血の帰還 ―1―


 重い音を立てて開かれた鉄扉の向こうは、さらに鉄格子と、それを挟むように分厚いアクリル板が打ち込まれて壁になっていた。食事のトレーは狭い窓から機械で搬入され、片付けもろくに出来なかったようで、そこら中に壊された破片が散らばっている。室内は煌々と灯りがともされ、ベッドと簡単な水回りしかない設備では、隠れる場所などない。
「なるほど。猛獣以上、人間以下の扱いだな」
 分厚いコンクリートの壁に囲まれた、まるで牢獄のような隔離病室の隅にうずくまる影に向かって、イーヴァルは心の籠らない感想を口にした。
 すぐに、イーヴァルの目の前の透明な壁に何かがぶつかってきたが、バシンと大きな音を立てただけで、壁はびくともしない。
「元気があって結構。救援要請があってから時間が経ってしまったから、もっと死にそうかと思ったが・・・・・・」
 その言葉を聞いて、うずくまっていたものは身動ぎをした。
「モーリン・ソワーズ、七歳。違いなければ、顔をあげろ」
 七歳・・・・・・そんな子供が閉じ込められているのかと、普通ならば驚くことだろう。しかし、怯えと怒りと警戒がこもった眼差しをわずかに上げたのは、身体の半分近くが樹木のような質感を持つ少女だった。
「ここの水は不味そうだな」
 バキッバキッ、とイーヴァルが爪先で蹴ったアクリル壁に穴が開き、一本のアンプルが床を転がっていく。
「・・・・・・・・・・・・」
「飲んでいいぞ」
 自分の攻撃ではびくともしなかった壁が、いとも簡単に壊れたことにモーリンは目を瞠り、床の上でころりと動きを止めたアンプルとイーヴァルとを、忙しく見比べる。そして、枝のような右腕を伸ばして、恐る恐る、蒼いガラス瓶をつつき、しゅるりと絡めて引き寄せていく。
「・・・・・・・・・・・・」
 ここで出される食べ物も飲み物も、モーリンの口には合わなかった。空腹という感覚は薄かったが、それでも監禁されて疲弊する精神を慰める食事は欲しかった。
 人間の体を簡単に引きちぎることができるモーリンだったが、彼女の力をもってしても破れなかった壁を壊した面会者からの差し入れは、素直に貰っておこうという気になった。
「・・・・・・美味しい!!」
 変形してしまった手のせいで少し苦労して開けたアンプルの中身は、ただの水だった。だが、それはするりと体中にしみわたっていき、少量だというのに豊かな飲み心地で、モーリンが短い半生の間に飲んだ、どの飲料よりも美味だった。
 目を輝かせる少女にイーヴァルはうなずき、近くに来いと指先を動かす。モーリンは固まりかけていた身体の痛みに一瞬顔を顰めたが、すぐに子供らしい柔軟さを取り戻して鉄格子に近付いた。
「お兄さん、誰?」
「イーヴァル・ミルド。ところで、お前のその姿を恐れなかった人間がいるな?」
 モーリンは少し考えて、こくりと頷いた。
「それは誰だ?」
「お兄さんと、C組のアッカーソン先生」
 イーヴァルを指し示しながら、モーリンは両親すらも泣くばかりで触れようとしてこなかったのに、アッカーソンだけは危険を顧みずに自分を抱きしめて止めてくれたと伝える。
 それを聞いて、長いまつ毛に縁どられた紫色の目が、すぅと細くなった。


 ニューヨーク州の片隅にある小学校で、複数犯による銃乱射事件があったのは三ヶ月ほど前のことだ。教師数名を含め、通学していた児童の多くが犠牲になった。複数の団体や愉快犯から犯行声明が続出し、重大で悲劇的なテロ事件であり、遺族への支援と政治的な判断が必要だと、政府高官がしゃべっているのがニュースで流れている。
 やっかいなのは、犯人の目的や素性がいまいちわからない事だ。
