絵画の淑女 ―2―


 『ライヒャールの淑女』という名の絵画は、オミが思っていたより小さかった。小脇に抱えられる大きさで、それは麗しい女性が描かれている。
 白桃のような頬、穏やかな眉目、少しはにかんだ微笑を浮かべる唇・・・・・・モデルになった女性は、いったい誰を見ているのだろう。たっぷりと襞を取った服はエレガントで、波打つ金髪にはエメラルドの髪飾りが挿されており、たおやかな白い手には手袋が握られている。
(これが呪いの品ぁ・・・・・・?うーん、本当に何も感じないけどなぁ)
 オークション前の下見会でも、オミは何も感じず、本当にこれで合っているのかと首を傾げた。イーヴァルも依頼人が所持している古いモノクロ写真しか見ておらず、絵面は一応、間違いないらしい。一時は罪源が関わっているのではと思われたが、その心配はなさそうだ。オミの力が強すぎて、相手にある程度の力がないと感知できないという例外はあったが、イーヴァルたちに害があるようには思えなかった。
 オミは警備員たちの気をちょっと逸らせておき、言われたとおりに天鵞絨で額縁ごと絵を覆って、バスケットボールチームのロゴが印刷された丈夫な布バッグに滑り込ませた。
「よいっしょ」
 そのバッグを抱えて天井に張り付いた瞬間、分厚いドアが押し開けられて、武装した男たちがなだれ込んできた。
 警報が鳴り響き、警備員と武装勢力が衝突している間に、オミは蜘蛛のようにするりと待機室を抜け出て、ラウルがぶち破った窓から外へ飛び出した。本来なら、目立ちすぎるオミに代わってラウルが絵を持って非常階段を下りるはずだったのだが、致し方がない。ちなみに、ここは建物の五階だ。
「連中の仲間が外にもいるはずだ。気を付けて」
「わかったよ。ラウルも急いでおいで」
 武運を祈るよ〜と落ちていくオミの声を聞きながら、ラウルは複数の足音と銃弾の中へと滑り込んでいったようだ。
 オミは地上で騒ぐ人間の視界から隠れるように、あちこちの影に入りながらセンが待つ車へと降り立った。
「センちゃんただいまー!僕ちゃんとやれたよ!褒めて褒めて!」
「グッジョブだ、オミ。こちらセン。目標回収。直ちに発進する」
 犬のように目を輝かせながらバンに転がり込んできたオミの頭をひと撫でし、センはアクセルを踏み込んだ。
 センから脱出の報を受け取ったイーヴァルは、警報に浮足立つ会場を一回り眺め、分厚い出品カタログを片手に席を立った。オークションは始まっていたが、まだ『ライヒャールの淑女』が出てこないので、この会場にいる他の誰が狙っているのかわからない。
(いったい誰だ?ただでさえ面倒な仕事を、ややこしい事にしやがって)
 スマートに持ち去る予定を狂わされて、イーヴァルはきつくなった眼差しを隠すようにサングラスをかけて、ごった返すオークションハウスを出た。タクシーを拾って集合場所に向かいながら、スマートフォンを取り出す。
「リック、どうなっているんだ?」
『いや、どうもこうも・・・・・・ああ、やっぱり同じ目的だったみたいだ』
 電話の向こうから、少年のように甲高い声がイーヴァルに答えた。
「ラウルは無事か?」
『たぶん大丈夫だよ。っていうか、吸血鬼ってカメラに映りにくいんだよ。見辛ぇ』
「侵入者が何処の陣営かわかるか?」
『そんなこと俺がわかるわけないでしょ、旦那。あ、ラウルが相手の通信機ゲットしたみたい・・・・・・って、おいおい、こんな物使ってんのかよ。ハッキングしてくださいって言ってるようなもんだぜ』
 うきうきした声に雑音が混じり、イーヴァルは顔を顰めた。
『ああぁ・・・・・・ヤバい、ヤバい。でも、ラウルがカバーに入った。追いつくかなぁ?』
