嵐華の春 −10−


 若干音を外したアゼルの呼ぶ声に、ユーインはしつこい叔母をラスカーに任せ、人垣をかき分けて駆けだした。
「アゼル!」
 メルヴィンと揉み合っていたアゼルが、何か白い物をメルヴィンから奪い取って、ユーインに投げてよこした。
「申し訳ない!あっち!」
 クロムがしていた仮面を両手で受け止めて、ユーインは血の気が引く思いで、アゼルが示した方へ走った。
 人混みを見晴るかし、出入り口の衛兵にも尋ね、もう一度城館の奥手へ回ったところで、薄暗い回廊で中庭を眺めるクロムを見つけた。
「よかった!ごめん・・・・・・本当に、ごめん!!」
 抱きしめた身体が震えていて、どんなに怖い思いをさせたかと胸が苦しくなった。ユーインはすぐに追いついてきたアゼルに後を頼み、クロムを抱えるようにバッツィーニ城館を後にした。
 自分たちの宿に戻って一息ついてから、何があったのかをクロムがぽつぽつ話しはじめた。ユーインの方へ向かおうとするメルヴィンをアゼルが足止めしたこと、メルヴィンがイーヴァルを揶揄したのでアゼルがやり返したこと、どういうわけかクロムに興味を持たれてしまったこと、アゼルが対処する前にクロムが男だと自分でばらしてしまったこと、その時に、仮面を無理やり取られたこと・・・・・・。
「あのやろう・・・・・・!」
 憤りを素直に表情に出すユーインに、クロムは初めて弱弱しく微笑んだ。
「ユーインが嫌っているわけが、なんとなくわかりました」
「だろ!?」
「ええ。それで・・・・・・あの、ユーインに、ひとつお願いができたんですが」
「なぁに?メルヴィンを一発殴るとか?いいよ、いいよ!」
 危ない方向にやる気なユーインに、クロムはさらに微笑んで、恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「俺に、オルキディア語を教えてください」
「へ?」
 両こぶしを握っていたユーインは、意外なお願いに首をかしげた。
「何か不自由?俺のエクラ語おかしい?」
「いいえ、そうじゃないです。俺が、ユーインの国の言葉で、ユーインと喋りたいんです。・・・・・・ダメですか?」
 頬を赤らめて見上げてくるクロムに、ユーインはふるふると首を振り、この夜で一番だらしない笑顔をした。
「まーかせて。いくらでも教えちゃうよ!」
 ドレスを脱ぎ、コルセットを外して身軽になったクロムを、ユーインはぼすんとベッドに押し倒した。
「いたっ・・・・・・!」
「ごめん。どうし・・・・・・あぁ、赤くなってる」
 擦れた耳が触れて痛がったクロムを、ユーインはまるで怪我をした小動物を看護するような眼差しで抱きしめた。
「ごめんね。俺が、もっとしっかりしてたらよかったのに」
「ユーインのせいじゃありません。それより、これからどうします?カーニバルが終わったら、すぐに発つのでしょう?」
 クロムの両腕が、薄着になったユーインの背に回されて、二人でベッドの上を転がる。
「そうしたいなーと俺は思っていたんだけど・・・・・・クロムは、ここが気に入っているんだろ?」
「確かにアネッロは好きですが、ユーインの『厄介事』が、俺にも興味を持つようになってしまいましたから」
「うーん・・・・・・」
 しばらく抱き合ったままごろごろしていると、緊張した疲れからか、クロムから静かな寝息が聞こえてくるようになった。
「・・・・・・・・・・・・」
 ユーインはクロムの前髪をそっと撫で上げて、白い額に唇を押し当てた。
 この町はユーインに似ている、そうクロムが言っていたように、アネッロは華やかではあるが、厄介事を惹きつけてやまないらしい。ユーインはクロムの喜ぶ顔が見たいが、それ以上に悲しむ顔を見たくない。
 ユーインはポケットに入れてあった髪飾りを取り出し、その素朴なきらめきを眺めた。平凡だが安全な生活を捨ててまで付いてきてくれたクロムの幸せを、ユーインはなによりも優先して考えたい。
(・・・・・・そうだ)
 ユーインはとっておきの場所を思い出し、にんまりと微笑んだ。あそこなら、ゆっくりとクロムがオルキディア語を学べるだろう。