 突入した警官隊により、犯人は全員射殺された、という発表になっているが、実際はそうではなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
 机や椅子の間で血を流して倒れている子供たち、散乱した教科書やノート、そんな教室で、ただ一人が、銃を持った大人に立ちむかっていた。銃弾に向かって机を投げつけ、捕まえると、力任せに引きちぎり、血と内臓と断末魔をまき散らして、次の獲物に飛び掛かっていった。
 警官が射殺したのは、少女を抱きかかえた教師を撃とうとしていた、最後の一人だけだ。残りの六人は、すべてモーリンが惨殺してしまった。捕えて白状させることがかなわなかったのに、犯人たちは身元を証明するような物を携帯していなかった。手掛かりになりそうな前科もなく、地道な捜査が続けられることだろう。
 現場を見た者には厳重な緘口令が敷かれ、狂乱から醒めたモーリンは病院へ運ばれていった。あのとき、自分がモーリンを止めなければ、悲劇を目の当たりにして怒り狂った少女は、警官に撃ち殺されていたかもしれない。
(尤も、マグナムで撃っても倒れないかもしれないけどな)
 ラップトップパソコンのモニターには、『保護完了』という短いメッセージが届いており、胸の奥からほっと安堵のため息をつかせた。連邦捜査局FBIに身柄を持っていかれる前に、一か八かで救援を求めたが、反応してくれるかどうかわからなかった。
 モーリンはすでに、一教師の手が届かないコンクリートの向こう側へ行ってしまった後だったが、人間に弄繰り回される前に、なんとか間に合ったようだ。
「よかった・・・・・・」
「なるほど、こちらもただの人間ではなさそうだ」
 一人暮らしの自室に他人がいたことなど、これまでに一度もない。だが、背後からかけられた声に、多少の驚きはあっても、不思議だとは思わなかった。
「よくわかったな・・・・・・ぁ」
「?」
 カーテンを閉め切り照明を落とした部屋に浮かぶ青白い肌、艶やかな黒髪、そして、宝石のように硬質な輝きを放つ紫色の目。美しい闇そのものと言える青年が、音もたてずに侵入した部屋の入口に立っていた。しかし、それは別に問題にならない。
「どこかで、会ったことはないか?」
「いや?」
 何をとんちきなことを聞くのかと目を眇める相手に、頭を掻いてわびる。ナンパの台詞でももうちょっと気が利いたことを言えるはずだ。
「わるい。なんだか、すごく懐かしい感じがしたんだ」
「フン、貴様は何者だ?」
 自分は名乗りもしない侵入者に問われ、苦笑いを溢す。
「それが・・・・・・俺にもよくわからないんだ」
 呆れかえって天を仰ぐ侵入者に、家主は申し訳なさそうに乾いた笑いを漏らした。

 最小限の着替えと貴重品などをザックに詰め込ませ、イーヴァルはラウル・アッカーソンと名乗る若い教師を連れて、彼のアパートメントを出た。
「あれ、監視が付いたのか。俺・・・・・・いや、アンタかな?VIP待遇だな」
 小声ではあったが、どこかうきうきとしたラウルの声に、やはり人間にしては勘が鋭い、とイーヴァルは呆れながらも胸の中で独り言ちる。周囲には同じようなアパートメントのビルや商店が立ち並び、夕方という時間もあってか人通りが多い。その中で、自分に向けられる米国中央情報局CIAの視線に気が付くとは、なかなかのものだ。
「これから何処に行くんだ?」
「まず、貴様が何者かが判明しない事には、こちらも手が打てん。ゆっくり話せる場所まで行くぞ」
 タクシーを拾って向かった場所は、市内で最も高級なホテルだった。
「イーヴァル様・・・・・・!」
「待たせたな、ジェローム支部長。手数をかけてもらって、感謝する」
「滅相もございません」
