エスコート ―1―


 エルヴィーラは不機嫌だった。
 着飾って社交場に出ることは嫌いではなかったが、その前の風呂がおっくうなのだ。生き物のような無駄に高い新陳代謝を持っているわけではないし、掃除の行き届いた城の中で生活しているのだから、屋外にでも出ない限りは埃が付着することもない。
 なにより、流れ水が大の苦手であるエルヴィーラにとって、風呂場は鬼門中の鬼門だ。
 それでも、社交界には鼻の利く人物は多いし、肌のハリツヤを保つためには、表層の洗浄が不可欠である。中途半端な肌状態では、せっかくの美容液の効きも悪くなってしまう。
「必要なことだというのはわかっているのよ。ただ嫌いなだけで」
「うん、うん」
 その愚痴を何で自分が聞いてやらねばならんのかという疑問は、ラウルの胸の中に礼儀正しくしまわれている。
「私専用のユナスライムがいるのだから、普段はそれで充分なの。だけど、ダンスパーティーとか、なにかのお祝い事の集まりなんかでは、そうはいかないでしょう」
「そうかぁ」
 ユナスライムってなんだ?という疑問が頭に一瞬よぎったが、風呂の代わりにスライムに体を拭かせているのかと思い至り、ラウルは噴きそうになるのを必死でこらえた。
(湯女スライムってことか!?待て、その絵面はヤバい。想像するな、俺!!)
 スライムにまとわりつかれているボンキュッボンな美女なんて、健全な青少年の嗜好を歪ませるに十分なものだが、そこから必死に想像を逸らそうとして、顔面スライムパックをしているエルヴィーラを想像してしまって、ついにラウルは唇の端を引きつらせ、肩を震わせた。
「なによ?」
「い、いや、女性って大変だなと・・・・・・」
「水が苦手でなければ、こんなにクサクサした気分になることも無いのよ」
 ふんと行儀悪く鼻を鳴らすエルヴィーラは、紳士たらんとして、笑いたい自分と必死に戦うラウルの苦労には気付いていない。
「んんっ。それで、御用はなぁに?」
「今度開かれるパーティーで、わたくしをエスコートしなさい」
「・・・・・・はい?」
 なんて無茶振りをするんだと、首をかしげて聞き返せば、これからはずっとやれと言う。
「いやいやいやいや、そんな無理だって!!」
「あなたがやらなかったら、誰がやるのよ」
「そ、そういうのは、同じような家柄のお坊ちゃんとか、お付きの騎士とか、なんなら父親がやるもんじゃないの!?ほら、イーヴァルだっているし!」
「デビュタントの小娘じゃあるまいし、父親がやるわけがないじゃない。イーヴァルにエスコートされるなんてまっぴらだわ」
 相変わらず姉弟仲が悪いのか、エルヴィーラは眉間にきつくしわを寄せて不快感をあらわにする。
「お付きの騎士、いわゆる守護騎士っていうのは、従者と違って、わたくしよりも賢くて強い男でなければならないの。どういう意味か分かるでしょ?」
「あ、ああ・・・・・・まあ」
 エルヴィーラより賢くて強い身分が下の男なんて、そうそういるものではない。というか、純粋にエルヴィーラより強い男というのが、ヴェスパーやクラスターのような、生態ピラミッドの頂点に居座る一部を除いてラウルには想像できない。もちろん、罪源は論外だ。万が一にも面白がって乱入されたら、それこそ阿鼻叫喚の地獄絵図になってしまう。
「じゃあ、同じ貴族の男がいるだろう?いまの人外の貴族って、ララたち以外に会ったことないから知らないけど」
 人間でも本物の貴族ではなくとも、国家元首とその家族だとか、世界的な大店や銀行家のような金持ちや、貴族の分家筋や代々の大地主のように、家柄が良いとされる男は多いはずだ。もちろん、そういう連中は王侯貴族のみが出席を許される「真の社交界」に出席することはできないが、その下に位置する社交界に出席するには、十分に通用する。
 エルヴィーラが出席するパーティーが、どのランクなのかはわからないが、エルヴィーラにお近づきしたい男は、腐るほどいると思うのだが・・・・・・。ラウルのその考えを読み取ったのか、エルヴィーラはうんざりと長いため息をついた。
「わたくしにも、選ぶ権利があるはずだわ」
「お、おう・・・・・・」
 同じ男として、ラウルはなんと返事をしたらいいのかわからない。こうして話し相手にされているのだから、少なくともラウルの事は気に入っているのだろう。
「だからといって、庶民の俺がそんなところに・・・・・・」
「エスコートは男の仕事よ。光栄に思いなさい」
「・・・・・・はい」
 最初から、ラウルに拒否権はなかったようだ。

「・・・・・・というわけでして、社交界の作法など、色々教えていただきたく・・・・・・」
 半泣きで頭を下げるラウルに、ミルド伯爵家の敏腕執事は珍しく苦笑いを浮かべた。
「ラウルさんは真面目でいらっしゃる」
「レジナルドさん・・・・・・」
「そういうことでしたら、彼に任せましょう」
 レジナルドが紹介してくれたのは、伯爵家の執事室に勤務するエルフ族の男だった。見た目では長寿な彼らの年齢はわからないが、人間でいうと三十代半ばから四十歳ぐらいに見える。コシのある銀髪を撫でつけ、冴え冴えとしたコバルトブルーの目が印象的な、理知的な美形だ。やたらと仕事ができる、頼りになる上司、みたいな雰囲気がある。
