賢い子猫 ―3―


 ラウルの体が子猫から戻ってから、二日ほどで言語が戻り、さらにもう二日かけて、ようやくケモミミと尻尾が引っ込んだ。
 その間、ヴェスパーはご機嫌でラウルを侍らせていたが、当のラウルはしらけた顔で城の蔵書を読み漁っていた。ヴェスパーが書斎にいろとうるさいので傍で過ごしていたが、話題に参加する資格もつもりないのに、勝手に聞こえてくるヴェスパーの仕事の会話をケモミミが拾って動いてしまうので、興味はないんだと主張しても、ヴェスパーにニヤニヤ笑われるのが地味に苦痛だった。
 なにも気にするな、俺は空気だ、無になるんだ、と自分に言い聞かせ続けた数日は、ラウルに一生分の忍耐を使い果たしかと思わせるほどだった。
(子猫の方がマシだった・・・・・・)
 どうして一気に戻ってくれなかったのかと嘆いたが、どうにもならない。せめて、エルヴィーラに言われた通り、魔法の基礎から勉強を始めようと固く決心をした。
「まったく、酷い目に遭った・・・・・・」
「可愛かったけどなぁ」
 もう一回見たい、とニコニコ笑いながらワイングラスを傾けるヴェスパーを、ラウルはうんざりと眺めやり、ココットに入っているチーズたっぷりなカボチャグラタンをフォークでつついた。テーブルには「チシャと玉ねぎの星屑サラダ」をはじめ、「白銀鴨のロースト、ブラッドソースがけ」「ビリビリキノコのオムレツ・秋」「ほうれん草の底なしポタージュ」「千年リンゴのジュレ」等、ハロウィンのご馳走が並んでいる。
「人の不幸を笑うな。性格が悪い」
「周知の事実を言われても何も思わないが、首輪を取られてしまったのだけは残念だ」
「もらった腕時計をはめられるようになったんだからいいだろ!」
 ラウルはケモミミが引っ込んだ瞬間に、さっさと首輪を外していた。ヴェスパーが大変満足していたし、実際似合うから仕方がないと我慢したのは、自分でもよく頑張ったと思う。ヴェスパーの趣味はよく知っていたが、自分がそれに付き合うのはなるべく御免被りたい。なにより、恥ずかしい。
「エルヴィーラにも迷惑をかけたな」
 嫁入り前のお嬢さんに素っ裸を見せてしまったという申し訳なさに、ラウルは何回も赤面する。しかも、ケモミミと尻尾までついた、ラウルの元人間としての感性からすると、かなりマニアックな姿で。
「あの子は男の裸体を見たぐらいで傷付くような、か弱い精神はしていないよ?私の娘だし」
「やたらと説得力のある理由を述べるな。それでも娘の父親か」
「あの子がお前を連れていってしまった結果だ。自業自得というもの」
 ふふんと鼻で笑うヴェスパーは、子猫のラウルをエルヴィーラに連れていかれたのを、まだ根に持っているようだ。自分が仕事をさぼったせいという、これも自業自得な部分は、すっかり棚に上げているが。
 食事を済ませると、ラウルはバルコニーに出た。肌寒い秋の夜風が、上等なワインに温まった頬を静かに撫でていく。
 伯爵の居城は、針葉樹が背を競う険しい山に囲まれ、ラウルの場所からは城の石垣や庭園がわずかに見えるだけ。遠すぎて山向こうにあるトランクィッスルの明かりも見えないが、空を見上げると、星明りとは違う瞬きや、黒い影が、時折横切っていく。花火の音も、賑やかな歓声も聞こえず、木々を渡る風や、夜の森で蠢く気配の、穏やかな静寂だけがラウルを包んでいく。ただ、どことなく胸が騒ぐような、ざわざわしたものが皮膚を粟立たせた。
(これが、ホルトゥス州のハロウィンか)
 昔はどうだったかと思い出そうとするが、あまり記憶にない。おそらく、灯りに乏しい時代だったので、日暮れと共に寝てしまったのだろう。それとも、ヴェスパーに今夜は早く寝ろと言われたのだったか・・・・・・。
「ダンテ、そろそろ中に戻りなさい」
 バルコニーに出てきたヴェスパーを振り返り、ラウルは自分の思考とシンクロした現象に微笑みながら手すりに寄りかかった。
「もう少しいちゃダメか?なんだか変な空気が・・・・・・木の匂いに混じって、嗅ぎ慣れない風が吹いている気がする。硫黄?違うな。なにか腐ったような・・・・・・」
 植物の腐敗臭はそれなりに嗅ぎ分けられるラウルだが、夜風に混じって、次第に強くなっていく悪臭は、汚物や動物の死体のような臭さだ。
「ああ、死臭だね。ハロウィンだから仕方がないよ」
 あっさりと頷いたヴァスパーは、ラウルを腕の中に収めるように寄り添うと、辺りを見回し、ほらと指をさした。
「あれが出るから、屋内にいた方がいいんだよ」
「!?」
 ラウルには最初、城の傍にある山が動いているように見えた。だが実際には、その巨大な影が、山の向こうからぬうぅっと姿を現してきているのだと理解した。驚きに思わずこぼれた囁き声も、ヴェスパーにだけ聞こえる小ささだ。
「近い、でかい、絶対にヤバいやつだろ、コレ!」
「はははっ、今夜はむこうとこちらの境界が曖昧になるからね。まあ、年に一度の、珍しいものだよ」
 トランクィッスルで花火を上げ、町から離れた集落でも香木やハーブの松明を掲げるなどするのは、このハロウィンに出現するモノを寄せ付けないためだった。ホルトゥス州の住人達でも手に負えないようなものは、この世界の外側にはいくらでもいる。伯爵の城でも香を焚いていたが、バルコニーまでは遠く、死臭の方が強く感じられたのだ。
 ヴェスパーに再度促され、ラウルは素直に室内に戻った。おかしなものを見たせいで、すっかり酔いが醒めてしまった。
「やれやれ、飲み直すか」
「そういえば、トリックオアトリート!って言わないんだね」
 ヴェスパーは言われるのを楽しみにしていたらしいが、ラウルは肩をすくめるばかりだ。
「ご馳走なら、さっき食べさしてもらったし。俺はヴェスパーに悪戯しようなんて、命知らずじゃないぞ」
「ふむ・・・・・・」
「つまらなさそうな顔をするな。恨むなら、自分の高スペックを恨め」
「では、私から言おう。Trick or treat !」
 差し出されたヴェスパーの手を掴み、ラウルは仕方なく微笑んだ。ヴェスパーの悪戯なんて、きっと地獄を見るに違いない。それならば、ご馳走した方がはるかにマシだ。
「ほらよ」
 重ねた唇越しに、濃いワインの残り香が鼻をくすぐる。ずるずると吸い出されていく血の気に、ラウルはくたりとヴェスパーにもたれた。すらりとした体形にもかかわらず、ラウルを軽々と支える鋼のような四肢は、さすが吸血鬼の頭目と言えるだろう。
「子猫の姿では、こういうのは出来なかったなぁ」
「もう少し素直な表現で喜んでくれ。でもまあ・・・・・・子猫の俺も、ヴェスパーに抱っこされて、柔らかく撫でられるの、悪くなかったな」
 ラウルはヴェスパーの肩や首に腕を回して、甘えるように牙が覗く唇を開いた。「ひゃぁ」という空気が抜けるような音は、生き抜くための野生の知恵だということを、ラウルは知っていた。