嵐華の春 −5−
すでに予定時刻から遅れていたが、急ごうにも体がいうことを聞かないのだ。それが見てわかるほど、青い顔をして足を引きずりながら、抱きかかえられるように入室してきた青年は、疲れ切っていた。
「大丈夫かね?」 「ぅ・・・・・・ぜん、ぜん・・・・・・」 肘掛けのついた椅子にクッションが詰められ、そこにそうっと腰を下ろした青年は、外務局長キリルの問いにぐったりと答えた。 そのままではテーブルに突っ伏して寝そうな彼の前に、シナモンスティックを添えたミルクティーと、ジャムを乗せたクッキーが置かれた。他の出席者の前には、コーヒーがあるだけだ。 両手でティーカップを包み、温かな甘みを体内に取り込むと、香辛料の刺激もあって、ようやく青年の目に光が戻ってきた。 「ぁ・・・・・・すみません、遅くなってしまって。お待たせしました」 座ったまま、ぺこりと下げられた頭は、青みを帯びた銀色の髪に包まれている。青白い頬はやつれてはいないが、金色の目の下にはクマができていて、瞼やそのまわりは少々むくんでいた。 柔らかなシャツと毛織のズボンは、かろうじて寝間着ではない部屋着であり、誰かと会うための外出着ではない。綿を詰めた厚手の上着は、確実に高価な品だが、はいている靴は硬いものではなく室内用だ。くつろげた襟元には、やや幅の広い黒革のチョーカーが見える。 彼の後ろには、彼を支えて歩いてきた軍務局出身の青年医師と、機密局出身のメイド兼護衛女官が並んで立つ。さらに青年が座った椅子の足元に、大きな獣が寄り添うように座った。白い毛並みに見事な斑点模様をした、美しい雌の雪豹だ。 広大なラズーリト宮殿の一角、豪奢とは言わないが十分に装飾の施された、この小さな会議室にて、彼ら三人と一匹は、ベリョーザ皇帝イーヴァルの私室エリアに出入りできる稀有な住人であり、その他居合わせている十数名は、宮殿の奥向きにはあまり縁のない外務局の人間だった。 「無理しちゃいかんよ、イグナーツ殿。体調が悪かったら、他の日にずらしてもよかったんだよ?」 「いや、無駄ですよ。また同じ目にあうから」 老齢でありながらも精力的なキリルが心配そうに眉をひそめたが、体調不良の青年イグナーツは、苦笑いで手を振った。 「ヤキモチぐらい、素直に口で言えばいいのにさ」 「それは・・・・・・悪いことをしたかな」 「いいんですよ。エクラ駐在大使館には長いことお世話になったし、俺も伝えてもらいたかったから」 今回の集まりを提案したのはキリルであり、皇帝イーヴァルはあまり良い顔はしなかった。だがイグナーツが望んだので、渋々了承したのだ。 会議室のテーブルには、キリルの部下である外務局員、それも近々帝都を離れる予定になっている局員たちが着席していた。若輩は二十代、年かさな者でも四十にはなるまいという、若々しい顔ぶれだ。 彼らの一人一人からの注視に応えるよう、ゆっくりと一同を眺め回し、イグナーツは穏やかに切り出した。 「お初にお目にかかる。俺が黄金羊と呼ばれている、イグナーツだ。・・・・・・諸兄にはお時間を取らせ、また遅刻してきたこと、改めてお詫びする」 ベリョーザの外務官僚たちは、揃って会釈を返した。彼らは黄金羊という人物が、長年母国とエクラ王国とを繋ぐ需要な外交カードであり続けたこと、そして昨年末からは、皇妃に匹敵する敬意を払われながらも、その存在が公に表れることはない位置に納まったことも知っていた。 「彼らが、今度各国に派遣されることになっている新たな外務局員です。東はジン国、北は五カ国連合、南はエストレリャ国やソンスウ国、西はオルキディア王国まで、およそ我が国の大使館のある文明国すべてに、彼らが赴任していきます。・・・・・・おそらく、今回限りとなるでしょうが、我々としてはその機会を逃したくはありませんでな」 外務局長キリルの説明に、イグナーツは頷き、そして小さく微笑んだ。 「イーヴァが手ぐすね引いて待っているんだ。あの方たちは、とうぶんベリョーザに近寄らないだろうからね。みんなには、よくお願いしたいんだ」 北大陸の西側諸国の外交官なら、どの国の誰でも知っていることがある。 「オルキディアのユーイン王子と、彼と行動を共にしている恋人のクロム殿に会ったなら、伝えてほしい。イグナーツは無事に辿り着き、幸せに過ごしている。貴方たちのおかげであり、感謝は尽きない。貴方がたの旅路に幸多かれ、と」 イグナーツがエクラ王国を出奔するにあたり、風来王子と名の知れたユーインと、その妹姫ロゼの助力を得ていた。 