いつもそばに ―1―


 今期の冬は、よく雪が降る。
 エルヴィーラはシナモンとはちみつの香りがするホットビールを飲みながら、ほっと脚を伸ばした。スリッパは履いているが、毛足の長いラグの上では、その感触を足の裏で感じたい。セントラルヒーティングによって建物の中は何処も暖かいので、設えてある暖炉はほぼ飾りだ。
「わざわざお嬢様がお見えになられたという事は、やはり彼のことが心配だからですか?」
「心配なんかしていないわよ」
 反射的に言ったが、まったく気にしていないわけではない。
「心配なら、お父様が直接来るわ。わたくしは、後学のためよ」
「旦那様はそうでしょう。お嬢様は、心配されないのかと思いまして」
「しつこいわよ、サイラス」
「失礼しました」
 エルヴィーラに睨まれて、きちんと整えられた銀髪頭が恭しく下げられた。
 ここは、ホルトゥス州の山岳地帯の一角に、ひっそりと建てられた山荘。周囲には、雪山と、わずかな山林と、それよりもさらに少ない、放牧用の休耕地があるだけ。標高が高すぎて、この季節は余程天気が良くなければ、活動している生物もほとんど見かけない。
 そんな僻地に来るために、エルヴィーラはわざわざ除雪車を押し立てて、生活用品を運ぶ四輪駆動車に同乗してきたのだ。
(心配してないって言っているじゃない!)
 とはいえ、ここにいるはずの男がいないことを聞くタイミングを逸した感があるのは否めない。若干自棄になりながら、つまみに出されたドライフルーツの焼き菓子を齧り、上品にビールを煽る。
「失礼します、物資の搬入終わりました」
 顔を出したのはエルヴィーラの従者であるクリストファーだ。火蜥蜴サラマンダーである彼にとって、この寒さの中でも顔色一つ変えずにがんばっているのはたいしたものだ。
「ありがとうございます。お嬢様と使用人の部屋を案内しますので、自由にお使いください」
「かしこまりました」
 サイラスとクリストファーが応接室を出ていこうとした時、ひときわ大きな、獣の叫び声のような風の音と、かすかな地響きが感じられた。ずしんずしんと低い揺れすら伝わってくる。
「なに?雪崩かしら?」
「いえ、ラウルさんです」
 ラウル付の執事として、当初からこの山荘にいるサイラスは慣れた様子だ。
「この山荘は、旦那様のご指示により、雪崩はもとより、トランクィッスルが消滅する程度のミサイルが直撃しても耐えられるよう防護されております。ご安心ください」
「馬鹿なの?これを建てるだけで、いくらかかったのよ!?」
「旦那さまの兄馬鹿は、今に始まったことではございません」
 万全の態勢でラウルをバックアップするにはこれくらい必要だとヴェスパーは予測し、またその通りであったとサイラスは捕捉する。ただ過保護なだけではないのだ。
「かんしゃくを起こしたラウルさんの攻撃は、なかなか綺麗でしたよ」
「・・・・・・うちの床や壁を壊したのは見たけど、侮れないわね」
「これでも成長期と言うのですから、末恐ろしいものです。すでに修繕されましたが、あの時は一番外側の防護壁にヒビが入りました」
 真祖のめちゃくちゃな攻撃を耐えられる山荘は、なにも攻撃目標と言うだけではない。力を使い果たして疲れたラウルの休憩所でもある。だから、サイラスがここでずっと待機しているのだ。
「そろそろ空腹になってくる頃でしょう。夜明け前に、戻ってくるかもしれません」
 サイラスはそう言って、クリストファーと出ていった。一人残されたエルヴィーラは、窓辺に寄って締め切られたカーテンを少し開けてみたが、そこは頑丈な鎧戸によって外界から隔絶され、暗いガラス窓にぼうっと白い輪郭が映っただけだった。
 まるで、エルヴィーラにはその先を見る資格が無いのだと言いたげに。


― 一ヶ月前

 センに年越しを一緒にしないかと誘われたラウルは、喜んでお邪魔することにした。料理はオミが腕を揮うだろうからと、ちょっと高い酒やつまみの乾き物などを持参して、日本風の年越しを体験することになった。
