不屈の魔術師 ―4―


 やるとなったからには、考えられる最高の準備で向かわなければならない。一回で終わらない可能性もあるが、とにかく敵の正体をまず見定めなくては、最終的な対応も決められない。
 ユーインの攻撃力を前面に押し出して制圧しつつ、ラダファムがユーインを護り、クロムが指揮を執ることになる。クロムはミルド伯爵から寄贈された、ロバーツ&グリッソンのクリスタル瓶を祈るように握りしめた。できれば地下墓所の中でこの聖水瓶を使いたくない。他の死者たちにも影響が出かねないような武器なのだ。
「ファムたんとユーインも、一瓶ずつ持っていてください。相手に投げつけてもいいですが、自分に振りかければ、いくらかの防壁になるはずです」
 高価なアイテムにラダファムは緊張した面持ちで、ユーインは口笛を吹きそうな表情で、クロムから聖水瓶を受け取った。
「では、行きましょう」
 ラダファムが地下墓所の入り口にぴたりと体を付け、用心深く間に合わせの閂を抜いて、静かに金属の扉を引いた。
「大丈夫。ここまでは・・・・・・ウッ、おえぇッ・・・・・・くっさ!!」
 普段はどんなに損傷がひどい遺体を前にしても、けっしてそんなことを言わないラダファムが顔をしかめた。それを見てクロムは眉をひそめたが、すぐに袖口で鼻と口を覆い、ユーインも咽ながらそれに倣った。
「うっ・・・・・・」
「なんだこれ・・・・・・!?」
 腐臭、などという言葉では追い付かない、とんでもない臭いが溢れ出してくる。あまりの臭いに、鼻が曲がるどころか、目が痛いほどだ。血と肉と臓腑を混ぜて高温多湿な炎天下に放置してできる、ピンク色のぬめりが糸を引くようなツンとした刺激臭は、危険物だと訴える生理的な嘔吐感を促してやまない。
「ちょっとたんま」
 ラダファムはいったん扉を閉め、何度も深呼吸を繰り返して新鮮な空気を吸い込んだ。クロムも古い礼拝堂に備蓄していた品の中から、香油を混ぜた聖水に浸したスカーフを持ってきた。これをマスク代わりにして進もうというのだ。
 三人はスカーフを顔の下半に巻くと、覚悟を決めて墓所の扉に滑り込んでいった。
 正直言って、マスクがあっても、おぞましい臭いで息が詰まりそうだった。
「ガスマスクを備品に入れておくべきだな」
「検討しておきます」
 ユーインのぼやきにクロムが律義に答え、勇気を奮い立たせるように、先頭に立って歩きだした。前回逃げ出した時のままなので、電灯はついている。それでも、スロープを下るのは気が重かった。
「!」
 手を上げて前進を止めると、ユーインとラダファムがクロムのわきからそっと覗きこんでくる。二人とも、低く唸るのがわかった。
 充分に距離を置いた三人の正面、地下二階へ降りるためのスロープ入り口に、それはいた。黒とも茶とも言い難い、どろどろした物体が蠢いている。
「この様子じゃ、地下二階はアレで埋まっているな」
「大きすぎて、スロープから出られないのかな?つっかえて、上に上がってこられないとか」
「その可能性もあるが、アレが膨れだした時、そんなに固そうに見えたか?」
 ラダファムは首を横に振り、クロムもそれに同意した。
「ある程度の形はあると思いますが、生物のような決まった形にはなっていないと思います。ただ、通常の乾燥しているゾンビと違って弾力があるとか、逆に貫通に問題がないかもしれないことを、考慮に入れるべきかと。それでも、スロープからこちらに溢れ出ていないのは好都合です。広いとはいえ、限りのある場所で大質量と向き合う愚は避けたい」
 相手の攻撃手段を著しく狭め、こちらから効率的にダメージを与えるのは、戦闘の定石だ。しかしながら、この臭いである。
「俺が、ちゃんと歌えるかどうか・・・・・・」
 この腐った臭いの空気を深く吸い込めば、体に悪いこと疑いない。クロムも、いつもの歌声を出せる自信がなかった。
「大丈夫、俺に任せて。クロムはできる範囲でいいから」
 ユーインが力強く請け負うには、ちゃんとした根拠があった。クロムもそれを知っているから、お願いしますと頷いた。
 クロムはなるべく鼻で息を吸わないように意識しながら、小さな声で賛美歌を唱えた。死者を慰める為ではなく、生者を保護するための、それは力強い祈りだった。
 ユーインは、すらりと自分の杖を構える。自身の赤毛とよく似た、深紅の魔石を埋め込んだ杖は、握りを含む中心は古木の風合いを残しつつ、金色の流体金属が絡みついているかのような、実に個性的な姿をしていた。
 すいっと杖が動いた瞬間、人間の腕ほどもあろうかという炎の矢が、スロープにわだかまる物体に向かって、立て続けに吸い込まれて行った。その数は十発を下らない。ユーインは続けて、今度は氷柱を同じように発射した。
 魔法の発動に詠唱を必要としないのは、魔法使いの中でも上位の者である証拠だ。特にユーインは、この程度の初歩的な攻撃魔法なら、何時間でも発射し続ける砲台になれた。
「・・・・・・逃げたな」
 手応えが無くなったので地下二階に引っ込んだ、とユーイン判断する。
「誘い出すにしても、敵を見極めるためにも、一度下に降りないとダメだな」
「全員で行きましょう」
