隠者のランタン ―1―


 珍しく・・・・・・というより、初めてエルヴィーラから個人的な連絡をもらい、ラウルは首を傾げた。というのも、エルヴィーラが指定した日の翌日、ラウルはヴェスパーの招待を受けて伯爵の城に出向く予定だった。
(ララの事だから、別件だな)
 同日じゃ駄目なのか、などと聞いた日には、機嫌を損ねられるだけならまだしも、軽蔑されるに決まっている。格式張ったものではないようで、「汚れてもいい動きやすい格好で」という服装指定まである。
(だからって、農作業用のオーバーオールやトレーニングウエアじゃドン引きされるだろうし・・・・・・何着て行けばいいんだ)
 いくらファッショナブルでも、ハーフパンツで膝下が丸見えなんて、エルヴィーラはお気に召すまい。足元はスニーカーとジーンズとして、清潔感のあるサマージャケットは必須だ。ラウルはクローゼットの前でうんうん悩み、とりあえず二十代後半の男が着ていてもおかしくはない気軽な服装を選んだ。エルヴィーラがカジュアルな服装をしているところなんて想像できないが、ドレスと並ぶことを想定していたら、汚れてもいい服装になんかなれない。相変わらず、高価なスーツはラウルの体に馴染みにくいままであった。

 指定時間通りに家の前に停まった迎車に乗ったラウルは、城に向かういつもの道と違うことに気付いた。
(何処に行くんだろう?)
 トランクィッスルの駅や中心地からは離れていくが、かといって城のある方面でもない。まだ行ったことのない山間部へ向かう道路標識とすれ違って、車は閑散としたサービスエリアの駐車場へと入っていった。
 ドアが開いたので涼しい車内から降りると、真夏の黄昏時らしく、虫の声で満ちた蒸し暑い空気に包まれた。目の前には、もう一台黒塗りの高級車が止まっており、その後部ドアが開くと、夏の装いに身を包んだエルヴィーラが降りてきた。
「わあ・・・・・・」
 きゅっとウエストを絞った白いパンツスタイルに、薄手のロングカーデガンを羽織ったエルヴィーラは、長い黒髪の先を軽やかに巻いて、肩のあたりでまとめていた。足元はローヒールのパンプスで、いつものピンヒールよりは歩きやすそうである。サングラスを外すと、オレンジ色の薄闇の中でも、いつも通りに気の強い、赤味が多い紫の目がラウルを射抜いてくる。
「綺麗だな・・・・・・あ、その、カジュアルな服装もおしゃれだなと思って。とってもよく似合っているよ。素敵だ」
「そう」
 当然と言わんばかりに、エルヴィーラはあっさりと頷くと、サングラスをかけ直して、ラウルが乗ってきた車の助手席側に回った。
「え?」
「ラウル、貴方、運転できるわよね?」
「できるけど・・・・・・」
 運転手がいるのに自分が運転していいのかと、ラウルはあたふたと見回すが、エルヴィーラの為に助手席のドアを開閉したミルド家の運転手や、エルヴィーラの従者はもう一台の車に乗り込んでしまった。
「あれが先導するわ。ついていけばいいのよ」
「わ、わかった」
 ラウルは観念して運転席に滑り込み、いままで運転したことのない高級車のシートに尻を落ち着けた。先導車に置いて行かれないように、慌ててシートベルトを締めてサイドブレーキをおろし、ハンドルを握ってアクセルペダルを踏めば、力強い加速と滑らかなハンドリングに感動する。後部座席に座っている時も静かだと思っていたが、実に乗り心地がいい。
 ウインカーやギアの位置を視線だけで確認しつつ、迫る夜闇に溶け込みそうな先導車を見失わないようにヘッドライトを点けた。制限速度は何キロだったかと不安になるほどに飛ばしていくので、風景を見る余裕もなく、ついていくのでやっとである。
「・・・・・・運転、上手いのね」
 ぼそっと隣で呟かれ、ラウルはそうかなと返した。
「免許は合衆国にいた頃に取ったし、ドライブは嫌いじゃないよ」
「ふぅん・・・・・・貴方の車は?」
「まだ買ってない。そのうちね」
 そう、ともう興味をなくしたような相槌だったので、ラウルも口を噤んだ。エルヴィーラと会話する時は、二度手間になるような回答をさせるのは嫌がられる。言い方の角度を少し変えるとか、まったく違う話題から類推するとか、頭を使うテクニックが必要だが、時にはしゃべらないのも駆け引きというものだ。