「なるほど、大鉈か・・・・・・」
 ラウルの青白く輝くベイダナを見せてもらったセンは、しみじみと頷いた。ベルフォート印の武器をベルフォートの眷属以外が持つことはできないので、ラウルはセンが満足するまで、角度を変えながら隅々まで見せてやった。
「武骨な得物のわりに、繊細な彫刻だな。アヤメみたいだが・・・・・・」
「アジアの花らしいよ。シャガと言ったかな」
「ああ、日陰に群生している小さいのか」
 センによると、白くて小さい、可愛らしい花のようだ。ラウルも調べてみたが、原産は中国なのに「日本のアイリス」と呼ばれるほど野に定着した花らしい。
「山や畑を行き来する田舎の農夫には、見慣れた花だな」
「そう言われると、余計に親近感がわくな」
 ラウルは元農夫として、仕事道具である鉈に刻まれた可憐な花に、素朴さと力強さを感じずにいられなかった。
 その時、「出来たよ」とオミが年越しそばを持ってきた。ラウルは箸を使って食べようとしたものの、麺が滑ってくるくる巻いてしまい、センから「フォークにするか?」と言われてしまった。ちなみに、とても美味しかった。
 三人でこたつに入って酒を酌み交わす。オミと出会うまでは一人で過ごすことが長かったセンは、こうして賑やかな年越しができるのが楽しいようだ。
「俺はお邪魔じゃなかったか?」
「何言ってんだ」
「大晦日はいいんだよ。日本じゃ煩悩退散なんてヒドイことされていたし。その分、お正月は二人っきりで、あんなことやこんなこと・・・・・・うふふふふふ」
「お前も何言ってんだ!」
 センの裏拳が、にやにやしているオミの肩にヒットした。
「それはそうと、ラウルも随分力が強くなったね」
「そう見えるか?」
 やや不安そうな顔をするラウルに、オミはコクコクと頷いた。
「真祖の自覚が出て、『憤怒イラ』の影響が、ようやく体に馴染んできたんでしょ。これからもっと強くなると思うよ」
「『憤怒』の影響、か・・・・・・」
 ラウルは唇を噛むように引き締めると、缶ビールの表面を撫でていた指先を止め、小さくないため息をついた。
「実は、ちょっとしたことで怒りっぽくなってさ。なんていうか・・・・・・コントロールが危いんだ。社会生活を送るうえで」
 常にイライラしているわけではないが、怒りの沸点が異様に低くなった自覚が、ラウルにはあった。
「何か気に入らない事とか、思うようにいかない事とかがあると、すぐガッと頭に血が上るんだ。一人で静かにしていればいいんだけど、街中とか、職場とか・・・・・・イラっとした瞬間に、その辺の物を投げようと掴むとか、怒鳴ろうと口を開きかけているんだ。しかも、かなりどうでもいい事を「気にくわない!」って感じている。特に、人間が多い州外がヤバイ。前は、こんなことなかったのに・・・・・・」
 心底困ったと頭を抱えるラウルに、センは同情で眉をひそめ、オミは得心顔で頷いた。
「それは、難儀だな」
「怒りは、最も忍耐が試される感情だからね。怒りっぽくて、すぐに怒鳴ったり、物に当たったりする人間がいるでしょ。そういうのが『憤怒』の主食ではあるんだけど、ラウルはちょっと違うから、余計に疲れちゃうと思うよ」
 『色欲』ルクスリアの罪源であるオミの言に、ラウルはもっと詳しく聞きたいと促した。
「俺は、違う?」
「うん。ラウルって、『憤怒』の素養が少ない、理性的で優しい子なんだよ。元々、相手を思いやって、自制が効くんだ。だから、本気で腹が立つ時はすごくパワーがある。僕は会ったことがないから想像だけど、ミルド家の始祖は、たぶんそうじゃなかったと思うよ。だいたい、なにかとカッカしやすくて、乱暴で、すぐにぷちーんってキレるタイプが、ベルフォートの眷属だもん。そうだね・・・・・・安い食堂で出される軽い発泡ワインと、十年熟成させたウイスキーくらいの差と考えればいいかな」
