嵐華の春 −9−


 クロムを背中にへばりつけたまま、アゼルはメルヴィンとにこやかに談笑を続ける。
「クロムさまがこの国のカーニバルにご興味がおありだったので、ユーイン殿下がお連れ遊ばしたとか・・・・・・。ただ、あまりこのような席には馴染みがないそうですの」
「ああ」
 精巧なフレスコ画で埋まる天井や、特産のガラス細工で出来たキラキラと灯を反射する照明。そこに集う奇抜な衣装の人たちは、みな上流階級出身だ。庶民なクロムには、権力がちらつく場所は、相変わらず苦手であり、虚勢の張りようが無い。
「心細いご婦人を放っておくとは、相変わらず配慮の足りない奴だ」
 メルヴィンにそう言われても、ユーインが特殊な人物で、こういう場に出れば人気が集中することは、クロムだってわかっていた。わかってはいたが、実際に目の当たりにすると、やはり気後れはする。いまだってアゼルが側に居なかったら、すぐにバッツィーニ城館から夜のアネッロの町に逃げ出したいくらいなのだ。
「そういえば、最近は身分高い男が、市井のご婦人を囲うのが流行りなのでしょうかな?結婚をせずとも心境が変わるほどの女性を囲えるなど、うらやましい限りではあるが」
 急に話題が変わったメルヴィンから、当てつけられているとわかっているアゼルは動じない。
「どうでしょう。古今東西、そのような例はおおございますれば」
「政治のために望まぬ婚姻をし、心よせる相手を囲うはよし。心通う相手を伴侶としつつも、政略のために有能な者を囲うもよし。しかし、婚姻をせずに心よせる相手を囲うとは、どういう理由だろうか」
 メルヴィンの至極当然な問いの答えには、まったくもって越えられない難題があるのだが、それを知っているのはごくごくわずかな人間だけだ。
「我が皇帝のことを仰っているのなら、単に面倒くさいだけだと、もっぱらの噂でございますが」
「ふっ、たしかに。失礼ながら、イーヴァル皇帝陛下のご趣味に、愛娘を差し出せる親がいるとは思えませんな」
 さすがに不快気なアゼルが、扇をぱちりと閉じて、仮面越しにメルヴィンを睨んだ。たしかにイーヴァルの嗜虐趣味には呆れるし恐れるが、それを関係ないメルヴィンにあげつらわれるのは臣民として腹がたつのだ。なにより、イグナーツという神の果実が現れてくれたことを、ベリョーザ国民は歓迎しており、その細心の注意を払う扱いに関して他国民から馬鹿にされるいわれはない。
「まぁあ。メルヴィン卿には、身を慎んでも我が身を賭したとしても、どうしても手に入れたい女性がおられませんのね。そのような気概を理解されないなんて、アネッロの男性には期待しておりましたのに、残念なこと」
 おほほほ、とアゼルが哄笑を上げ、今度はメルヴィンの目が細くなった。
 ユーインですら苦戦するベリョーザ帝国との交渉を見てきたクロムは、せめて喧嘩を売る相手を選べ、と心の中でメルヴィンに叫んだが、まさか自分が口をはさむわけにもいかない。
「なるほど。イーヴァル陛下が手に入れられたのは、絶世の美姫か。これほどまで治政に干渉するとは、こちらも心穏やかには居られませんな」
「あら、取り越し苦労ですわよ」
 アゼルはあっさりと断言し、それより、と言葉をつづけた。
「わたくしの個人的な興味でございますが、メルヴィン卿はご自分の伴侶に関して、どういった思想をお持ちですの?」
「アゼル外務官は、ずいぶん不躾なことをお聞きになる」
「メルヴィン卿が他の男性に嫉妬しているように見えるのがいけないのですわ」
 メルヴィンにぎろりと仮面越しに睨まれても、アゼルは涼しい態度で見返している。
「政治的に利用価値があり、有能な人間を囲いたいのなら、わたくしなどいかが?」
 クロムは思わず変な声を出しそうになって、必死に飲み込んだ。アゼルは男だ。バレたらどうするのだ。
「せめて好みは選ばせていただこう」
「あら、ざぁんねん」
 アゼルが詰め物でぱんぱんになった胸を揺らしたので、クロムはせっかく堪えたのに肩が震え、おかしな息が漏れるのを止められなかった。幸い、会場で演奏されている音楽に紛れて二人には聞こえなかったようだが、緊張している時にふざけたことをしないでもらいたいと思う。万が一にも笑いが止まらなくなったらどうするのだ。
「私は中途半端なことは好かぬ。共に歩む伴侶は、身分が高かろうが低かろうが、きちんと正妻としての立場を与える。もっとも、それなりに価値のある者でなければならないが」
「それでご自身はお相手に恵まれませんのね」
「釣り合いのとれた相手でなければ、長続きなど望めぬのでな」
 不意にメルヴィンに手を取られ、クロムはぽかんと見上げる形になった。
「へ・・・・・・?」
「お・・・・・・ちょっと!どちらの方が不躾かしら!?」
 クロムとメルヴィンの間にアゼルが割って入ろうとするが、ドレスのボリュームのせいで位置が悪く、メルヴィンの腕にはじかれてしまった。
「私ならば、いつまでも身を固めずに諸国を連れまわすなど、危険なことをさせないが?」
「えっ!?あっ・・・・・・!?」
 思わず声が裏返ったクロムは、アゼルが止める間もなく、パニックになった頭のまま本当のことを言ってしまった。