「・・・・・・危ないから止めろって言われたのよね」
「車の運転?まあ、伯爵家には運転手さんがいるし、お嬢さんに危ない事はさせたくないだろうな」
「・・・・・・・・・・・・」
「え、もしかして、もう事故ったことがあるとか?」
「まだないわよ。免許持ってないもの」
 ちょっぴり拗ねたような調子に、ラウルは正面を見たまま微笑んだ。まだ、ということは、欲しかったのに免許が取れなかったか、下手過ぎて伯爵家の人々にやめてくれと懇願されたのだろう。公道で走れないだけで、伯爵家の広い私有地で練習するくらいはできるはずだから。
「そうか。ララが怪我をしなくてよかった」
「ふん」
 高級車が何台か廃車になったかもしれないが、エルヴィーラに大きな怪我がなくてよかったと、ラウルは心から思っていた。
 山沿いの緩やかなカーブが終わると、河川が近づいてくる。いま走っている道路が沿うその清流は、水源豊かなホルトゥス州のなかでも、最も水量が多いイグリスタ川だ。やがて州外の大河へと流れ込んでいく渓流だが、雪解けの季節や雨季には、よく溢れ出そうとする暴れ川でもある。すでに日が沈んで水面も夕闇の中だが、ホタルらしい小さな光が、川岸をちらちらと舞っている。
「こっちに来たのは初めてだ。竜族の居住地や、湖があるって聞いたことはあるけど」
「それは川の反対側を山の方に向かっていった先ね。これから行くのは、ハルミット植物園。州外では栽培されない、わたくしたち用の植物を扱う研究所よ」
 やっと判明した目的地にラウルはエルヴィーラの顔を見て、堪えきれない笑みを浮かべて正面に戻した。
「そういうの、お好きでしょう?」
「いいの?俺なんかが入って」
「わたくしの視察に同行するだけよ」
「やった!ありがとう!」
 ラウルが作物の栽培が好きだというのは、エルヴィーラも知っていた。学校の菜園で作ったものを伯爵の居城に持ちこむこともあったし、折に付けエルヴィーラにプレゼントする旬の花選びもセンスが良かった。ラウル自身は、知識が古くて偏っているし、いまはもう本職ではないと謙遜するが、植物を見る目は要所を掴んで確かだ。
「州内の施設の視察も、エルヴィーラの仕事なのか」
「ミルド家の資本が入っている所だけよ。それに、定期的に行くわけじゃないわ。今日は、栽培が難しかったハバシリソウの安全な株分け方法がわかったのと、ハツカトウカが見頃だから。ハツカトウカは綺麗よ。ラウルも気に入ると思うわ」
「へ〜。楽しみだな」
 どちらも聞いたことのない植物の名前で、ラウルはどんな植物なのか想像がつかない。エルヴィーラの審美眼にかなう花ならば、それは綺麗なのだろう。
「・・・・・・ねえ、まだ気づかないの?」
「え?」
 わくわくしながら運転を続けるラウルに、エルヴィーラは長いため息をついてみせた。
「たまたま貴方の好みと合致しただけで、わたくしの仕事に付き合わせているんだけど」
 ラウルに女装させた前回も然り、父親のように重要な会談に引っ張り出すのと変わらない、とエルヴィーラは思っているようだが、ラウルはそんなことかと微笑んだ。
「同じ随伴だとしても、ヴェスパーにはヴェスパーの思惑があるし、この前の茶会は緊急回避的な面もあった。今回はララが、俺が好きそうだからって、俺の事を考えて誘ってくれたんだろ?俺は嬉しいよ」
「興味ないことに一人で行くのがかったるいから、間を持たせそうな道連れを掴んだだけよ。相変わらず能天気ね」
「ありがとう。道連れの候補にも選んでもらえないような、無趣味無教養で暗い俺なんて、犬の糞より価値がないからな」
「もう黙って」
「はい・・・・・・」
 あまりくだらない事を言って、目的地に到着する前にエルヴィーラの機嫌を損ねてはいけない。ラウルは口にチャックをして、運転に集中した。
 夜に抗う最後の残照が、遠くにドーム型の大きな建物を浮き上がらせている。やがて小さな山の連なりを切り拓いてつくられた研究所の門へと、自動車のライトは吸い込まれて行った。