嵐華の春 −6−


「・・・・・・っていうことがあってさ」
 在ジェメリ国ベリョーザ大使館員アゼルは、ユーインとクロムの前で、そう朗らかに笑った。
 ベリョーザ大使館の来客用ダイニングでは、ユーインとクロム、そして夜明け前の空色の髪をした若いアゼル外務官と、すでに十年近くをアネッロで暮らす壮年のラスカー外務官が、ディナーが並べられた白いテーブルを囲んでいた。
「げ、元気そうで、なによりだ・・・・・・」
「はははっ、帝都までも困難だったでしょうが、帝都に着いてからも無事とは限りませんからなぁ」
 ひきつった笑顔を浮かべるユーインと赤面しているクロムに、ラスカーも快活にとんでもないことを言う。
 ベリョーザ大使館とはいえ、ベリョーザの食材が簡単に入手できるわけでもない。必然的に、ジェメリ料理のベリョーザ風にはなるが、美味さが損なわれるということはない。特にアネッロは海に面していることもあり、新鮮な魚介類が豊富で、食欲をそそる種子油や香草をふんだんに使ったグリルや煮込みが、目にも鼻にも舌にも鮮やかで楽しい。
 ユーインたちが招かれた食事の席は、明るく快活で、料理も美味かったが、その背後にいる巨大な人物の影が見え隠れするたびに、思わず手が止まりがちになる。覚悟をしてきたつもりであっても、苦手意識というのはどうしても拭えないし、またそこまでの心理的影響力を持たせるイーヴァルが、偉大な皇帝なのだといえなくもない。
「無事で元気はいいけど、あれだけ不透明じゃ、うちのボスがちょっかい出したくなって当たり前だよね」
「最も気を遣う案件を、あっさり陛下に直接交渉できる度胸は、キリル局長ならではでしょうな」
 肩をすくめるアゼルと苦笑いを浮かべるラスカーに、ユーインとクロムは顔を見合わせた。
 イグナーツからのメッセージは受け取ったものの、アゼルの口ぶりにはなにやら別の背景がありそうだ。
「不透明、とはどういう事だろうか?」
 ユーインがたずねると、アゼルは泣きぼくろのある柔和なたれ目でニヤリと微笑んで見せた。
「ほとんど幽閉に近いって事ですよ。黄金羊がラズーリト宮殿の一角から出てきて、我々の目に触れる事はほとんどありません。あの会談は、本当に稀なことと言っていい・・・・・・。宮内局によれば、彼が出歩けるのは、陛下の私室エリアと中庭ぐらいだそうです。まあ、そもそも自分から出歩いたりしない人物みたいですけど。彼から要望があれば陛下が連れ出すし、年末には新婚旅行にも行ったし・・・・・・。そういえば、もう皇太子殿下との面通りも済んだらしいですよ、ラスカーさん」
「ほう、早いな」
 幽閉という単語にクロムの表情が曇ったが、アゼルの説明ではどうも単純なものではないらしい。そもそも、皇帝の私室エリアがどの程度の広さなのか、クロムの想像以上であることは間違いないだろう。
 しかしそれよりも、クロムは自分の知識との食い違いに首をかしげた。
「皇太子殿下?イーヴァル陛下は、ご結婚されていたのですか?」
「いえ、陛下は独り身でいらっしゃいますよ。ホムラ皇太子殿下は、陛下の姉君の子で、陛下の甥にあたります」
「ああ」
 ラスカーの回答にクロムは頷いた。十五年もイグナーツを待っていたイーヴァルは、女を娶る気などないのだろう。クロムを伴侶とするユーインも同じだ。
「まあ、彼を皇妃にはできないだろう」
「その通りです。しいて言えば、寵姫、愛人、という位置にはなるんでしょうけど、行事や交流など公の場には一切出てきません。そもそも公式な存在が希薄なうえに、陛下も彼を喋るペットか生きた玩具扱いしているようにしか見えないし・・・・・・。陛下は他人が黄金羊に関わるのを、極端に嫌がるみたいなんですよね。だから、極力黄金羊の存在を表に出さない。それを黄金羊が不満に思ってなさそうなところが、俺も不思議なんですがねえ」
「陛下なりに、大事にしておられるのだろうよ。閉じ込めておきたいと思われるぐらい、よいではないか。死人も出ないことだし」
 理解できないと、苦笑いで首を横に振るアゼルに、ラスカーは真顔で怖いことを言う。
「これまでのラズーリトがうかがえるような発言だな」
「ええ、そりゃあもう」
 思わず顔が引きつるユーインたちに、何度もラスカーが頷いて見せた。
「陛下はご幼少時より、表面上常に冷静で理性的に見えますが、その実大変気性の荒い方であらせられました。冷酷だの残忍だの、よく言われておりますが、当方としては否定いたしません。ただ、臣下の身を顧みず申し上げれば、このほどようやく心の平穏を手に入れられたのではないかと愚考致します。誠に慶賀。祖国ベリョーザと、ご助力いただいたユーイン殿下たちに幸多かれ」
