放し飼いの愛猫 ―3―


 会談自体は大きな波乱もなく、おおむねヴェスパーが譲歩する形で終結した。これには先年に起きた教会と与党のスキャンダルから始まる政治不安を落ち着かせるためのもので、ヴェスパーが放った報復処置が、思ったよりも影響が大きくなったためだ。さすがに政変になるとホルトゥス州の立場もよろしくないので、バランスを取りつつ飴をちらつかせた格好になる。
「これでしばらく、ホルトゥス州にちょっかいを出そうという輩が出ても、強固に反対する勢力ができたわけだ」
「困っている時こそ、恩を売る好機、ということか」
「そのとおり。困っていなければ、困らせるだけだけどね」
「そういう人だよ、あんたは」
 絨毯が敷き詰められたホテルの廊下を歩きながら、ヴェスパーは嘆息するラウルにくすくすと笑ってみせる。
 会談に集まった財界の重鎮たちは、みな忙しそうに三々五々会場を後にしていた。ラウルは初対面となった彼らから名刺の交換を求められ、ヴェスパーの秘書からポンと渡された名刺を配る羽目になった。いつの間に作ったんだと文句を言いたかったが、その暇もなく、芸能人かスポーツ選手の握手会のような状況に、作り笑顔がひきつらないよう頑張るのが精いっぱいだった。今回ばかりは、穏やかで優しげに見える地顔で良かったと思う。
「歩き方が綺麗になったね。レジーのスパルタ教育はきつかったかな?」
「逃げ出したいくらいにな。いまならパリ・コレのランウェイも歩けそうだ」
「それは重畳。・・・・・・おや?」
 エレベーターを降り、エントランスに向かってロビーを歩こうとして、ヴェスパーは首を傾げた。ラウルも何事かと身を乗り出そうとして、秘書たちの体に遮られてしまった。ちらりと見えた感じでは、先に出たはずの事務次官とその補佐官たちが、人であふれかえるエントランスで立ち往生しているようだった。ここはエグゼクティブフロア専用のエントランスなので、行儀の悪いツアーの団体客が押し寄せているかのような、こんなに騒がしくなることはないはずなのだが・・・・・・。
「やれやれ。私は特に隠しているわけではないが、人間側のどこから漏れたのだろうね?煽った者がいるだろう」
「教会の過激派か?」
「似たようなものだよ。いわゆる、活動家というものだね」
 別に隠れる必要はないが、警察が来るまでゆっくりしようと、ヴェスパーたちはロビーの片隅でゆったりとソファに腰かけた。
 ホテルにはもちろん警備員が常駐しているが、相手の数が多すぎる。ざっと三十人ほどはいるだろうか。しばらくすればパトカーが大挙してやってくることだろうし、片付くまで当分動けなさそうだ。
「へぇ。ああいうのは、現地や議事堂の前でデモをやったりするものだと思ってた。事務次官殿もスケジュールが詰まっているだろうに、災難だな」
「現地に来ると、迷子になって衰弱死しかけるからね。彼らが集団で遭難したことなんて、何度もあるよ。電車が通ってからは、トランクィッスルに着くころには重病人になっているし、そのままUターンだね」
「うわぁ・・・・・・」
 トランクィッスルの対人間バリアは、現代でも健在らしい。それで、ヴェスパーが州外に出てくる貴重なタイミングで、嫌がらせをしに来るわけだ。尤も、あんなに騒がしい連中には、こちらの気配はもちろん、姿もとらえることは出来ないだろう。
 聞くとはなしに聞こえてくる怒鳴り声は、制止するスタッフの声を蹴破って重なり合い、関係ない客たちも迷惑そうな顔を隠せない。ラウルが観察してみると、一般の服装に混じってカソック姿が数名おり、やはり教会の一部も噛んでいるのだろう。
「神父がいる・・・・・・けど、なんも力を感じないな」
「ふふっ、クロム神父と比べるものではないよ。敬虔で誠実な彼に失礼だ」
「それもそうだ」
 ラウルに対して核兵器並みの威力を発揮するトランクィッスル在住の神父ではあるが、人外を排除しようなどという思想は欠片も持たない、博愛精神の高い温厚な人柄である。彼の場合は、個人的な思想とは別に、彼の魂が放つ聖性が、ラウルが持つ独特の魔性を敵と判断して、勝手に攻撃してしまうだけだ。
「徳の高い坊さんは、何もしなくても俺を退けてしまうのに、僧服を着て喚いているだけの俗人に『悪性』だの『害獣』だの言われる筋合いはないなぁ・・・・・・」
「この程度で腹を立てていては、先が思いやられるよ、ダンテ」
「ヴェスパーは慣れちゃったのと違うか?」
「失敬な。ああいう輩に一番手を焼いているのは、同じ人間だよ」
 運ばれてきたコーヒーに口を付けて経済新聞に目を落とすヴェスパーに示され、ラウルは事務次官とその補佐官たちの、苦り切った顔を眺める。
「なるほど。俺たちを敵に回したくない頭がある人間にとって、奴らほどの害悪はないわけだ」
「そのとおり」
「実はいますぐ出ていって、しっちゃかめっちゃかにしたいとか思っているだろ?」
「なんでダンテはそういうことを言い出すのかな。私の理性を何だと思っているんだ」
