放し飼いの愛猫 ―1―


 真っ直ぐに伸びた石造りの廊下をひたすら往復して、ラウルは自分の平衡感覚と方向感覚が危くなってきたように思えた。
「また軸足に寄っています」
「はい・・・・・・」
 オペラ歌手のように艶めかしくも豊かな低い声に指摘され、ラウルは内心ため息をつく。いくら真祖吸血鬼に並外れた体力があるとはいえ、さすがに『音を立てずにまっすぐ歩くだけ』で数時間のレッスンはきつい。
「よーぅ、ダンテ。レジーに扱かれてるな」
 毛先の跳ねた長い黒髪を背に垂らした逞しい長身が現れ、無言で頭を下げるレジナルドに、ラウルは天の助けと情けない笑顔を向けた。
「クラスターさん」
 ホルトゥス州に住む竜族を取りまとめている黒竜のクラスターは、ラウルが昔見た時からあまり変わらない。剽悍さよりも重厚さが増え、ヴェスパーのように多少年を取ったようにも見えるが、それは顔かたちだけのことではなく、多く服装によるものだ。その下に筋骨逞しい肉体がわかる質素なシャツとズボンという服装から、いまはたっぷりと布を使った民族衣装に貴金属や宝飾を纏った、族長らしい威厳溢れる服装となっている。
 これには多少理由があり、龍族の衣類は、基本的に本人の皮膚や鱗を変化させたもので、それなりに意識して鍛錬しないと豪奢な服にならない。族長という立場もあり、クラスターは若い時から必要に迫られて、その技能を磨いてきたのだ。
「熱が入るのもいいが、ヴェスパーはコイツを執事や使用人にしたいわけじゃねえ。最初から飛ばしすぎんなよ。おい、休憩だ、休憩」
 クラスターに肩を組まれ、ラウルはへたり込みそうになった。基本中の基本とはいえ、背筋を伸ばして足音をさせずにまっすぐ歩くのが、こんなに大変だとは思わなかった。
「しんどい・・・・・・」
「ご苦労なこった。どうせダンスも仕込まれるんだろ?いまからへばってられんぞ」
「勘弁してほしい・・・・・・」
 ぐったりとソファに沈むラウルの正面で、どっかりと腰かけたクラスターは呵々と笑う。クラスターは、ホルトゥス州のこともヴェスパーの性格も、そしてラウルの事情も知っているからこそ、こうして労いに来てくれたのだ。
 レジナルドが淹れてくれた薫り高い茶を啜り、ラウルは集中しすぎた目頭を揉んで、首をごきごきと鳴らす。貴族の所作とは、ラウルにとって非常に堅苦しい。
「なんでこんなことに・・・・・・あの親子を甘く見てた。安請け合いするんじゃなかった」
「思考が後向きになってきているぞ。おい、レジー。ちょっとは手加減してやらないと、コイツそのうち町から出ていくと言い出しかねん」
「すでに半分ぐらいはそう思い始めてる。変な責任を負わされる前にずらかりたい・・・・・・」
「落ち着け、ダンテ」
 鍛え抜かれた刀身のような声音に、ぐずりだしたラウルの精神が、撫でられたようにすっと穏やかになる。さすが、竜族の長の名は伊達ではない。
「実際のところ、コイツの筋はどうだ?」
 クラスターの視線に、レジナルドは丸眼鏡の向こうから表情を変えずに淡々と語る。
「スポーツをしていたおかげで体幹はほぼ出来ていますが、同時に軸足に頼りがちです。常時戦闘態勢に見えかねないので、そこを隠すのがスマートかと」
「ぶはははっ。構わねえよ!全然動けなかった昔のコイツに比べたら、多少元気に見えた方が、アイツの気に入る。一夜漬けでボロを出すよりは、じっくり身に着けた方がいいさ。なにしろ、時間はたっぷりあるからな」
 ラウルに寿命と言えるものがほぼなくなったので、ミルド伯爵家との付き合いも、これからずっと長く続いていくのだろう。クラスターは慌てることはないと構えるが、レジナルドは困ったように、やや眉間を曇らせた。
「その、時間が問題でして・・・・・・」
「明後日には、もう出発なんだ。関係者の名前と顔写真は叩き込んだし、テーブルマナーは最悪回避できるとしても、常にヴェスパーの側にいるとなると・・・・・・」
 立ち姿、歩く姿勢、座り方、そういうものが一番目立つ。だからこそ、ヴェスパー第一の側近である、執事レジナルド直々のレッスンとなっているのだ。
「そもそも、なぜお前がヴェスパーに同行することになったんだ?愚痴がてら話してみろ」
「うぅ・・・・・・すっごいくだらない事だからな」
 そう前置きして、ラウルは一週間ばかり前の出来事を、クラスターに語って聞かせた。
