いつもそばに ―3―
ジョヴァンニは質素なシャツと継当てがされたズボンに、毛織らしい長袖の上着を着ており、そんなに古い時代の人間ではなさそうだ。聞けば、1900年ごろの生まれらしい。半島南部の、海が見える町に住んでいたそうだ。 「私は孤児だった。ジプシーの子だったらしい。師匠から聞いただけで、本当かどうか知らないけど」 師匠と言うのは、ジョヴァンニの育ての親で、けっこう腕のいい奇術師だったそうだ。酒場や劇場でも人気があり、地方貴族はもちろん、高級軍人や豪商などの金持ちからも、よくお呼びがかかっていたらしい。とはいえ、いわゆる芸人・水商売であり、社会通念上の市民階層ではけっして高くない。 「下層民でも、稼いではいたからな。入れ替わりもあったけど、弟子が何人かいたよ」 そこでラウルの脳裏に、粗末な石造りの家がひしめき、その間を細い道や階段が這っているビジョンが流れ込んできた。南部の強い日差しが、三階建てや四階建ての白っぽい壁と、吸い込まれそうな濃い影を作っている。職業ごとに下宿する傾向が多い中、ジョヴァンニたちは一軒家で暮らしていたようだ。 「んっ・・・・・・」 カーンカラコロカラと高い音が脳内で響き、ラウルは思わず顔をしかめた。なにか、硬い物を叩きつけたような音だった。 ビジョンの中で、何人もの大人を前に、小柄なジョヴァンニがなにか怒鳴っている。あの音は、ジョヴァンニが食器か何かを床に投げたせいらしい。 「私はチビだからさ、よく馬鹿にされてたんだ。師匠の養い子だといっても、やっていることは小間使いと同じ。奇術なんてほとんど教えてもらえなかった。だから、兄弟子たちは私を軽んじた」 「養子や弟子と言うより、体のいい奴隷ということか」 「まあ、ぶっちゃけるとそうだな。だけど、その頃の私は、そのことに気付いていなかった。凄腕な師匠の養い子で弟子であると、誇りに思っていたんだ」 「・・・・・・」 体が小さくて童顔だが、気が強くて声も大きなジョヴァンニは、決して治安がいいとは言えない町で、師匠の護衛も兼ねる程度には喧嘩慣れしていた。 「ビビらないで、声と一緒に手や足を出すのが、まず大事だな!」 (やっぱり短気と言うか、喧嘩っ早いというか・・・・・・) 「聞こえてるぞ」 「・・・・・・」 心の声まで聞かないでほしいとラウルは額を覆ったが、ジョヴァンニは気を悪くした風もなく、ワインのおかわりを催促してきた。 「キミが私たちとは違うっていうのは、わかってたさ」 大事そうにワインの入ったカップを両手で包み、ジョヴァンニは自嘲気味に笑った。 「だから、私やウーの旦那みたいなのが寄ってきて、おっかないエイナル爺やイレールみたいなプッツン野郎は、キミを毛嫌いしているんだ」 「そんなに俺は、始祖エイナルに嫌われていたのか」 「軟弱者だってさ」 「ヴェスパーが聞いたら、自分のじいさんにキレそうだ」 「あっはっは」 ジョヴァンニはなかなか奇術を教わる機会に恵まれなかったが、少しの知識から、それを応用した目新しい奇術を思いつき、その為の道具を作ることは上手かったそうだ。 「天才かよ!へえぇ、器用だなぁ」 「まあな!客の目を惑わすような綺麗な模様を描いたり、彫刻をしたりするのも好きで・・・・・・それだけは、師匠に褒めてもらえたんだ」 自分は必要とされていると思わせることが、養い子の心を離れさせないために必要だった。奇術のタネがまわりに知られないようにするにも、師に恩があると思っているジョヴァンニは都合がよかったのだろう。 「・・・・・・だから、師匠は、私に適当なところで死んで欲しかったんだ」 「そんな・・・・・・!」 「孤児を引き取り、弟子を取るのだって、徴兵逃れの為だった。師匠は、自分だけは儲けて、華やかな世界で生き残っていたかったんだ」 時は第一次世界大戦に突入。徴兵された兄弟子は、みな帰ってこなかった。