「やっぱり事務次官をもっと困らせてみたいなとか、あのバカ者どもをどうやっておちょくってやろうかなとか考えているんじゃないか。このドS」
 ひどい言われようだ、とヴェスパーは憤慨してみせるが、事実なので秘書たちは礼儀正しく明後日の方向を眺めて無言を貫いている。
 やがて、サイレンと共にやってきた警察車両がキャリッジポーチを囲み、銃や警棒で完全武装した警官が、片っ端から不届き者を拘束していく。怒声と悲鳴と喚き声が溢れ、現場のボルテージは最高潮だ。
「あ・・・・・・!」
 危ない、と思った時には、すでにラウルの体は動いていた。周囲がまるでストップモーションのように感じ、ただそれを成す為だけに感覚が集約されていく。
「ッ・・・・・・!!」
 足の甲にボールを蹴ったような回転の感触が残って振り抜かれる。本当は腕を狙ったのだが、実際に当たったのが頭になってしまったのは、身体の抑制が甘くて飛び過ぎたせいだ。おかげで着地のバランスまで崩れかけた。
「っ、とっと・・・・・・大丈夫ですか?」
「え、は・・・・・・え?あ?」
 呆然とする事務次官らの目の前で起こったのは、ラウルが突然現れて銃声が聞こえて人が倒れた、ということだ。仰向けに倒れた人間は、銃を持ったまま、床に接吻している。その事実が視神経から脳に達すると、悲鳴がのどに詰まったような呻き声をあげて、よろよろとあとずさっていく。
「危ないから、ちょっと隠れた方が良さそうです」
「あ・・・・・・あ、あっ!うし・・・・・・!!」
 補佐官が指をさす前から背後の動きに気付いているラウルは、余裕をもって体を回転させて、脚を跳ね上げた。今度こそ、振り降ろされるプラカードに当てて破壊できたが、結局衝撃で持っていた人間まで吹っ飛んでしまった。プラカードの破片で顔面が血まみれになっているようだが、息をしているかどうかは気にしないことにする。
「うーん、どうも力加減が難しいなぁ・・・・・・」
「こらダンテ、私というものがありながら、勝手に飛び出すんじゃないよ」
 危ないじゃないか、と頭を軽く小突かれて、ラウルは素直にヴェスパーに謝った。とっさのこととはいえ、ヴェスパーの計算に狂いを生じさせる可能性もあったのだ。
「ごめん、ヴェスパー」
「まったく・・・・・・やはり首輪と鎖が必要かな」
「やめて。お願いだから、それだけは・・・・・・」
 ヴェスパーにニヤァと笑われて、ラウルは泣きたくなった。下手な口実を与えかねない行動は、自分の自由のために慎むべきだと猛省する。
 エントランスにいた活動家たちは、ヴェスパーの秘書たちの体によって警察官たちの前に押し出され、ようやく騒がしさが遠ざかっていった。
「みなさん、お怪我はないかな?」
「閣下・・・・・・ありがとうございます。ラウルさんも、助かりました」
 事務次官たちの無事を確認すると、ヴェスパーは自分の足元に倒れている二体に気付いて、ステッキを小脇に抱えて、パンパンと手を叩いた。
 そうして起こった現象に、人間たちは今度こそ腰を抜かしてへたり込んだ。ぐらぐらと揺れる頭は後ろを向いたまま、鼻がめり込んで扁平になった顔は血まみれのまま、よろよろと歩いてエントランスを抜けていく。それに気付いたスタッフも警官も驚いていたが、二体は気にすることなく護送車の中へ消えていった。護送車の中から、警官が二人ほどまろび出てきたのは、まるでコントのようだ。
「すげー・・・・・・」
「なにを感心しているんだい。死体を歩かせるぐらいできなくて、ミルド伯爵は名乗れんよ」
「あ、やっぱり死んじゃってたか」
「綺麗に即死だね。まあ、事務次官殿たちが、凶弾に倒れなくてよかったよ」
 弾丸はあの辺にめり込んでいるはず、とヴェスパーが指差したのは、アトリウムの二階部分。たしかに、ラウルの視力でも、小さな穴とわずかなヒビが見えた。
「さあ、我らも退散するとしよう。少し歩いても構わないから、車を出しなさい」
 慌ただしく秘書とホテルスタッフが駆け回り、ラウルは事務次官たちに手を貸して立たせると、ステッキを片手に闊歩していくヴェスパーを追いかけた。警察車両であふれたキャリッジポーチは混雑していたので、大型ロータリーのある正面エントランスに向かってゆっくりと歩いていく。
 ラウルは自分の肩が軽く叩かれて、ヴェスパーを見上げた。
「今回は仕方がないけど、危ない事をしてはいけないよ」
「ヴェスパーは過保護だよ」
「お前がまたどこかに行ってしまうのは、耐えられないんだ」
「ヴェスパー・・・・・・」
 闇に溶けそうな青白い美貌に浮かんだ、少し苦し気な微笑が、外灯や窓から溢れる明りに照らされている。ヴェスパーがダンテの墓前で立ち尽くしていたという話を思い出して、ラウルもそれ以上口答えができなくなる。ヴェスパーにもう一度弟を失わせる権利は、ラウルにはないはずだ。
「なるべく、気を付けるよ」
「そうしなさい」
 ラウルは頭を撫でられて、昔以上に子供扱いされているなと、苦笑いを抑えられなかった。