PHANTOM CHAIN−2−


 ベッドの端に腰掛けたまま、ハロルドはひどく落ち込んでいた。
(やっちゃった・・・)
 スプリングで跳ね返してもらっていなかったら、そのまま地面の下まで沈みこんでしまいそうな気分だ。
 ハロルドはただ、もっとサカキに独占してもらいたいだけだ。もっと執着して、もっと赤裸々に感情をぶつけてもらいたかった。
 でも、サカキが求めているのは、分別ある大人同士での付き合いだ。どちらかがどちらかに、意図的に依存する関係は望んでいない。
 ハロルドが自分から引き離され、拗ねて抱きついてくるなどという態度は、普段のサカキからしてみれば、大サービスには違いない。だが、それを都合よく取り違えたハロルドは、デッドラインを超えてしまったようだ。
「はぁ・・・」
 ハロルドは狼の頭を脱ぎ、少し硬い毛皮の肌触りを腕に抱えた。
 サカキとハロルドは、隣同士ではあるが別々に住んでいる。セックスこそ互い以外は相手にせず、どちらかの部屋で一緒に寝る事が多いが、日々のスケジュールは同じではない。一緒に狩り行くことはあるが、二人ともソロができる。ハロルドは誘われて気分が乗れば、臨時にだって行くのだ。
 そんな半同棲みたいな緩い生活も楽でいいのだが、どうせなら朝から晩まで一緒にいて、ずっとサカキの世話を焼いていたい。
(サカキさんだけの俺になりたいのに・・・)
 他のものは、なにもいらない。そのぐらいハロルドはサカキが好きなのに、まるで逃げ道が用意されているかのようだ。
(でも・・・四六時中一緒じゃ、やっぱりウザいかなぁ)
 暑苦しく、しつこくされるのは、ハロルドだって嫌だ。それがわかっているからこそ、余計にいまのぬるま湯みたいな状態が続いていて、それも悪くないのだが・・・。
(欲張っちゃダメだ。サカキさんのそばにいられるだけでもいいって、そういう気持ちだったじゃんか)
 初心を忘れるなと、ハロルドは鼻息も荒く、気持ちを引き締めた。サカキの事が好きで好きで堪らないのだが、だからこそ、サカキはサカキのままでいてもらいたい。
 ハロルドごときが口を出したぐらいで、あのサカキがふらつくとは思えない。だからといって、分不相応なことや無理なことを言って、サカキを困惑させることは嫌だった。
 頭ではわかっているし、そうあろうという気持ちもあるのだが、どこか飢えた暗い欲が、腹の底の方にわだかまっている。ハロルドはそれがどうしても処理できなくて、引き締めたばかりの気持ちが、だんだんしぼんでいくような気がした。
「はぁ・・・俺こんなに面倒くさい奴だったかなぁ」
 思わず出た呟きが、いよいよ気分を落ち込ませる。ぼすんとベッドにひっくり返ったハロルドの視界に、天井のシャンデリアや、豪華なダブルベッドが置けるほどの広々とした空間が広がる。
「お金持ち・・・だな」
 自分とあまり歳の変わらないはずのユーインだが、すでに転生済みであり、そのうえ、こんなに広くて素敵な家を持っている。
(・・・ちょっとうらやましいかも)
 そうは思っても、転生すればお金持ちになれるわけでもないし、ブラックスミスがハイウィザードの行くような高レベルなダンジョンに行ったら、即蒸発である。
(俺には俺のやり方があるから、いいか)
 ハロルドは、ゆっくりでもサカキと一緒に歩くのがいいのだ。サカキのために製薬材料を集め、サカキの気晴らしに手頃なダンジョンへ行き、サカキと一緒に露店を出せるのが、とても幸せなのだ。
 ハロルドは今のところ、転生をするつもりはない。レベルは上がっているが、子供になってしまうと、色々面倒くさいし、なによりサカキを抱けない。