「サイラスです。いずれ、ラウルさん付にするつもりでしたので、この機会に」
「え?俺付って?」
「今後とも、我が伯爵家をよろしくお願いします。ではサイラス、あとは任せました」
「はい、ボス」
「え?まって?まって??」
 すさささーと去っていくレジナルドの背中を見送るしかなく、ラウルは呆然と立ち尽くした。
「えっと・・・・・・?」
「諦めてください。そういうお人好しなところを付けこまれているんですから、逃げられるはずがないでしょう」
「お・・・・・・」
 初対面でお人好しと言われる自分に若干のへこみを覚えながら、ラウルはサイラスと握手を交わした。
 執事室というのは、執事として仕事をする人たちが集まった場所で、企業風に例えると、執事課とか秘書課とか言えば、想像がつきやすいだろうか。主に、主人について給仕をしたり、仕事の調整や資料集めをしたりなど、外向きのサポートをすることが多い。レジナルドはそこのトップであり、当主専任でもある。ちなみに、伯爵の居城内限定でのことについては、家令という役職がトップであり、また別に存在している。
 通常、執事よりも家令の方が序列で言うと上であるが、ミルド伯爵家においては逆である。小さな地方領主程度なら、家令と執事を一人が兼任することも珍しくないが、なにしろミルド伯爵家の資産は莫大で、事業も手広い。またそれ以上に、ヴェスパーの影響力が世界規模なのだ。忙しい当主のスケジュール調整を一手に担う執事の力が大きいのは、当たり前である。
「サイラス・レンと申します。伯爵家に関わることに関して、ラウルさんのサポートをさせていただきます。伯爵家の方々へのご連絡等、またその逆も、わたしにお任せいただけます」
 いままでは個別に出されていたコンタクトも、今後はサイラスが窓口になって調整してくれるらしい。
「そうか・・・・・・迷惑をかけると思うけど、よろしくお願いする」
「仕事ですので」
 当代を筆頭に、アクの強い性質が揃った伯爵家との窓口になってくれるなんて、すごく苦労を掛けてしまうとラウルは申し訳なく思ったが、サイラスは涼しい顔を崩さないままだ。
「ペット扱いされている貴方に比べたら、過酷な労働を課せられた使用人の方がマシです」
「ひどい言い方だな!」
「失礼しました。我々に重宝されている、ですね」
「そっちもひどいわ!!」
 伯爵家の城にいて、ここまで家人けにんにコケにされたのは初めてで、なにか嫌われるようなことをしたかなと傷付いたが、サイラスはけろりとした顔をしている。まったく悪気が無いのかもしれない・・・・・・つまり、元から口か性格か、あるいはその両方が悪いのだ。
「顔の良さとイケボからは想像もできない口の悪さ・・・・・・すげーギャップだ」
「恐れ入ります」
「レジナルドさんの推薦だからな。期待してる」
「お任せください」
 サイラスは丁寧に礼をして、ラウルが直面している困難について教示してくれることになった。
 ところが、最初の一言で、ラウルは早くも不安になった。
「貴方に足りないのは、マナーや教養ではなく、自信や覇気です。社交界のマナーなんて、むこうが無礼をしなければいいことです。無礼を働かれたら?どちらが上か、思い知らせてやればよろしいのです」
 エルフらしいスレンダーな肢体から立ち上る闘気に、ラウルは顔を覆った。サイラスは確かに教養があって上品だが、心の導火線が短いタイプに違いない。
「要は慣れです。たしかにラウルさんは貴族ではありませんが、旦那様たちと対等に渡り合える度胸がおありです。その自信は、どうやってつきましたか?」
「・・・・・・ん、まあ、あの頃は必死だったし」
 様々な外的要因が重なった末に、ヴェスパーがダンテを保護するという結論を出してくれたからこそであるが、人間が身一つでトランクィッスルに住むというのは、なかなかできることではないだろう。謙虚さと勇気と、古いしきたりという知識、そしてなにより、未知に対して臨機応変に自分を制御することが大事だった。
「旦那様もそうですが、今回はお嬢様の随伴ということですので、ラウルさんが心配なさるようなことはひとつもありません。なんなら、ラウルさんのデビュタントととらえることもできるのです。あのお嬢様が、貴方にちょっかいを出させるはずがありません」
「う・・・・・・」
 それは、ラウルにちょっかいを出すような輩がいる場所に行くということでもある。とにかく貴族がわんさといる派手な場所が苦手なラウルが、また怖気づき始めてしまい、サイラスは呆れたように大きなため息をついた。
「知識は自信の源です。いいでしょう」
 そうして、エルヴィーラが出席するパーティーの概要と、予想される出席者、簡単なあいさつやそこに含まれる暗号的サイン、ダンスの補習と、考えられる限りの予習を施してくれた。
「・・・・・・思っていた以上に、呑み込みが早いですね」
「ありがとう、サイラス。助かったよ」
「どういたしまして。健闘を祈ります」
 サイラスが用意してくれたタキシードに身を包み、ラウルはエルヴィーラのお伴をするべく、背筋を伸ばした。