞ、醜聞には好んで群がり、権威には簡単に平伏す。それができるから俺が認められているだけで、伯爵のお情けで人間なんかと関わる汚れ仕事を任されている奴の、さらに粗悪な付属品に軽んじられる謂れはない」
 イーヴァルの地道な仕事がどれだけ危険で、どれほど重要なのか、だからこそヴェスパーがイーヴァルに任せているのが、この視野の狭い階級主義のシェイプシフターには理解できないのだろう。誠実で献身的なイグナーツを貶されて、ラウルははらわたが煮えくり返る思いを押し込めながら、やっとの思いで吐き捨てた。
「呆れてものも言えん。イグナーツは優秀な従者だし、イーヴァルでなければこなせない仕事が世界中にある。なぜそんなに気に入らないものを無闇矢鱈に貶めることができる?こんな無知がまとめ役などできるものか!」
「ぴーぴーと煩い雛鳥だな。俺は何年もコミュニティで働き、ヨーロッパの各支部で俺を知らないやつはいないぞ」
「それがどんな種類の名声なのか、ぜひ彼らに聞きたいものだ」
「まだわからないか?今年はエルヴィーラ姫直々に招待されたんだ。ファイレッツォの次期市長にて支部長は約束されたようなものなんだよ」
「いま、なんて言った・・・・・・?」
 空気が凍る場面に遭遇したことは、彼らのやり取りを離れて見ていたイグナーツにも経験があった。だが、時間が凍った瞬間を見たのは、これが初めてだった。
「支部長・・・・・・?お前が、あの町の市長に・・・・・・?お前はあの町を、またあんな風に支配するつもりか?」
 屋敷妖精たちが「ひっ」と息を呑むのを、イグナーツはかすかに聞いた。無理もない。ラウルの周囲が、空間ごとぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちていくように見えたのは、イグナーツだけではなかったようだ。
(ファイレッツォ・・・・・・先生の・・・・・・ダンテ・オルランディの故郷だ)
 あまりいい思い出はない、とイグナーツはラウルから聞いていた。だが、だからこそ、ヴェスパーがこつこつと手を入れて、長い時間をかけて浸潤していったファイレッツォは、現在トランクィッスルに次ぐ最大級の聖域になっているのだ。
「許さない・・・・・・民を虐げる支配者など、俺は許さないッ!!」
 ビキッと空気が割れたのをイグナーツは感じたが、次の瞬間に目を瞑って備えた衝撃はやってこなかった。ひび割れた破壊音が通り過ぎて恐る恐る目を開けたイグナーツは、自分と屋敷妖精たちを護るように立った、大きな黒い背中を見上げることになった。
 イグナーツたちは守られたが、その最初の一撃で、ダズルの取り巻きたちの戦意は消失したと言ってよかった。廊下には十分な広さがあるにもかかわらず、壁も床も天井もひびが走って建材が露出し、花瓶や絵画と言った調度品は粉々に砕け、弾け割れた窓や燭台のガラスが落ちる音が、灯りの消えた薄暗がりに響いた。
「お、おまえ、は・・・・・・!」
 取り巻きたちが腰を抜かして這いずりながら逃げ出す中で、それでもラウルの姿をしたダズルは、吹っ飛んで尻餅をついたまま、本物のラウルを見上げていた。いや、その燃え滾る炉のような目に睨まれ、逃げられなかったのだ。
「あの町で民を虐げてみろ。圧政を敷いて人々を虫けらのように殺してみろ。俺が貴様を殺してやる!!」
 剥き出しになった鋭い犬歯がガチガチと鳴り、磨かれた革靴が一歩踏み出すごとに、床の石材が踏み割れて鋭く跳ね転がっていく。灯りが失われたせいで、彼らの周りだけが薄暗く、その闇の中で金属が融けるようなオレンジ色の炎が、さらなる白光に輝いて捲き上がった。
「ヒィィッ!?誰だっ!?お前はなんだッ!?」
「誰だ?誰なら真似できると思った?・・・・・・ははははははぁッ!!俺を真似する?やれるものならやってみろ!煮えたぎる血泥の川より還りし者が、何を失い、何を得てきたのか、それを貴様ごときが模倣できるならな!!」
 薄闇の中で吠えるラウルの周りを、白々とした光がきらりきらりと回転し始めた。炎のようでもあり、金属のようでもあるそれは、まさしくラウルに相応しい武器になった。滴るような艶めかしい輝きは、冷ややかな慈悲を纏って、もはや感情すら与える存在ではないと、ダズルに対する表情が消えたラウルに従った。
「貴様はヴェスパーの御代を蝕む病葉わくらばだ。刈り取れ」
 すいと動かされた手の一閃は、いっそ優雅なほどだった。細い三日月のような弧を描く大小の鎌は、いまだラウルの姿をしたダズルに襲い掛かり、その指先から脚までをことごとく掻き切り、切り刻んだ。
「ぎゃあああああああぁッ!!!!いだいッ!!いだぁいぃぃッ!!ばかなぁッ!おれの、手が・・・・・・脚がぁッ!!」
 ダズルが驚愕するのも無理はない。シェイプシフターの肉体は、そう簡単に破壊されるような脆さではないのだ。自在に姿を変えるために柔軟で、そして擬態をしてからは、刃も通さない堅固さになっているはずだった。
「たしゅ・・・・・・だしゅ、けて・・・・・・ッ!!」
「逃げるなよ、シェイプシフター。俺は、喧嘩を売った相手から逃げた事なんてないぜ」
 肘から先を失った左腕だけで、ダズルは必死に這いずって逃げようとする。その栗色の巻き毛頭を、ラウルはむんずと掴んで持ち上げた。
「ぁ・・・・・・ぁああ・・・・・・ッ」
「俺の顔で、そんな情けない顔をするなよ。なぁ?俺の真似をするんだろ?こうだよ、こうやって笑うんだよ」
 穏やかに目元を緩ませたラウルは、ぐにゃぐにゃと足掻いて他人の顔になろうとするダズルに向かって、犬歯が見えるようにニィッと唇を吊り上げてみせた。
「滅びろ、クズが」
 刈り取る為の湾曲した刃が、ダズルの胴体を輪切りにするために殺到した。