若かったジョヴァンニも、泥沼のアルプス戦線に放り込まれた。 「何度塹壕の中で死ぬかと思ったことか。なんもない時は、凍えて死にそうか腹が減って死にそうだし、戦闘が始まれば、あっちもこっちも襤褸切れみたいになった味方の死体ばっかりでさ。霧や冷たい雨の中から、いつ銃弾が飛んでくるか、いつ毒ガスがばら撒かれるか、おちおち寝てもいられない。次の突撃で一番前になれって言われるんじゃないかって、そう考えるだけで手が震えてライフルが持てなかった。・・・・・・おかげで、大砲に似た音だけでブルッちまうようになったよ」 「奇遇だな。俺も大砲に似た音が大嫌いだよ」 「マジかよ!お揃いだな!」 ジョヴァンニから叩きつけるように握手をされたが、なんだかふみょんとした不思議な感触がラウルの手のひらに残った。ワインをぐびりと飲み干したジョヴァンニが、手酌しながら続ける。 「それでも私は、ヴェネトで最後まで戦って、運よく生き残って帰ってこられた。名将ディアズ司令官に乾杯ッ!まっ、そこで運を使い切ったらしいがな」 辛くも戦争を生き延びたジョヴァンニだったが、そこからが転落の人生だった。 「・・・・・・私には、婚約者がいたんだ。領主の館に住んでいる洗濯女でさ。かわいい子だったよ」 戦争から戻ったら結婚しようと約束していたそうだ。だが、ジョヴァンニが生きて戻ってくると、彼女は領主の息子の物になっていた。 「あんたにこの服が買えるか、毎日柔らかなパンと羊肉の煮込みを食べさせてくれるのかって言われて・・・・・・。わかってたさ。寒いのも、腹ペコなのも辛いって、私はよく知ってたから」 貧乏人の妻になるより、将来の領主の妾になる方が、ずっとずっと楽な暮らしができる。徴兵によって各地の生産力が低下し、インフレが進んだ戦後の大不況で、下層民は食うや食わずの日々だった。おりからの世界的インフルエンザ大流行・・・・・・いわゆるスペイン風邪が猛威を振るいだした時期であり、劣悪な環境に彼女を置くよりはと、頭で理解はできても、彼女がいる国を守るために戦って荒んだ心が納得しなかった。 「・・・・・・殴っちまったんだ。あんなに好きだったのに」 膝を抱えて体を揺するジョヴァンニの声に、涙が混じる。捨てられた口惜しさと、感情に任せて彼女を殴ってしまった後ろめたさの両方が、ラウルの中に流れ込んできた。 「悪かったと思うし、彼女が、本当はどう思っていたのかもわからない。もう私に未練がなかったのか、それとも、無理やり妾にされて、仕方なかったのかも。ただ・・・・・・それから私は、衛兵に追い回されることになったのは、確かだ」 地下水道に潜り、夜闇に紛れ、ふらふらになりながら、なんとか師匠の下にたどり着いて保護を求めた。 「ああ、私が甘かった。キミの想像した通りだ。あいつは、生きて帰ってきた私に驚き、喜んで、食事や休養を取らせる振りをして、領主にチクった」 「死んでいたほうがよかったからか」 「それだけじゃない。密告して、金をもらったんだ」 「クソだな」 口汚く呟いたラウルに、目尻を拭ったジョヴァンニが柔らかく唇を歪ませた。 ラウルは自分の内に、初めてジョヴァンニの力を借りた時の、暴風のような激しい感情の渦を感じていた。 「私は搾取され、踏み台にされ、軽んじられ、騙され、捨てられた。逃げて、逃げて、体中が痛くて、暗くて小便臭い路地裏で動けなくなった」 港や、町を囲む城壁の門には、衛兵がいる。もう一度地下水路に潜って町の外に出られないか探すには、ジョヴァンニは消耗しすぎていた。もう、何日も食べ物を口にしていなかった。 「悔しかった。あんなに怖い思いをして生き残ったのに、こんな風に苦しんで死ぬことになるなんて。幼い頃からずっと尽くしてきたのに、報われなかった」 瀕死で倒れているジョヴァンニの目の前をドブネズミが横切り、一瞬でもっと大きな影に捕食されていった。