 ロビーで早足に駆け寄ってきたスーツ姿の男を労い、イーヴァルは同行するよう命じる。通された部屋は、セミスィートながらゆったりとした空間で、調度も華美過ぎない、落ち着いた雰囲気だった。
「盗聴の心配はございません」
 ジェロームはソファに寛いだイーヴァルとラウルに手慣れた様子で紅茶を供し、自分はイーヴァルの後ろに控えた。
「事の始まりは、貴様からの匿名メールが、トランクィッスル市の公式ウェブサイトに届いたことだ。俺は伯爵から依頼を受けて調査し、モーリンが先祖がえりを起こした個体であると確認、本国へ護送するよう手配をした。ここまでは、貴様にもわかるな、ラウル?」
 頷くラウルに、イーヴァルは続ける。
「俺たちにとって問題だったのは、トランクィッスルとはまったく関係ない人間・・・・・・つまり、貴様が、なぜ、トランクィッスルならば人外を保護してくれると知っていたか、ということだ。しかも、ニューヨークには、我々のコミュニティがある。そのコミュニティを通さないということは、まったくの野良ということでもある」
 イーヴァルの険しくなる眼差しを、ラウルは深い海のように青い目で見返し、ぽつぽつと話し始めた。
「コミュニティがあるなんて知らなかった。俺には、俺じゃない誰かが、トランクィッスルに住んでいたという記憶がある・・・・・・前世記憶ってやつじゃないかと思っている」
 イーヴァルはうなずいて先を促し、ラウルは何度も練習したかのように、要領よく説明した。
「子供のころから、その記憶はあったけど、大人になるにつれて、だんだん思い出せなくなってきた。でもその代わり、俺の顔が変わってきた。これを見てくれ」
 ラウルがバックパックから取り出した小さなアルバムには、赤子から幼児、少年、青年へと成長していくラウルの写真が、何枚か収まっていた。そして、アルバムをめくるイーヴァルの眉間の皴が深くなる。
「たしかに、変わっているな」
 子供の頃は、両親と同じ癖のない金髪で、赤茶色の目をしていた。そして、どちらかと言えばふくよかで柔和な顔の父親に似ていた子供は、成長するにつれて骨太で、どこか古風なヨーロッパ人らしい彫りの深さを備えていく。いまでは、両親のどちらにも似ていない。短く整えた栗色の巻き毛、澄んだ青い目、引き締まった唇からは、時折白い犬歯が覗く。
「俺は、俺になる前は誰だったのか、名前もなにも知らない。前世の記憶もぼんやりしてきて、人間以外の種族が住む町であるトランクィッスルに住んでいた、ということしかわからないんだ」
「先祖の記憶という可能性は?」
 DNAに刻まれた情報という可能性をイーヴァルは示したが、ラウルは口元に手を当てて少し首を傾げ、否定した。
「前世の俺は、子供を作らずに死んだはず・・・・・・だと、思う。まだ若かった。俺の祖父母までしかわからないけど、誰もトランクィッスルに住んでいたことはないはずだ」
「そうか。他に、なにか思い当たることは?」
 ラウルは少しためらった後、言いにくそうに口を開いた。
「自覚があるものとしては・・・・・・かなり腕力が強くて、それからどうも再生者リジェネレーターらしい、ということ。普通の人間ならしばらく動けなくなるような怪我・・・・・・例えば骨折とかも、一晩たてば治ってしまうんだ」
 ふむ、とイーヴァルは考え込む。吸血鬼のイーヴァルも含まれるが、怪力だったり肉体の再生力が高かったりする種族というのは、けっこう多い。だが多いせいで、結局どの種族なのか絞り込むことができない。
「なるほど。自分が大怪我をしないという自信があったから、あの子供を押さえつけるという無茶も出来たわけか」
「まあ、そうだね。ヘルメットやプロテクターをつけていたとしても、普通はあんなおっかないことできないよ」
 はははっと明るく笑うラウルは、やはりただの人間に見えた。