還らずの理想郷 ―1―


 かつて冤罪の罠にはめられ、心身の尊厳を踏みにじられた少女が、いまは着飾って淑やかに笑っている。都落ちする主を背で覆って、血河流れる戦場に残った勇士は、穏やかに微笑んで肩を叩いてきた。そして、裏切りと貧困の辛酸をなめた同郷の男は、心からの親愛を示して両腕で抱きしめてくる。
(よかった。みんな、もう苦痛はないんだな)
 胸にほっこりとした安堵が満ちると、三人から発せられる温かな感情のうねりが大きくなる。
(俺も、こんな風に・・・・・・)
 ゆらゆらふわふわとした感覚が、さらりとしたシーツに沈む肉体に戻っていく。
「・・・・・・・・・・・・」
 自室で目を覚ましたラウルは、胸郭を膨らませて大きく呼吸すると、のそのそと起き上がって窓の鎧戸を開けた。
「ちょっと寝過ごしたな」
 予定のない休日だから目覚ましをかけていなかったが、冬の冷気が満ちた外は、もう真っ暗だった。


 冬至前に行われる、トランクィッスルの学校を会場にしたバザーは、ミルド伯爵家をはじめ、各企業が協賛しており、毎年盛況だ。集められた寄付金は、主に各地の異形種の子供たちを支援するために使われている。
 主催は学校なので、バザーのスタッフの多くは教員と生徒の保護者だ。初等夜間部担当のラウルも、もちろん昼過ぎから駆り出されている。
「ラウル先生〜!」
「お、いらっしゃい」
 物品の販売は中等部の校舎で行われており、初等部と中等部の中庭では入り口で食券が売られ、その奥で飲食物の屋台が開かれていた。じゅうじゅうと美味しそうな匂いを漂わせているホットドッグの屋台で、ラウルはイグナーツとレルシュとアゼルの、いつもの三人組を迎えた。
「三つく・・・・・・」
「五つな!」
「よく食うな・・・・・・」
 一人で三つ食べるつもりのレルシュに、アゼルが呆れている。
「了解」
 大きなソーセージと一緒にレタスとスライスオニオンが挟まったパンを受け取ったイグナーツとアゼルと、両手と口にホットドックを突っ込んだレルシュは、屋台横の飲食スペースでもごもごとやった。飲料を扱っている屋台も近く、三人の紙コップには温かいワインが入っていた。
 昼過ぎという時間から客足はまばらだが、暗くなってからがここの住人の本番だ。昼間はホールでコンサートなどが開かれているが、夕方からはオークションがある。腹を空かせた客は、まだまだやってくるだろう。
「忙しそうな場所を取りましたね」
「俺が取ったんじゃないよ。『アッカーソン先生はこちらでお願いします』って言われただけさ」
 その割には、調理や紙に包む様子が手馴れているし、食券の受け取りもよどみがない。飲食系のアルバイトでもしたことがあるのかな、とイグナーツは思ったが、そもそもラウルは前世から数えた人生経験が長いのだ。色々とやったことがあるに違いない。
「君たちは店番とかないのかい?」
「ないでーす」
「研究や勉強している人が多いから、基本的には。ゼミの展示やオークションの手伝いをしている人たちはいますけど」
「よくやるよなー」
 イグナーツとアゼルが半分食べ終わるかどうかという時点で、すでに三つ目を食べ終わりそうなレルシュは、次の食べ物を探してきょろきょろし始めた。
「あん?」
「どした?」
 すんすんと鼻を鳴らしたレルシュにアゼルが顔を向けると、最後の一口を頬張った顎をしゃくられた。
「え?」
 その先を見たアゼルはあんぐりと顎を落とし、同じものを見ようと身を乗り出したイグナーツも、ホットドックを咥えたままぽかんと目を見開いた。
「ラウルさ〜ん!こんにちは!」
「おおっ、ラダファムくんじゃないか。いらっしゃい」
 年少修道士服の上に濃紺色のフェルトのコートを着た少年が、ふわふわした金髪を揺らしながら軽快に走ってきて、ラウルの売店の前でぴたっと止まった。
「あのね、クロム神父に会ってもらえないかな?ラウルさんを攻撃しないようにするアイテムがあるから、平気らしいんだ」
「へ?」
 トング片手に、ばばっと辺りを見回したラウルは、屋台からかなり離れた中庭の入り口に、赤毛の魔法使いらしい男を従えた白い人影を見つけた。まわりからチラチラと注目を浴びているようだが、遠巻きにされたり攻撃されたりはしていないようだ。
「・・・・・・あー。アレを持っているのか」
「知っているの?」
「まあね」
 ラウルは聖性を抑え込む神器級アイテムを確認したが、さて店番をどうしようかと視線を巡らせ、「俺がやりますよ」とイグナーツに微笑まれた。
「悪いな」
「いえ。ただ、このことはイーヴァにも報告させてください」
「任せるよ。ヴェスパーにも言わなきゃいけないだろうし」
 しかし、この状況をそうあれとヴェスパーが望んだのだろうということは、封聖のケープの一着を託されているラウルには想像がついた。