ギーッという断末魔に、ぼんやりした視界を動かすと、キラキラした丸い目と艶やかな褐色の体毛が見えた。 (こんな所に、イタチ・・・・・・?) 農村や森なら珍しくないが、猫がたくさんいる街中に出没することは少ない。 イタチはバリバリムシャムシャと、ほとんど丸呑みするような勢いでネズミを平らげると、長く太い尾をひるがえしてどこかへ消えていき・・・・・・そしてしばらくの後、ジョヴァンニの所へ戻ってきた。 (・・・・・・?) ぼとっと目の前に落ちてきたのは、ネズミの死骸。 (私に・・・・・・?) 動けないままのジョヴァンニのまわりを、イタチはすんすん鼻を鳴らしながらうろうろしていたが、急に後ろ足で立ち上がると、何かに驚いたかのように逃げていった。 『これは、これは。なんとも運の良い人間だ』 ビジョンの中でクスクスと嘲弄する声に聞き覚えがあり、ラウルは首筋がそそけ立った。 (運が、いいだと・・・・・・?) 死に瀕していたジョヴァンニに、炎のような怒りが灯った。長い間奪われ続け、騙され、裏切られ、こんなに惨めな死に方をするのが、運がいいというのか。 (ダメだ、ジョヴァンニ!!) 過去であるビジョンの中へ叫んでも、ラウルの声は届かない。 『畜生にまで同情されるような人間は、なかなかおらぬぞ。ふはははは。おぬしがネズミの餌にならなくて、よかったな?』 ピカピカに磨き上げられた黒い革靴が、ドブネズミの死骸を踏み潰した。 『長い間、養い親と慕い続けた師に騙されていた気分はどうだ?きゃつはおぬしのことなど忘れて、おぬしのおかげで出来た華やかな芸を見せては、貴族のおこぼれにあずかっているぞ?おぬしを捨てた女の腹を見たか?腹を撫でる手は?ああ、あんなに荒れていた手が綺麗になっていたなぁ?おぬしから幸せを奪った領主どもは、おぬしをなぶり殺しにするのをあきらめておらんぞ?町の連中はどうだ?逃げ惑うおぬしを助けた者はおったか?』 ジョヴァンニを蹴飛ばして仰向けにし、楽しそうに歯をむき出しにして見下ろしてくるベルフォートの言葉に、ジョヴァンニの目尻からつうっと涙が伝い落ちていった。ラウルは怒りや悲しみで胸を掻きむしりながら、届かない声で叫んだ。 (私は・・・・・・) (ジョヴァンニ、ダメだ!ベルフォートの言葉を聞くな!!) 『わ、たし、は・・・・・・』 『復讐を望むか?その力が欲しいか?』 (ジョヴァンニ!!!) 涙にぬれた丸い目に、憎悪に満ちた力が満ち、乾燥してひび割れた唇が、確かに『はい』と答えてしまった。 (・・・・・・ッッ!!!) 『よくぞ応えた!我が眷属たる ベルフォートの高笑いが響く中、海が見える町は、青白い光を放つ劫火に沈んでいった。 「・・・・・・っ・・・・・・ぅ」 「ありがとう、友よ。そんなに泣いてくれるなんて・・・・・・なんていうか、救われるよ」 しゃっくりを上げて顔を覆うラウルの隣で、ジョヴァンニは穏やかに微笑んだ。 「そうだ。私は悲しかったんだ。私なら軽んじていいと思われていることが、とても悔しかった。誰にも助けてもらえずに、一人ぼっちで、寂しかった・・・・・・」 愚か火へと成ったジョヴァンニは、その後、何人もの人間を惑わし、船の航路を見失わせ、いくつもの町や村を焼いたという。 「ある時、墓場をうろついていた私を見た神父が、私の墓を作って祈ってくれた。 なんとなく、もういいかなって思ったんだ。そうジョヴァンニは呟いた。 「気が付いたら、ステッキになって武器庫の中に収まっていた。それでやっと、眠れるようになったんだ」 「俺が、起こしてしまった?」 「いや、祭りの日に寝ているなんてできないだろ?客に俺の奇術を見せなきゃ。稼ぎ時だ」 何言っているんだと真顔で見返してくるジョヴァンニに、ラウルは濡れたままの頬で噴き出してしまった。 「ああ、一緒に行こう。ジョヴァンニ」 「そうこなくっちゃ!」 |