 グラスを掲げるラスカーにアゼルが倣い、ユーインとクロムも顔を見合わせて、小さくグラスを掲げた。あの“レイヴン”“漆黒帝”イーヴァルが、伴侶を得て性格が丸くなり、国際的にも大人しくなるのなら、ユーインにとっても喜ばしいことなのだ。たぶん。
「そこで、貴方がたが当方の招待に応じていただいた理由の一つが、ここにも問題になるのですよ」
「理由のひとつ?」
「おや、違いましたか?ベリョーザ帝国の外交政策転換の件ですが」
 ユーインに向かってにこにこと微笑むラスカーは、笑顔で重大なことを言いだすのが得意らしい。ユーインも表情をあらためた。
「それは確かに気になっていたことだ。今までの強気一辺倒な政策からの転換は、まったく不自然すぎる」
「そうでしょう。私どももそう思います」
 ラスカーの力強い首肯に、ユーインとクロムはぽかんとなった。
 イーヴァルの方針はこうだ。まずは戦線を縮小する。その後、各周辺国との対話や支援、教育の充実などにより、包括的な文化融和を目指す。そしていずれは、国を丸ごと同化させる。戦争ではなく、経済と文化で飲み込んでしまえということだ。
「陛下の説明は、至極筋道が通っていらっしゃるのです。対立の主な原因は、民族、文化、経済の差なのですから、根本から見直すのは良いと思います。ただなにぶん、いままでそんなことは一言もなかったので・・・・・・黄金羊がラズーリトに来るまでは」
 ラスカーの言いたいことが、ユーインにはすぐに理解できた。イーヴァルの政策転換が、彼の臣下たちにはイグナーツの差し金と思われたのだ。
 最近までエクラで生活し、現在は主君とも離れ、イーヴァル以外に寄る辺ないイグナーツが、そんなことをするだろうか、する必要があるのだろうかとユーインが疑問を口に出しかけたが、その前にアゼルが答えを言った。
「彼はベリョーザに来て、最初に陛下に謁見した時に、居合わせた閣僚たちに言ったそうですよ。『ベリョーザ帝国に口出しするつもりはない』って。・・・・・・それでも、あの陛下があそこまで“優しく”なったのは異常だと、キリル局長でなくたって思いますよ。ま、結局のところ、本当に何もなかったんですけどね」
 キリルはユーインたちへのメッセージを預かるという名目でイグナーツを出させ、カマをかけてはみたのだが、全くの空振りだったというわけだ。それは自分の死期が早まったことを感じずにはいられないだろう。
「現在、黄金羊の情報をライヴで入手できるのは、生活圏を担っている宮内局と、友人兼護衛を出している機密局と、専属の医師を出している軍務局だけ。黄金羊の身辺に局員を配置できていない外務局としては、激変する対外政策の原因情報が得られないと思いこんだんだな。うちのボスも焦って下手をうつとは、さすがに歳だな」
「これ、アゼル」
 喋り過ぎるアゼルをラスカーがたしなめたが、アゼルは余計に笑みを深くして、ラスカーに流し目を送った。
「ここはぜひ、ユーイン殿下とクロム殿からのメッセージをお預かりして、本国に届けなければならないと思われないか?」
「アゼルよ、外務局の株を上げるついでに、自分が出世したらいいなとか、そんな都合のいいことを考えているのではないか。恥をさらすな。まったく、不敬な者で申し訳ない」
 謝るラスカーに、ユーインは朗らかに手を振った。
「いやいや、構わない。たいてい俺も似たような程度には横着なんで。彼への手紙をしたためてもいいよ」
 その代り、とユーインは笑顔で続けた。
「俺の個人的な厄介事を、ちょーっと手伝って欲しいんだ」
 ユーインが苦手な叔母と従兄弟の件を伝えると、ラスカーとアゼルは二つ返事で請け負ってくれた。
「アルカ公爵夫人?存じ上げておりますとも。マルツィノ枢機卿の奥方でございましょう。舞踏会にはよく見えられるようですよ」
「カーニバル期間中に、バッツィーニ城館でパーティーがあります。べリオ首相をはじめ、ジェメリのお偉いさんが大勢出席するし、各国の大使も集まる。そうでしょ、ラスカーさん?」
「うむ。あそこなら確実だな」
「よっし、準備は任せてくれ」
 アゼルは胸を叩いて、大いに張り切っている。
「今年のカーニバルは、いつも以上に楽しくなりそうですなあ」
 ジェメリワインのグラスを手に、ラスカーがにこにこと微笑み、ユーインもグラスを掲げた。
 ここに、昇進と面倒事回避を賭けた、密かな同盟が成立した。