「その節は、誠に申し訳ありませんでしたっ!」
「ぁ・・・・・・あの、いえ。お、気になさらず・・・・・・。こうして、元気になりましたし」
 腰を直角に曲げて、ぺこーっと頭を下げるクロムに、ラウルは正直ドン引きだ。不可抗力の事故で、そんなに謝られても困る。
 とはいえ、実際棺桶送りにされるくらいは重症で、ヴェスパーが青くなったことを考えれば、クロムは謝罪してもしたりないと思っているかもしれない。
「まあ、座ってください」
 飲食スペースのプラスチック椅子を勧め、ラウルはクロム神父と丸テーブルを挟んで座った。護衛らしい魔法使いと従者のラダファムにも、クロム神父の両隣りに座るよう勧める。
「こうしてお会いできて光栄です、クロム神父。それと、何年か前に友人を助けてくださったことも、お礼を言わせてください」
「ご友人、ですか?」
 きょとんと首を傾げるアルビノの美人に、ラウルは小柄な魔女とその使い魔の人間の事を話した。
「ああ、あの方々・・・・・・!」
 思い出したらしいクロムも、ぽんと手を合わせた。
「そうそう、瘴気中毒で・・・・・・でも、その旧市街地の瘴気も、ラウルさんが止めてくれたと聞いています」
「あぁ、あれは・・・・・・なんていうか、成り行きで。それを言うなら、クロム神父のアンフィスバエナ・ゾンビを消滅させた武勇伝を聞いていますよ」
「あ、あれこそ、ユーインとファムたんがいなかったら、どうなっていたことか・・・・・・」
 クロムは色素が薄いせいか、照れてぷしゅうと頬が紅潮するのが目立つ。
(噂には聞いていたけど、本当に善人なんだなぁ)
 ヴェスパーほどではないにしろ、多少の腹芸はこなす自信があるラウルは、目の前のおっとりした青年に、少しも性格の悪さを感じることがなかった。ほんの少し相対しただけで、謙虚で、信心深く、慈愛に溢れて献身的だということが伝わってくる。
(神様に愛されているって感じだなー・・・・・・)
 思わず、白い光沢も高級感あるケープの裾に視線がいく。そこは少しもはためくことがなく、呪術的な刺繍と蒼い魔宝石による、クロムの聖性の抑えは万全のようだ。このケープが無かったら、いまごろラウルは黒焦げになって滅びていることだろう。
「そのケープ、何着か存在しているというのは聞いていたけど、クロム神父が持っていたのか」
「あ、はい。サンダルフォン先生から頂きました」
(なるほど、ヴェスパーがタダで貰ったって言うのは、そこが出どころか)
 数百万ユーロの価値にもなる物を、ぽんぽんと作らせられることが、最もファンタジーだとラウルは思う。恐るべき、トランクィッスル総合病院院長の経済力。
(ということは、俺と神父を会わせたかったのは、ヴェスパーではなく院長?)
 ラウルは、まだサンダルフォンと面識がない。なんでも、クロム神父のように聖性が強い人物らしく、特別用事もないことだし機会もなかった。そのうち、会うこともあるかもしれないが。
(自分と同系統の性格をしているってヴェスパーが言っていたし、タダより高い物はないぞ。何を考えているんだか・・・・・・)
 ラウルは心の中で軽く頭を振って、いまだまみえぬ病院長の事を追い出した。いまはクロム神父と会談中だ。
「このケープの事、ご存じなんですね」
「まあ、俺も一着持っているからね。護身用に」
 高価すぎて軽々に持ち出すことをためらうが、あって困るものでもない。自分の意志とは関係なくラウルを攻撃してしまったクロムも、神妙に頷いて見せた。
「そうですね。トランクィッスルでは、俺と、サンダルフォン先生くらいしかいないと思いますが、外では何があるかわかりませんし」
「そう・・・・・・あぁ」
 クロムの傍に、ラダファムだけでなく魔法使いの男が護衛についている理由を、ラウルは不意に理解した。
「ケープを着ていると、防御力が実質ゼロなのか」
「はい・・・・・・」
 クロムの駄々洩れになっている聖性が、この町ではなによりの鎧であるのに、その聖性を封じてしまったら、ただの美味そうな人間である。
「それは、護衛必須だな」
「ファムたんにもユーインにも、いつもお世話になっています」
 クロムの視線を追って、隣に座っている赤毛の魔法使いを見やると、クロムが慌てて、彼がユーイン・エインズレイだと紹介した。そういえば、杖を二本持っているようだ。
「ああ、天ば・・・・・・いや、噂はかねがね。・・・・・・え、エインズレイ?有名な魔法使い一族の?」
「はあ」
 あらためてラウルの視線を受けたユーインは戸惑いがちに頷いたが、ラウルは率直に言葉を選んだ。
「そうか。実家の意向は受けているのか?」
「いや。俺は俺の意志でクロムの側にいるんだ!」
「じゃあ、俺のことは?」
「は?」
 寸前まできりっとしていたのに、急にぽかんとした顔をしたので、ユーインはエインズレイ一族の意向をまったく知らないようだ。
「かつて、真祖の子を人間に叙爵させたのはエインズレイ一族だ。あらたな真祖が現れたが、今度はどうするのかと思ったんだ」
「ぇ・・・・・・あぁー・・・・・・。さあ?俺、本家のじい様ばあ様とは、あんまり親しくないんだよね」
 ぽりぽりと頬をかくユーインに、ラウルは肩の力を抜いて、ほっとため息をついた。一瞬身構えたが、取り越し苦労だったらしい。