 ホルトゥス州を実質領地として持つ現伯爵ヴェスパーは、真祖吸血鬼となって転生して戻ってきたラウルを、自分の居城に住まわせて側近として育てたがっているが、ラウルにその気がないので、渋々トランクィッスルに住んで自由に暮らすことを認めている。ただ、月に一度か二度、ラウルの元を訪れて、親交を深めているところだ。
 その日は、大きな話題のひとつとして、ラウルがヴェスパーの息子イーヴァルに同行して、彼の仕事を手伝い、成功させたことを話した。のびのびと活動し、ラウル基準では大金の報酬を得て、とても楽しかったと。
 その話題の感想で、ヴェスパーが最初に言い放ったのは「イーヴァばっかりずるい!」だった。ラウルが自分とは仕事をしないのに、イーヴァルには協力するのが面白くないという。
「俺が『あんたの子供だから可愛いんだ』って言ったら、ヴェスパーなんて言ったと思う?『私の方が可愛い』だぞ?なんだ、あのおっさんは!息子にヤキモチやくな!」
「本当にくだらねえな」
 真顔で呆れるクラスターに、ラウルは泣きつかんばかりに何度も頷いた。
「絶対に次の出張に連れていくって聞かないから、しょーがなく・・・・・・」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「レジナルドさんが謝ることじゃないよ。こっちこそ、仕事増やして申し訳ない」
 実際、レジナルドはあらゆることに優秀で、レジナルドがある程度ヴェスパーの手綱を握っているおかげで、ラウルが城に軟禁されずに済んでいるのだ。
「そういえば、旦那さまから腕時計の手配を聞いていますが、ラウルさんにお心当たりはありませんか?」
「あー、この前アメリカに行ったとき、グレムリンに壊されたからな」
 ラウル自身が初任給で買った腕時計だ。安物だったし、また自分で買うつもりだったのだが、ヴェスパーがプレゼントすると言い張っている。
「絶対に高い物用意したがるだろうから、レジナルドさんから地味なものを選ぶように言ってくれよ。子供の相手をするのに、ゴテゴテした日常使いできないのは困るって」
「かしこまりました」
 レジナルドは謹厳な表情で頭を下げるが、その足元で鱗に覆われた尻尾の先がわずかに揺れていた。絶対面白がっているだろ、とラウルは情けない気分になるが、頼れるのはこの敏腕執事だけなのだ。
「そうか、明後日か・・・・・・。じゃあ、これからちょっくら行ってくるか?」
「え?」
 何処に?とラウルが視線で問うと、クラスターはニィッと獰猛に笑ってみせた。
「お前の墓参りだよ。ようやく掃除が終わったんでな」
「あ・・・・・・」
 ヴェスパーに噛まれて死んだダンテの遺体はすべて灰になってしまったが、ヴェスパーはその遺灰を丁寧に集めて、トランクィッスルの旧市街地にある共同墓地に葬っていた。しかし、転移門の崩壊による瘴気の波にのまれ、旧市街地の放棄と共に、長く立ち入ることができなかったのだ。
 ラウルが戻ってきたことで、少し前から旧市街地の復興とは言わないまでも、除染がされるようになっていた。正直、焼け石に水な状態だが、主に住んでいる蘚苔菌モスフングス族にも新鮮な空気が必要で、モース・ウンゲデューム討伐と同様に、定期的な公共事業として予算が組まれそうなのだとか。
「なんだか変な気分だな。自分の墓を見るって」
「観光地になった著名な先祖の墓だと思っておけ。それに、あのヴェスパーがしょんぼり立っていた場所だと思ってみろ。感慨深いなんてもんじゃねぇぞ」
 自分が死んだ後にそんなことがあったのかと、ラウルは顔が熱くなった。昔からヴェスパーには良くしてもらったし、ダンテもヴェスパーを慕っていたが、そこまで悼まれたのかと思うと、申し訳なさと同時に、少々照れ臭い。
「・・・・・・あぁ、そうか。そろそろ命日だもんな。それでヴェスパーのやつ、急がせたのか」
 ぽつりとこぼれたクラスターの呟きに、レジナルドが珍しく驚いたように反応した。
「どなたのです?」
「こいつのだよ。な?」
 クラスターに指差され、ラウルはこくんと頷いた。
「正確には覚えていないけど、今月。まあ、来月に誕生日があるし、そっちを祝ってもらった方が気分はいいかな」
「ハハッ、違いねえ!」
 よし行くぞ、と立ち上がったクラスターの背に載せてもらい、ラウルは初めて、かつての自分の肉体が眠る墓所を訪れることになった。