「お、おれ、男です・・・・・・けど」
「え?」
 片言のジェメリ語でも通じたのか、メルヴィンが固まる。
「・・・・・・ほう」
「あっ」
 力任せに仮面を剥ぎ取られ、クロムは慌てて顔を覆った。
「なるほど。ユーインが頑なに見合いから逃げ回っているのは、男にしか興味がないからか。愛人に何人男を囲おうとも、政略婚ぐらいしてみせれば、本国にも義理がたとうものを」
「し、失礼なことを言わないでください!あれでもユーインは分別ある人ですし、ユーインの邪魔になるようなことがあれば、俺は国に帰ります!」
「ああ、別に貴方を責めているわけではありません。むしろ、ユーインなんかについて歩くよりも、アネッロに留まって私の部下にご招待したい。有能かつ献身的な人間は、どこでも不足している・・・・・・。けっして、不遇な扱いにはいたしません」
 メルヴィンに握られたままだった手を引っ張られ、クロムは思わず強く振り払った。
「俺はただの衛生兵で、貴方の望む力は持っていません。それに、妻になる人を道具のように思っていらっしゃる貴方より、俺を大事にしてくれるユーインの方が、何倍も好ましいです!!」
 クロムは赤くなった顔のまま、その場から逃げだした。
 華やかな音楽に交じってアゼルの声が聞こえた気がしたが、巨大な帽子を支えるためのスカーフが遠ざけてしまった。
(耳痛い・・・・・・)
 メルヴィンに仮面を取られた時に、紐に擦られた耳がひりひりと痛かった。幸いなことに、綺麗でも高さの無い靴だったので、コルセットの息苦しさと、長くて膨らんだスカートの捌きさえなんとかなれば、早足で歩く程度には人混みも進めた。
(ユーインが嫌ってたの、ちょっとわかるな・・・・・・)
 確かにメルヴィンは有能そうだった。家柄だけに頼らず、地位にふさわしい能力を持っているのだろう。自分と同じ価値観の、有能な人間には優しいのだろう。
(・・・・・・でも、俺はそうじゃない)
 クロムはただの、しがない元衛生兵だ。たまたま、ユーインに見初められてついて行っているだけで、上流階級の作法などわからない。
(それだけじゃない)
 母国の共通語であるエクラ語が、わりとどこの国でも、なんとなく通じるだけで、ユーインのように各地の言葉を話せるわけではない。各地の地理や情勢など、ユーインに解説してもらっているから理解しているだけで、政治のことなんてさっぱりだ。
 長年王族に仕えて場に相応しい礼儀作法を駆使し、政治がわからないのではなく関わらないと宣言をし、生粋のベリョーザ人であるアゼルにもきちんと通じるベリョーザ語を会得したイグナーツとは、根本的に違う。
(俺は・・・・・・ユーインの国の言葉すら・・・・・・!)
 情けなさに目が熱くなりなり、クロムは慌てて上を向いた。
(あ・・・・・・あれ?)
 気が付けば、クロムは人気のない、薄暗い回廊に立っていた。あたりを見回すと、彫刻の施された重厚な柱や、大理石の壁が連なるばかりで、燭台には火が入れられていない。
(えっと・・・・・・)
 バッツィーニ城館の出口に向かって歩いていたはずだが、この様子ではまだ城館からは出られていないのだろう。振り向いても、どこからか楽器の音や人の声はするが、見通せる限り灯りが見えない。
(迷っちゃった・・・・・・かな?)
 とはいえ、城館よりもはるかに広く、細い路地と水路が入り組んだアネッロの町で迷子になったわけではない。人の声を頼りに明るい方へ歩いて行けば、そのうち広間か出口に着くだろう。だがクロムは今少し、心を落ち着けたかった。
(・・・・・・・・・・・・)
 ぼんやりとした月明かりだけの夜闇の中、大理石の彫刻が並ぶ中庭を眺められるテラスに腰掛け、クロムはコルセットの苦しさにため息をつきながら苦笑いをこぼした。
 誰かと比べるなんて馬鹿げている。他人は他人、自分は自分だ。これまで生きてきた時間も、場所も、出会った人も、学んできたことも違う。
(わかってる・・・・・・)
 わかってはいるが、分不相応な勲章などがあるばかりに、他人はクロムを過大評価する。そして、似た境遇の人物を取り巻く動きに、自分との差を感じている。
(そうじゃない・・・・・・誰も悪くない。俺が勝手に劣等感を持ってしまって、いまの状況に対応できていないだけだ)
 劣っていたり足りなかったりするのは事実だが、と自分に言いかけ、クロムは手で目元を覆った。また誰かと比べようとしている。情けない。
「はぁ・・・・・・」
 いい加減、大きな頭飾りが重くなってきて、クロムは首を支えるように窓辺に肘をついた。
 もう少し落ち着いたらユーインの所に戻らなければ、そう思いながらグズグズしているうちに、聞きたかった声が自分を呼んでいるのが聞こえてきた。
「クロム!!」
「ユーイン・・・・・・」
 謝ろうと口を開く前に、剥ぎ取られたクロムの仮面を持って薄暗い回廊を駆けてきたユーインが、クロムをドレスごと強く抱きしめてくれた。
「よかった!ごめん・・・・・・本当に、ごめん!!」
 そうじゃない、ユーインはなにも悪くない、謝るのは勝手に逃げ出した自分の方だ。そう言いたいのに、温もりに包まれたクロムは、震えて嗚咽を漏らすばかりで、なにも言えなかった。