「どうした?」
『バンが見つかった。つけられてる』
 イーヴァルは舌打ちを隠さず、潜伏場所の再検討に入った。セキュリティの強固なホテルも悪くはないが、もっと我々側・・・の場所にするべきだ。
「リック、ラウルのサポートを頼めるか?報酬は追加で弾む」
『了解!お任せあれ!』
 イーヴァルは通話を切り、ラウルを信じてシートに身を沈めた。渋滞にはまらなければ、そう時間を置かないでセンたちと合流できるはずだ。
 「任せろ」などと大見えを切ったラウルではあるが、戦闘はまったくと言っていい素人である。ただ、人間よりもずっと感覚が鋭敏で、大抵の人間よりも少しばかり力が強い、というだけだ。尤も、真祖として目覚めたいま、身体能力が並みの吸血鬼を上回るので、常識的な物理法則などあってないようなものだが。
(映画のスーパーヒーローになったみたいだな)
 ビルの谷間を飛び越え、走行する車列の上を、動く歩道よろしく駆け抜ける。たまたまラウルを視界にとらえたらしい通行人の、あっけにとられた表情が、一瞬で後方へと流れていった。
 耳元ではさっきから、陽気なDJが罵声をものともせずヒップホップを流している。
『ヘイ、ユー!まぁだ渋滞にはまってんのか?家の冷蔵庫でビールが待ってんだろ?急げよ!!今夜もゴキゲンなナンバーを、DJリッキーがお届けするぜ!チェケラッ!!』
(チェケラッ!じゃねえよ、リック!ナビしてくれよ!!)
 グレムリンリックにハッキングされた通信機には、謎の武装勢力が口汚く罵っている声も複数混ざる。逃げられそうな獲物を追いかけている時に、このなんちゃってDJはイラつくに違いない。
 センたちが乗ったバンを追うラウルも焦っていたが、前方に見覚えのある形を見つけた。かなりスピードを上げているので、運転しているセンは冷や汗ものだろう。一瞬、追跡車を追い越してしまったかと思ったが、ウィンドウから顔を出した物騒な物が火を噴いている頑丈そうな車に、ラウルは無事着地することができた。
「なっ!?」
 頭上からの音に驚いた顔がラウルを見上げたが、ラウルは素早く相手の銃を叩き落とした。
「イッァアアアッ!」
「ああ、すまん。折れたな」
 ありえない角度に手首が曲がった男が車内に引っ込むと、今度はラウルの足元に連続して小さな穴が開いた。
「ひゃっ」
 バンバンと発射される弾丸を避けながら、ラウルはオークションハウスの乱戦で奪ったハンドガンを腰の後ろから引き抜いた。弾丸がルーフの鉄板を貫通するなら好都合。
「バァイ」
 バンッ、という音は一回だけで、ラウルはフロントガラスに血飛沫を付けた頭がクラクションを鳴らし続ける追跡車から、近くの街灯へと飛び移った。そして、後方で中央分離帯に衝突し大破している車を一瞥しただけで、再び車の上を飛び移りながら、仲間の車を追いかけた。
 遠くから、市警のサイレンが近づいていた。

 瑞々しい緑に囲まれた大きな館は、夜のとばりが落ちた後も、温かな光が窓に灯り、きゃいきゃいとはしゃぐ元気な子供たちの声で満ちていた。
「大丈夫、センちゃん?」
「もう、死ぬかと思った・・・・・・」
 ぐったりしたセンは、ハンカチで扇いでくれるオミの膝枕でソファに転がっている。センが運転していたバンには、いくつかの弾痕が穿たれており、タイヤやセンに当たらなかったことが奇跡だ。
「あんた達、最高だ!まるでムービースターみたいだったよ!で、なんで俺たちのねぐらにいるんだい?」
 痩せぎすで小柄な男は、十代の子供のような容姿で、DJリッキーと同じ声でしゃべった。
「競合者の正体がわからない事には、シティは安全じゃない」
「そりゃわかるけど、じゃあ俺たちは巻き込んでいいのか?」
