荊姫と野バラの騎士 ―5―
まったく、なんでわたくしがこんなめに・・・・・・そんな愚痴が頭の隅を駆け抜け、エルヴィーラは自分の名を呼ぶ、囁くようなかすれ声に薄目を開けた。 「ララ・・・・・・エルヴィーラ!気が付いた?よかった・・・・・・!」 「ラウル・・・・・・?」 顔に何かさわさわしたものが当たるので払いのけようとしたが、どうも狭い場所に押し込められているらしく、身動きが取れない。暗い中で、植物の青臭さと、素朴で澄んだワイルドローズの香りがする。近くで水が滴る小さな音と、少し離れたところで流れる轟々という音が聞こえた。 「なにが・・・・・・ここは何処?」 「ごめん、俺も正確にはわからない。あの川の端だとは思う」 頭がはっきりしてきて、自分に密着するように、すぐ目の前にラウルがいることが分かった。さっきから顔に当たっているのは、ラウルのベールだった。 「怪我はない?」 「背中がチクチクする以外は、どこも痛くないわ。そう・・・・・・あぁ、あの水に当たって・・・・・・」 厄介なことに、エルヴィーラは流れ水が苦手だった。小さな水溜まりをまたぎ越すぐらいならいいが、自分が濡れてしまうと身動きが取れなくなってしまう。だから、風呂は侍女任せで、雨は大敵だ。 鉄砲水と一緒に、庭園を造っていた石垣も流れただろうし、それらに当たって怪我をしたのではと、ラウルは心配しているのだろう。 「大丈夫よ。泥水も飲んでないし・・・・・・体も自分で乾かせるわ」 「よかった。ララは変身できたよね?その狭い穴から、外に出られる?俺、動けないんだ」 ラウルが引きずるように腕を動かすと、せいぜいハツカネズミが潜り抜けられる程度の細い隙間ができており、外に続いているのか、淡い光が漏れていた。 「問題ないわ」 「よかった。外の様子はわからない。気を付けて」 ラウルに言われるまでもなく、エルヴィーラはただちに黒蛇へと姿を変えて、細い穴から這い出した。大量の水が近くにある場所では、霧やエーテル体になるよりも、水に強い生物に化けた方が、事故を起こしにくいのだ。 (なんてこと・・・・・・) たしかにそこは、川の端だった。石造りの庭園は大きく崩れ、渓流の幅半分を瓦礫が埋め尽くしていた。そして、それらの瓦礫には太い茨の枝が絡みつき、それ以上の崩壊と激流を食い止めているように見えた。エルヴィーラのものではないから、ラウルが出した茨だろう。 エルヴィーラが這い出してきたのは、そんな巨石や土砂が積み重なった水辺だった。急いで水飛沫がかからない場所まで這い上がり、四肢を備えた人型へと戻る。今度は瓦礫に埋もれたままのラウルを助け出さねばならないが、さてどうしようと思案し始めたところで、特大の水飛沫が川下から跳ねあがってきて、エルヴィーラは半壊した庭園へと大きく後退する羽目になった。 「ちょっと!」 急いで暖気を焚いて水気を乾かし、自分の邪魔をするのはなんだと目を凝らせば、最初の一撃で流されていったイヴたちだった。空中ではまだ蒲御前とわずかな側近が頑張っており、下流から戻ってきたイヴたちは三輪車にまたがった幼女へと跳び上がっていく。 (あっちは任せておいて・・・・・・そんな!?) 瓦礫を覆っていた茨が次々と消えていき、エルヴィーラの足元もさらさらと土が流れ落ちて、土台を失った石畳が剥がれ始めた。ゴロンと転がった巨石が水面に落ちて、それを皮切りに、がらがらと崩壊が再開する。ラウルの魔力が尽きたというより、魔法を支える体力が限界になったのだろう。エルヴィーラの喉から、押し殺した悲鳴に似た声がこぼれた。 「ラウル・・・・・・!」 これではラウルは生き埋めのまま、川底に沈んでしまう。エルヴィーラは自分のブレスレットに連なる宝石から一つを選んで、手入れの行き届いた指先で弾いた。 「堅牢なる我が 血のように赤い宝石の光が飛び、崩れ落ちる瓦礫に宿ると、それは岩石の巨人へと姿を成していった。疑似生命を与えられた天然素材の人形、ゴーレムである。 崩れる石材が腕となり脚となり、川の流れの中に立ち上がったゴーレムは、ボロボロになったアンティークドールのような黒い塊を掬い上げて、エルヴィーラの足元まで運んできた。パニエの骨組みがクッションになったり、コルセットが防具の役目を果たしたりしたのか、ラウルからは自分の茨で作った刺し傷や切り傷以外は、酷い外傷による血の匂いはしない。自分の限界も知らないで、エルヴィーラを助けようと水や土石からの盾になり、拙い魔法を支え続けて力尽きたようだ。 「若輩のくせに、でしゃばるものではなくてよ。・・・・・・もうしばらく、ラウルの面倒をみていてちょうだい」 普段は自分の盾役にしているゴーレムをラウルの護りにつけると、エルヴィーラは努めてゆっくりと、レッドカーペットの上を歩くように、つんと胸を張って、半壊した庭園の頂へと歩みを進めた。 戦況は、圧倒的に三輪車の幼女が有利だ。