「愛してるよ、クロム」
 ユーインはもう一度クロムの額に口付け、柔らかな温もりをそっと抱きしめた。


 クロムとユーインがイグナーツに充てた友人らしい手紙と、イーヴァルに充てた「褒賞のお礼」と「メルヴィンは虐めていい」という手紙とを、ベリョーザ大使館に持ち込むと、恐縮するラスカーと狂喜乱舞するアゼルに、両手で握手を求められた。
「ありがとう!本当にありがとうございます!!お二人は俺の最大の恩人です!!いつか、出世して、必ずご恩返ししますんで!!」
「これ、アゼル・・・・・・」
「ははは・・・・・・。あー、張り切り過ぎて、皇帝陛下に気に入られないようにな」
 皇帝に嫌われても気に入られすぎても虐められるので、ベリョーザ帝国の国民は大変なのだ。
「パーティーの時は、護衛しきれないですみませんでした。あんなに大口叩いたのに」
「そんなことないよ、アゼル。俺こそ、勝手なことして、申し訳なかったです」
 結局、アゼルもメルヴィンに女装がばれたらしい。アゼル自身はもっと後でばらして馬鹿にするつもりだったようだが、その場でも十分おちょくれて楽しかったと笑う。
「ラスカー殿、世話になった。おかげで、ずいぶん楽だったよ」
「それは光栄の極み」
 あの手この手の巧みな話術でマダムを相手取ったラスカーが、いつもの笑顔に、少し誇らしげな色を浮かべている。実際、ユーインは大勢の政治家や外交官と話をするのは巧みでも、ユーインを「小賢しいが有益な子供」扱いする大上段な態度の叔母の相手は苦手だ。
「このあとは、どちらに行かれるのです?」
「む?俺の動向を本国に報せるのかな?」
「これは手厳しい」
 困ったように笑うラスカーに、ユーインは快活に寛容に、少しだけ行き先を教えてあげた。
「オルキディア王国領の島だよ。暖かいし、のんびりした所だ。特別用事がなければ、そこでしばらく過ごすことにする」
「住みやすそうなお所なのですな」
 優しげに微笑むラスカーにうなずき、ユーインはあらためて、これからもアネッロで仕事をする彼らを巻き込んだことに、謝罪と感謝を表した。
「なんの。我々の力が必要な時は、いつでもお呼び下さい」
「黄金羊のことも、アルカ公のボンボンのことも、任せといてください」
 頼もしい言葉に見送られ、ユーインとクロムはベリョーザ大使館を後にした。
「本当ですか、さっきの話?」
「なにが?」
 うららかな日差しの下、水路をゆっくりと回遊するひさし付きのゴンドラに乗った二人は、いつもより低い位置からアネッロを眺めていた。水路の端に並んだ花壇に、様々な色のチューリップやパンジーが咲いている。
「行き先の話です。・・・・・・ユーインは、オルキディアに戻るの嫌がっていたじゃないですか。だから、ベリョーザにはウソを教えたのかと」
「ああ」
 ユーインは笑って、クロムの困惑を取り除いてあげた。
「本当のことだよ。内海を抜けたさらに西に、島があるんだ。大陸からはそんなに離れていないけど、波や潮があって魚が旨いし、海の別荘地って感じかな」
「そうなんですか」
「まあ、兄貴たちには知られないように、こっそりと行くさ。交易船も頻繁に立ち寄るから、行こうと思えば二、三日でコリーンヌリーブルにも着くしね」
 ゴンドラが石橋をくぐり、船頭が身をかがめる。抜けた先では穏やかな日差しが降り注ぎ、水面がキラキラと光る。
「そろそろカーニバルも終わりだな」
「とても楽しかったです。ありがとう、ユーイン」
「そう?よかった」
 狭いゴンドラの中でクロムは抱き寄せられ、その頬にユーインの唇を感じた。
「ユーイン」
 クロムの唇が頬に触れ、ユーインが固まる。
「お返しです」
「俺、幸せだなぁ〜!」
 恥ずかしげなクロムを、ユーインはさらに抱きしめた。
 狭い道と水路が入り組むアネッロの町の空は、ゴンドラから見上げると余計に細長く、出口のない迷路のような、連綿と続く複雑な歴史を感じるだろう。ただ、色とりどりの花が舞うこの季節のアネッロの空は、どこまでも高く、穏やかだった。