 ユーインが一人で行くと言い出す前に、クロムが断言した。全員で行った方が、互いをフォローできる。その利点をユーインは認めて頷いた。
 腐臭を放つ粘液で濡れた床で滑らないよう、三人は用心深く壁に背を付けてスロープを下りた。
 地下二階、そこにいたのが、最初は何だったのかはもうわからない。人間の死体だったのかもしれないし、それ以外の何かだったのかもしれない。しかしいまあるのは、蠢く巨大な腐肉の塊だった。ユーインの攻撃が効いたのか、不定形な泥水のようだった体は、吸収と収縮をし続け、なにがしかの形を取ろうとしているようだ。
「あ、あれ!」
 ラダファムが気付いたのは、無造作に転がっている棺桶だった。三つとも壊れているように見える。
「つまり、材料はあれだけ。あれ以上デカくはならないってことか」
「どうでしょう。この下には・・・・・・」
「そうだった」
 地下三階より下には、たくさんの死体が眠っているのだ。もしも取り込まれたら、これまでの慰霊も無駄になる。
「燃やすとこっちがガスや煙を吸いかねない。凍らせられなければ、なんとか外までおびき出そう」
「わかりま・・・・・・!?」
 クロムが目を剥き、ラダファムは喉が潰れたような小さな悲鳴を上げた。ユーインもそれを見たのは初めてで、しばしの絶句の後に、唸り声を上げた。
 ずず、ずず、と黒ずんだ肉塊が動き、決して高くない天井すれすれから、感情ない双眸がこちらを見下ろしてきた。テカテカとした胴がまばらに鱗を備えはじめ、床にわだかまる長大な体の先から、これもまた、同じ双眸がこちらを見ている。人間なんか一飲みにできそうな、巨大な三角の頭を前後に備えた、双頭の蛇だ。
 ユーインはその怪物の名を知っており、驚愕と一緒に喉から絞り出した。
「アンフィスバエナ・・・・・・!?ばかな、どうしてここに?」
 それは、北アフリカの砂漠に巣くうと伝えられている、伝説の魔獣だった。使い魔のように、魔法で手軽に召喚できるような存在ではない。しかも、どう見ても生身とは言えず、アンフィスバエナ・ゾンビとでもいうべき個体だ。
「まずい。アンフィスバエナは毒蛇だし、接近戦は絶対に避けるべきだ。それに寒冷にも強い」
 しかも、二つの頭に一斉攻撃されないように、二方向に分かれて蛇の体を限界まで引っ張り合わないとまともな戦闘にならない。こんなに狭い場所では、天井を落として潰す以外に倒す方法などないが、そんなことをしたら地下墓所の復旧に年単位の時間がかかってしまう。その間の慰霊はどうする。復旧費用などは誰が出すのだ。
「なんとか外に・・・・・・うおっ!?」
「避けて!!」
 三人のいるスロープめがけて、片方の頭が突っ込んできた。ユーインはしゃがみ、クロムは後退し、ラダファムはわきに避けた。しかし、緩やかな坂を濡らす脂っぽい粘液がラダファムの足を滑らせ、そのまま坂を転がって資材棚にぶつかって止まった。
「ってぇ・・・・・・!」
「ファムたん!」
 ユーインに言われるまでもなく、ラダファムは跳ね起きると同時に床にダイブして、もう一方の蛇頭が叩きつけられるのを躱した。簡単な作りの資材棚が、衝撃に耐えきれずにバラバラになる。
 ゴアアアアアアア、という音が、生臭い風と共に吹き付けてきて、ラダファムは懸命に滑る床を蹴って走った。このまま走れば地下三階へのスロープで、クロムとは反対方向に片方の蛇頭を誘導できるはずだ。
「!?」
 しかし、間に合わない。ラダファムは自分を覆う影に息を呑んだ。
「シャギャアアアアアアアアアアァ!?」
「ゴギャアアアアアァァァ!!?」
「うわああぁっ!?」
 背後からの暴風に吹き飛んだラダファムは、アンフィスバエナの悲鳴と同時に、しゅわぁぁっというシャワーのような小さな水音を聞いた気がした。ゴロゴロと転がって、上下の感覚が無くなる前に、床が斜めになったことに気が付いた。
「ファムたん!!」
「ユーイン!?」
 ラダファムの腕をぐいと掴んで起き上がらせてくれたユーインは、そのまま走れと地下三階を示した。
「でも・・・・・・」
「クロムに考えがあるらしい。走るんだ。俺が引きつけながら盾になるから、最下層まで案内してくれ!」
「わかった!」
 ラダファムは懐中電灯を引き抜き、怒り狂ったアンフィスバエナを横目にスロープを下りていった。
「さあ、来い、デカブツ!!」
 ユーインの声が聞こえて、クロムはほっとした。ラダファムが潰される寸前に、ユーインが無詠唱で作りだした硫酸雨が、アンフィスバエナの太い胴を直撃していた。
(あれは同時に攻撃できるけれど、それぞれが攻撃しているとうしろが見えない。片方が進めば、片方は後退しなければならない)
 その矛盾を突かなければ、アンフィスバエナを倒すことは難しいが、同時にこちらも戦力を分けなければならず、非常に厄介な敵と言えた。しかも目の前の怪物は、タフで汚染度の高いゾンビと化しており、片方ずつ相手にしていても時間がかかりすぎて人間の方が参ってしまう。
(狭い場所ではこちらが不利。だけど、極端に細長い場所なら・・・・・・)
 クロムはロバーツ&グリッソンの聖水瓶を取り出し、狭いスロープ内でクロムに噛みつこうとするアンフィスバエナの、大きく開いた口に投げ込んだ。