賢い子猫 ―2―


「これでも、感謝しているのよ。あの絡みがウザいお父様を、貴方はよく構ってくれているんですもの」
「・・・・・・・・・・・・」
 グランドピアノが鎮座するサロンにやってきて、エルヴィーラはカウチソファのひとつに腰かけると、ラウルを膝におろした。
「エリサ、なにか弾きなさい」
「はい、エルヴィーラさま」
 暖炉に火が入り、エルヴィーラの侍女のエリサがポロポロと鍵盤に指を滑らせる。
「お父様からは、よく聞かされていたわ。ほとんどが思い出話だけど、貴方の『無理のない、分けた考え方』こそが『慈悲』だと、お父様が言っていたわ。困難が現れれば勝手に団結する。だからそれ以外は、互いを「そういうものだ」と認識し、深く干渉するべきではない、と・・・・・・」
「みゃーッ、みゃーッ」
 エルヴィーラに撫でられながら見上げてくるラウルが、子猫の癖に賢し気な顔で鳴くが、やはりその声は言葉に聞こえない。
「ほほほっ、全然わからないわ。そうね、この話はラウルが元に戻ってからにしましょう。・・・・・・お父様の仕事が終われば、すぐに帰して差し上げるわ。次期伯爵として、わたくしも忙しいのよ」
「うにゃ・・・・・・」
 丁寧に手入れをされた爪と指先で顎を撫でられ、ラウルはごろごろと喉を鳴らした。
 エルヴィーラにとって、ラウルは同族の若い異性、それ以上ではない。ラウルはエルヴィーラの父であるヴェスパーと親交があり、前世の記憶もはっきりしているせいか、伯爵家の子供たちよりも年下なのに、弟妹に接するかのような慈しみのこもった態度をすることが度々あるが、礼を失するほどではない。平民の出ではあるものの、愚鈍とは程遠く、吸血鬼としての美意識にも馴染みつつある。
(好みの男ではないのだけれど・・・・・・)
 顔を見るのも嫌な同族や夜の子もいるが、ラウルは比較的話の通じる同族で、しかも見た目も悪くはない。高飛車なエルヴィーラを相手にしても、媚びたり卑屈になったりすることがなく、柔和な雰囲気と堅固な自意識を駆使して会話をすることができる。なにより、最大の難人物であるヴェスパーとのパイプ役、あるいは緩衝材、あるいは言うことを聞かせるための弱みとして、これ以上の適任がいない。
(ふふふっ、よいお友達でいましょう)
 逆にいえば、敵に回したくない、なるべく味方でいて欲しい、重要な人物なのだ。どうやらラウルにとってもエルヴィーラは好みの異性ではないらしく、どんなにエルヴィーラが美しく魅力的にアピールしても、ラウルは全く興味を示さなかった。ヴェスパーを見慣れているせいで耐性があると言えばそれまでなのだろうが、自分の美貌に絶対的な自信があったエルヴィーラとしては、少々どころではなく面白くない。しかし、エルヴィーラの見た目にも惑わされないタフな精神力の持ち主が、無条件に伯爵家の味方に付いていると思えば心強い。
 ポロン、と一曲が終わり、エルヴィーラの目配せで、エリサは別の曲を弾き始めた。
「それにしても、いつ戻るのかしらねえ、ラウル?もう三日目?いったい、いくつ重ね掛けされているのよ」
「きゅぅーん・・・・・・」
 柘榴色のドレスの上で、栗色の毛玉が項垂れる。いくら初等部の子供が使うものとはいえ、そもそも変身魔法がすべての魔法の中では中〜高レベルに分類されており、いままで魔法とは無縁の生活をしてきたラウルにはどうしようもないのだ。
「素質があるかどうかは別として、少しは習ったらいかが?理論を知っているだけでも、多少抵抗が上がるんじゃないかしら?」
 精神力が強いことと、魔力に親和性があることと、知識を蓄えられることは、まったく別の話であるが、それぞれの素養が高いほど、相乗効果が得られるのは言うまでもない。元人間とはいえ、ラウルも真祖であるからには、吸血鬼が習得可能な魔法がいくつかは覚えられるはずだ。その過程で、基本的な理論くらいは学習できるだろう。
 まんまるに見開いたキトゥンブルーが、まるであっけにとられたかのようにエルヴィーラを見上げていたので、「なによ」と指先で小さな額をつついた。エルヴィーラが他人を気にかけた発言をすることは確かに稀だが、そんなに驚かれるなんて心外だ。
(この見た目のせいね、わたくしらしくないわ)
 ミルド家の荊姫イバラヒメと揶揄されるエルヴィーラすら丸くさせるとは、子猫ラウル、まったく罪な姿である。
「あら?」
 指先でぐりぐり撫でていた子猫から、ぽすぽすと煙が出ているように見えて、エルヴィーラは首を傾げた。
「ラウル?貴方なに・・・・・・きゃッ!?」
「うにゃーーーー!?!?!?」
「エルヴィーラさま!?」
 ぽぽぽぽんっぽすんっぽすんっぼわわん・・・・・・もくもくとたちこめる煙にむせながら、エルヴィーラは自分のドレスが引っ張られるのを感じた。
「けほっけほっ・・・・・・急に・・・・・・けっほ・・・・・・ラウル?」