どんどん数を減らす鬼女と人魚の連合に対して、リステンバルズの王女は堕とした敵を味方として復帰させられるのだから。本能や生理的欲求、原始的な感情を操れる罪源にとって、こちらの抵抗などあってないようなものだ。天女だって、簡単に従わせることができるだろう。 「罪源との戦い方は、心得ているつもりよ。なにしろ、伝家のマニュアルがあるんですもの」 「きゃはははっ!『憤怒』の眷属風情が、大きなおくちね!」 「その『憤怒』の眷属って、やめていただけるかしら?父と同意見だからあまり愉快なことではないのだけれど、わたくしも、あの人が嫌いなのよ」 エルヴィーラは両耳のイヤリングを弾き、それらを鉱石の輝きを持つたくさんの蝙蝠に変化させた。野生の小さな蝙蝠と変わらないサイズでありながら、鋭い爪と牙を備えた狂暴な魔法生物であり、流れ水を渡れないエルヴィーラに必要な、離れた場所に物理攻撃を当てられる下僕だった。 「わたくしのことは、 強固な精神と抵抗魔法で罪源の干渉を妨害し、エルヴィーラは頭も腰も高いままにすっくと立ち続け、妖艶な微笑みを浮かべて長い髪をはらった。吸血鬼には性欲が湧きにくい事を思い出したのか、幼女の顔が邪悪に微笑む。 「不死族は固くて食べにくいわ。ベルフォートの印を持った子なら少しは遊べると思ったのに、自分からいなくなっちゃうなんて、ざんねん!ああ、別にあなたのことが好きだと思っているのを否定しているんじゃないのよ。きゃはははは!」 リステンバルズの王女が、ダリアが男だと気付いていたのは当然だろう。だが、『色欲』に対する絶対的な抵抗要素を有しているエルヴィーラに、見え透いた誘惑は効かない。 「・・・・・・わたくしのお気に入りを、馬鹿にしないで。あの能天気な飼い猫は、恩人の娘に対して 怒りのせいで震わすように声を低め、三白眼に吊り上げた目で睨むエルヴィーラは、自分の腕を飾る宝石が連なった金のブレスレットをしゃらりとかざした。 唇に滴り落ちた温かなものが、じわじわと体の隅々へ広がっていく。ふわりと鼻腔をくすぐっていく芳醇な香りは、まるでよく熟成させたブランデーのようだ。 「ん・・・・・・」 気つけの酒を使われるような状態にあることに思い出した意識が、ラウルを急き立てるように覚醒させた。 「う・・・・・・いてて」 「ごきげんよう。良くお休みだったわ」 「エルヴィーラ・・・・・・?」 見上げた天井から頭を横に倒すと、背もたれに寄りかかって組んだ脚をぶらぶらさせているエルヴィーラを見つけた。 「ここは・・・・・・あ、あいつはどうなっ・・・・・・!?」 「落ち着きなさい。追い払ったわ。もうみんな帰って、ここに残っているのはわたくしたちだけよ」 平然と答えたエルヴィーラは、濡れたヘッドドレスをウイッグごと脱がせて、庭園の大きな東屋のテーブルに寝かせられているラウルに説明した。 「あの幼児は、ただの入れ物。オミやベルフォートのような、本体が実体化しているものではないのよ」 さすがに『色欲』の本体だったら、エルヴィーラにもどうしようもなかった。だが、リステンバルズの王女が代替わりするもので、代々中身が同じと言うならば、彼女の本体はどこか別にいて、分身か何かを受肉させて遠隔操作しているに過ぎないのではないかと推測したのだ。 「どういう基準でリステンバルズの王女を生まれさせるのかは知らないけれど、罪源の干渉に耐えられる肉体は、そう多くないはず。もっと言えば、入れ物を壊してしまえば、あれはここに留まることはできないでしょう。貴重な生身の肉体を壊されたくなかったら、いくら罪源でも退くと思ったのよ」 「なるほど・・・・・・やっぱり、エルヴィーラはすごいな」 真っ直ぐな称賛を放つ屈託ない笑顔が眩しくて、エルヴィーラは目を眇めて顔を逸らせた。 「はぁ。このくらい普通に考え付くことでしょう。それと、人を馬鹿みたいに褒めるのはおよしなさい。誰が見ても馬鹿に見えるわ」 「えー・・・・・・。ひどいなぁ」 ラウルは眉尻を下げて情けなく笑うが、まだ体が痛むのか、いつもの元気がない。吸血鬼としてたいした体力があるわけでもないのに、あれだけの瓦礫からエルヴィーラを護って下敷きになっていたのだから、無理もない。 「・・・・・・帰るわよ。お立ちなさい」 「うん」 ラウルはエルヴィーラに見下されながら、まだ水を含んで重いドレスに難儀しながら起き上がろうともがいたが、目の前に差し出された白い手のひらに、目をぱちくりさせた。 「え?」 「・・・・・・・・・・・・」 無言で差し出された手を、取らなければ無礼になる。それが、彼女の精一杯の礼だとわかるから。 「ありがとう」 「どういたしまして」 エルヴィーラの手を取ってテーブルの上から降りたラウルの礼に、ぷいとそっぽ向いた気難しいお姫様は、背筋を伸ばしてずんずんと歩き出した。 「ぼさっとしてないで。おいていくわよ」 「待ってよー」 |