 当然の非難を挙げるリックに、イーヴァルからぽんと二十ドル札の束が二つ手渡される。
「ありがとう、リック。世話をかけるな」
「お安い御用だ、旦那」
 うわぁ札束で殴った・・・・・・などとラウルは表情筋がひきつったが、とにかく逃げ切った安堵から腰が立たないので、この孤児院に隠れられるのはありがたい。
 みんなの部屋を作ってくるよ、とリックが席を外し、イーヴァルはさてと他のメンバーに向き直った。
「いますぐ出国したいところだが、安全が確認できない事にはな」
「俺たちじゃあるまいし、絵が欲しければオークションで競り落とせばいいのに、なんで盗もうとしたんだろうな?」
 ラウルの疑問は尤もだ。あの絵の情報を、一般の庶民が知るとは考えにくい。また、危険を冒してまで盗もうともしないだろう。
「つまり、オークションに参加できない理由があった」
「だけど、兵隊を雇う金はある。ただ、質はあんまりよくないけど」
「それは実際に戦った感想か、ラウル?」
「んー、リックも言っていたんだけどさ」
 武装が揃いのわりに、プロなら当たり前に選ぶような物ではなかった。軍人や傭兵というより、市街戦に慣れた、ならず者たちにお仕着せを支給したような印象だったのだ。
「本当にギャングやマフィアだったらシャレにならん。話が通じないからな」
「うーん・・・・・・」
 頭を抱えるイーヴァルとラウルに、ひょいと挙げられた手があった。
「はいはーい。ねえ、ちょっといい?」
「なんだ、オミ」
「あのさあ、いまさら言うのも何だけど・・・・・・あの絵、偽物じゃない?」
「「は?」」
 異口同音にオミを凝視したイーヴァルとラウルが、再び揃って目を逸らせた。いついかなる時も、罪源の魔力は大いに輝いている。
「う・・・・・・どういうことだ?」
「つまりね、アイツらが来るのがわかっていたか、わざと盗ませるために、偽物を用意したんじゃないかなって思ったんだ。罪源が携わった品物を持っているような人間が、死ぬのが怖いからって、あっさりと本物を手放すかなぁって・・・・・・」
 うーんとオミも首を傾げるが、イーヴァルは目からウロコが落ちたとばかりに瞠目した。
「なるほど・・・・・・そういうことか!」
「本物は手元において、贋作を売ってさらに儲けるってことか。それとも、わざと盗ませて保険金詐欺か?きったねえ!!・・・・・・でも、今日盗ってきた物、本当に偽物なのか?」
「さあ、そこまでは僕にもわからないよ。センちゃんは?」
「はぁー?刀剣ならまだしも、絵の鑑定なんてできるか」
 センは投げやりに答えたが、なにか思うところがあったのか、ふと起き上がった。手袋をはめて天鵞絨を剥ぎ取り、額をそっと外してみた。
「若様、この絵は何年に描かれた?」
「正確にはわからないが、百五十年近く前なのは確かだ」
「なら、こいつは偽物だ」
 見てみろ、とセンが示したのは、絵の側面と裏側。絵の具が付いていない、布や木の部分だ。
「新しすぎる・・・・・・?木も布もまだ白いし、止めてある金具もピカピカだ」
「そうだ。しかもこいつは綿だろう。そもそもキャンバスは帆布・・・・・・麻を使っていて、綿も使われるようになったのは、二十世紀に入ってからだ」
 誰も本物を見たことが無いのをいいことに、ここまで杜撰な造りで騙そうとするなど、人を馬鹿にし過ぎだとセンは呆れる。
「オミ、お手柄だ」
「えへへっ。センちゃんの知識があったからだよ〜」
 またイチャイチャし始めたオミとセンを放っておいて、ラウルは手袋をはめて贋作の肖像画を片付けた。
「・・・・・・・・・・・・」
 父親そっくりの表情で黙考するイーヴァルに、今は声をかけない方がいいだろう。