「うにゃぁ・・・・・・にゃーにゃ・・・・・・」
 子猫の甲高く細い声から、成人男性の低い声にはなったものの、ラウルはまだ猫語のままのようだ。エルヴィーラの膝の上から転げ落ちたせいで、床にたたきつけられた尻や肘をさすっている。
「ら・・・・・・」
「ぁにゃ?」
 栗毛色の頭髪からは三角耳が飛び出し、ふかふかの毛に包まれた尻尾がしゅるんと床に這っている。しかし、その他の姿は元に戻ったようだ。・・・・・・残念ながら、服はなかったが。
 言葉もなく、弟とそっくりな角度に柳眉を寄せただけのエルヴィーラに代わって、金切り声を上げたのはエリサだった。
「きゃあああああああああああ!!!エルヴィーラさまから離れなさい!!!」
「にゃあああッ!?!?!??!?」
 悪魔の形相で飛び掛かってくるエリサを避け、ラウルはソファや椅子の後ろに隠れた。しかしそこは出入り口に近く、エリサの悲鳴を聞いて飛び込んできたクリストファとジャックから丸見えの位置だった。
「エリサ、どうした!?」
「お嬢!」
 ケモミミと尻尾を生やした全裸男がうずくまる後ろ姿、それが、クリストファとジャックが見たものだ。
「なっ・・・・・・!」
「なんだテメェッ!?」
「んぎゃあぁぁーーーー!?!?!!!!」
 ラウルは投げつけられた何本ものダガーから飛び退き、そこに襲い掛かってきた大振りのサバイバルナイフをかいくぐって、ピアスだらけの青年を蹴り飛ばした。椅子をなぎ倒しながら悲鳴を上げるジャックを見届ける間もなく、ラウルは火炎放射器のような勢いで迫る熱から逃げてグランドピアノを回り込み、その高さをも超えるジャンプを披露して、まったくの死角からクリストファに飛び蹴りをお見舞いした。
「グハッ!!」
 そして、横から再び飛び掛かってきたエリサの服を掴み、吹っ飛んだクリストファに向けて投げ飛ばす。
「きゃぁ!!」
「うがっ!!」
「フーーーッ!!!」
 ラウルは窓際のカーテンの中に素早くもぐりこんだが、それ以上どうにもできなくなってしまった。エルヴィーラの従者たちとはなるべく戦いたくないが、襲ってきたのはむこうである。
「情けないわねぇ。いくら相手が真祖吸血鬼だからって、いまは半分猫になっているのよ?それを三人がかりでも取り押さえられないなんて・・・・・・」
 カウチソファに座ったままのエルヴィーラは深くため息をついて、不甲斐ない従者たちを嘆いた。
「エルヴィーラさま!?」
「何事ですか!?」
 遅れてサロンに駆け込んできたメイドたちに、エルヴィーラはレジナルドを呼ぶように命令した。
「ラウルの体がだいぶ戻ったのだけれど、まだ完全じゃないの。彼が着る物を持って来なさい。お父様の仕事はまだ終わらないの?」
 まわりが騒がしくなるにつれて機嫌が急降下してきたエルヴィーラは、ドレスの裾をはらってソファから立ち上がると、あちこちが破壊されたサロンから、さっさと出ていくことにした。
「エリサ、クリストファ、ジャック、いつまでも呑気に寝ていないでちょうだい。・・・・・・ラウル、またおしゃべりしましょう」
「きゅぅーん・・・・・・」
 こんもりと膨らんだカーテンからの返事に満足して、エルヴィーラは優雅な足取りで去っていった。
 もちろん、クリストファとジャックは不審者への再戦を叫んだが、自分たちを蹴り飛ばした全裸の男がラウルだと知ると、気まずそうにエルヴィーラを追いかけて行った。悲鳴を上げたエリサに、先に言えと文句を言いながら。
「ラウルさん?レジナルドでございます。メイドは下がらせましたので、出てきてください」
「・・・・・・にゃぁ」
 分厚いカーテンから、恐る恐る顔を出したラウルの、ぺたんと伏せられたケモミミを眺め、レジナルドは丸眼鏡のブリッジを押し上げながらため息をついた。
「旦那様が首輪をつけたいとおっしゃられても、わたくしには止められませんので、ご容赦くださいませ」
「ふぎゃっ!?」
 レジナルドから、靴と上着と、尻尾の出せるズボンをもらい、とりあえずの身なりを整えたラウルだったが、ヴェスパーの仕事がすべて終わるまでは行かないと、手近な客室に立てこもった。
 案の定、子供たちから「やればできる」と言われる神速で仕事を片付けたヴェスパーが、鈴付きの赤い首輪を片手に突撃してきたので、ラウルの怯えっぷりを笑う者はいなかった。
「ふぎゃああああああ!!!!!にゃあああぁ!!にゃああぁぁああ!にぎゃぉぉぉん!!!」
「さあ、できた!よく似合うじゃないか!!あぁ、可愛いなぁ!!」
「フゥゥゥ・・・・・・ッ!!!」
 ラウルが思いっきり眉間にしわを寄せて、尻尾もけば立っているというのに、ヴェスパーはお構いなしに抱きしめ、ふかふかの栗毛を撫でまくるのをやめない。化け猫族でもないのにケモミミと尻尾を生やした、健康的な成人男子として痛ましい姿になっても、健気に忍耐を発揮し続けるラウルを、レジナルドは心底褒め称えたく思った。