ロゼの所在はコリーンヌリーブルからあまり動かないが、ユーインに限っては、次にどこに現れるかわからない。ほぼ彼の気まぐれで行き先が変わるし、目的地での滞在期間も、半日から数カ月と幅が広い。 「無理に探し出して、迷惑をかけてはいけない。ただ、もし会える機会があったならば、イグナーツがそう言っていたと、伝えてほしいんだ」 イグナーツは、ユーインと、彼とともにいるはずのクロムの容姿を詳細に語った。 「ユーイン王子を敬うのは誰でもわかる。だけど、クロムのことも、同じように気を配ってほしい。・・・・・・彼のおかげで、俺はここに来る覚悟が決まったんだから」 クロムに失礼を働くと、恋人のユーインが怒るよ、とも釘をさす。 「俺からは以上だ。あとにも先にも、こうして俺が直接言えるのは、今回限りだろう。みんなの赴任先にも、よろしくお伝え頂きたい」 局員たちが了承の意を次々に表し、イグナーツがホッとしたように頷く。 「それにしても、外務局員が派遣される国が思っていたより多くて、ちょっと驚いたな」 「国としての形を為していないものの、重要な地域というのも多いのですよ。我が国は広い国土を持つと同時に、長い国境が多くの国と接していますからな。ここにいるうちの何名かは、文明国とは言い難い地域や、紛争が頻発する国の近くにも赴任するのですよ」 「そんな危険な所へ?」 イグナーツの驚きに、キリルが続ける。 「はい。まあそんな場所でも、あのユーイン王子がひょっこり現れる可能性も、ゼロではありません」 「グルナディエ公国の野戦病院にいたこともあるって言っていたからなぁ・・・・・・」 「王族としては型破りな行動力ですな」 イグナーツはキリルに同意を示しつつ、テーブルを囲む局員たちをもう一度眺め渡した。 「そうか、たしかにベリョーザは、いくつも国境が接しているな。各地で価値観も事情も違うだろうし・・・・・・みんな、とにかく自分の命を大事に。道中も赴任先でも、気をつけてな」 ごく真顔で労りの言葉をかけたイグナーツに、外務局員たちは謝意を表してはいたが、半数ほどは、隠しれない何処か戸惑ったような色を浮かべていた。 「ッ・・・・・・!!」 その局員たちが一斉に立ち上がって最敬礼したが、イグナーツは意に介さず、小さなクッキーを口に運び、ティーカップから紅茶をすすった。 「終わったか?」 「ん」 イグナーツ付きの女官が恭しく開けたドアから、高貴と威厳を纏った長身が、イグナーツの椅子の所まで入ってきた。しっかりと目の詰まった厚手の上着には金糸で刺繍が施され、豊かな黒髪を背に、その紫の目は冷ややかだ。 「キリル、気は済んだか」 「はっ・・・・・・」 現在のベリョーザ皇帝の声は低く艶があるのだが、その響きは凍てつくベリョーザの地吹雪よりも、人々の表情と背をこわばらせる。 「イーヴァ、あんまり怖がらせるなよ。俺はなにもされてない」 イグナーツは背後に立つ青年医師に頼んで椅子を引かせると、両手をイーヴァルに向かって差し出した。 「ん。連れてけ」 「・・・・・・」 「ここまで来るの大変だったんだぞ」 「またベッドに降ろされたいか」 「俺のベッドに降ろせ。あんたのベッドに降ろされたら・・・・・・また顔に青痣作ってやるぞ」 イグナーツが本気で剣呑な表情を見せたからか、イーヴァルはひとつため息をついて、イグナーツを抱き抱え上げた。 「まったく、予のペットはわがままだな」 「ふん、独占欲が子供並みのイーヴァが言うな。他の奴に運ばせたら、あんた怒るだろうが」 「無論だ。いっそのこと、予の目が届かぬ所へ行かないよう、両脚に穴を開けて鎖で繋ぐか」 「はいはい、好きにしろ。そんなことして、いちいち俺を運ばなきゃいけなくなって困るのはイーヴァだろーが。俺は逃げねーし、あんたのものを盗ろうなんて馬鹿はいねーよ」 イグナーツはイーヴァルの肩にしがみつきながら、片手を振って外務局員たちをねぎらった。 「キリル外務局長も、みんなも、ありがと。仕事頑張ってな〜」 イグナーツを抱きかかえたイーヴァルが無言で退出し、青年医師と白い雌豹が続き、最後に女官が扉を閉めた。扉の向こうから、数日ぶりにイーヴァルと一緒に昼食を取れると喜ぶイグナーツの声が、遠く聞こえた。 それを低頭したまま見送った一同であったが、キリルの呟きに、一同はいっそう粛然と姿勢を正すのだった。 「僕、来期どころか、来月生きてるかなぁ」 それが冗談に聞こえないのが、ベリョーザ帝国なのだ。 |