「そういえば・・・・・・」
 センのお猪口に清酒を注ぎながら例えたオミに、ラウルは初めてベルフォートと邂逅した前世の時を思い出した。ベルフォートはダンテの持つ怒りを、「熟成されて実に美味い」と言っていた。つまり、自制心や忍耐力のある者の怒りの方が、ベルフォートにとっては上等か、あるいは好みなのだろう。
「毎日のパン・ド・カンパーニュと、給料日のクリームパンとの違いか」
「あはは、そんな感じ。ベルフォートの眷属たちは、そのカンパーニュが他の物よりも大きくて味が濃いと思えばいいよ。ついでに言うと、番はもっと美味しいよ。クリスマスのご馳走みたいな」
「なるほどなぁ」
 ラウルはピックで刺したスモークチーズを口に放り込みながら頷き、センは刺身を突きながら首を傾げた。
「そんなに違うのに、ラウルはあのベルフォートの眷属になれたのか」
「それがさぁ、ベルフォートも俺を眷属にした覚えはないって言っていたんだよ」
「はあ?」
 センが混乱するのももっともだ。なにしろ、ラウルもよくわからないのだから。
「これは僕の勝手な考えだけど、ラウルはベルフォートにとって、美味しいけれど手足として動かす眷属にはしにくいタイプだと思うんだ。だけど、なにかの偶然で直下の眷属になってしまった。それも、強力な真祖吸血鬼として。ベルフォートにとってもイレギュラーなんだよ」
 白い指先で綺麗にみかんを剥いたオミが、小さな房をもぐもぐと咀嚼して、こくんと飲み込んだ。
「それでね、最初の話に繋がるんだけど。『憤怒』の眷属としては、ラウルは性格的に向いていないんだ。だから、普通の眷属たちよりも強くストレスを感じていると思う。ベルフォートの影響を受ければ受けるほど、真祖吸血鬼としての力は強まるけれど、ラウル個人としての精神が受け流せずに苦痛を感じてしまうんじゃないかなと思うんだ」
「なるほど」
「・・・・・・そういうことか」
 オミの解説にセンは頷き、ラウルは憮然と項垂れた。元々向いていないのなら、戸惑いが大きいのも当たり前だ。
「もうひとつ。ただね、さっきも言った通り、ベルフォートの眷属って、気が短くて乱暴者が多いんだ。それって、簡単に怒りを振りまいて、まわりを破壊することに躊躇がないってこと。真祖吸血鬼も、例外じゃない・・・・・・・・・・・・・よ」
 オミがわざわざ強調していった言葉に、ラウルははっと閃いて目を瞠った。
「そうか!だから真祖であるエイナルは、人里離れた、ホルトゥスの山奥にいなければならなかったんだ。人間を襲い続けて村ごと滅ぼすなんてことをしていれば、すぐに討伐軍がやってくる。だからといって、無理に人間社会に混じろうとすれば、すぐに『憤怒』の性があらわになって問題を起こす。そうすると、これも怪しんだ人間に討伐されるリスクが高くなる・・・・・・!」
「まあ、そういうことだろうね」
 ずっと疑問だった答えにたどり着いたラウルを眺め、オミは新しいみかんに手を伸ばした。
「注意しなくちゃいけないのは、ミルド家の始祖よりも、ラウルの方が、その問題を起こしやすいってことだよ。いまは我慢が出来ているけど、そのうち爆発を起こす危険が高い。向いていないっていうのは、内側だけじゃなく、外側にも影響が大きいんだ」
「・・・・・・」
「どうすればいいんだ?俺たちも、何か手伝えないか?」
 沈痛な面持ちになったセンに、オミはあっけらかんと言い放った。
「僕たちに出来る事はないよ、センちゃん。だけど、あの伯爵が何も考えてないはずないでしょ?大丈夫だよ」
「・・・・・・そう言われると、大丈夫な気がしてくるな」
「そうだな。ははっ、ヴェスパーに相談してみる」
「うんうん。それがいいよ」
 オミに言われてセンとラウルは半ば冗談のように不安を紛らわせたが、その頃すでに頑健な山荘が出来上がっていたなど、この時は知る由もなかった。