(でも、もうちょっと甲斐性があるといいなぁ・・・)
 なかなか難しい問題だ。サカキよりハロルドの方が冒険者としても若輩であり、当然、装備を揃えるにも金がかかるわけで、いくら商人系とはいえ、それほど豊かな懐をしているわけでもない。
 サカキに相応しい自分でありたいのだが、どこから手をつければいいのかわからなくなり、ごちゃごちゃし始めた頭をじれったく思う。
 自分の頭がよくない自覚はある。一度整理しようと、ため息をついて、頭の中を空っぽにした。五感に感じるのは、肌触りのよいシーツと、柔らかな色調の天井と、浴室から聞こえるかすかな水音と・・・
「そういえば、海が見えるんだった」
 夜の海を眺めれば、少しは頭が冷えるかもしれない。ハロルドはバルコニーへ続く、大きな窓を開けた。
 幾分冷たい秋の海風に乗って、重厚な潮騒が聞こえてくる。暗く沈んだ海岸線と、月の光を受けてちらちらと光る波を眺めて、手摺にもたれた。
「・・・?」
 波の音に混じって、どこからか人の声がした。すぐ下は海だし、建物のこちら側からでは、庭や通りは見えない。
「・・・ぁ・・・っ!・・・ユーぃ・・・!・・・ぃ、ぁあっ!!」
 その激しくも艶めいた声は、海や表通りからではなく、上から・・・つまり、二階から聞こえてきた。
「・・・ぃんっ!・・・ぁだ・・・ぃああっ!・・・」
 聞き間違えようも無く、クロムの喘ぎ声だ。
(っだあああああああああ!!!俺の馬鹿ぁああああ!!!)
 急いで窓を閉めようにも、手足が震えて音を立ててしまいそうだ。
「ハロ?」
「はひぃいいっ!!??」
 今度は背後から聞こえたサカキの声にびっくりして、ハロルドは裏返った声で返事をしつつ、できるだけそっと窓を閉めた。・・・指を挟まなかったのが奇跡だ。
「どうした?」
「い、いえっ!なんでも!その、不可抗力って言うか・・・じゃなくてっ!ぉ、俺も風呂いってきますっ!!」
 自分でも明らかに怪しいと思える調子で言い訳しつつ、ハロルドはバスルームに駆け込んだ。
(なんで窓開けたまましているんだよぉっ!!)
 ここの住人は彼等なので、どうやってしていようが彼らの勝手なのだが・・・。
(くくくくろむさんの・・・え、えっちな声・・・聞いちゃったよぉ・・・)
 さっきまで悩んでいたことなど吹っ飛んだように、ハロルドは新たなハプニングに赤面して頭を抱えた。明日は、クロムの顔をまともに見られそうもない・・・。

 ハロルドの呆然とした顔が見えたのは、少し体をひねって、上の方を見上げていたからだ。固まっているらしいハロルドに声をかけると、わかりやすく動揺した反応で、サカキが出てきたばかりのバスルームに駆け込んでいった。
「・・・なんだ?」
 なんとなく予想は付いたが、サカキはハロルドが閉めた窓を開けた。
「・・・なにやってんだ、あいつらは」
 はぁとため息をつき、サカキはしばしバルコニーの手摺にもたれて耳を澄ませた。なにやら、夏の花火大会で野外セックスを見られていたのを思い出させる・・・。
 窓を開けたままにして、一階にいるサカキたちにも最中の恥ずかしい声が聞こえるようにしているのは、ユーインの仕業とみて間違いないだろう。・・・血気盛んな煽りに、サカキも苦笑するしかない。
(それにしても・・・)
 クロムの半分悲鳴のような声に、サカキはわずかに眉をひそめた。ずいぶん激しそうだが、大丈夫だろうか。
(・・・もしかして、いつもこんな調子なのか?)
 そう考えると、一気に悲哀の波が胸に押し寄せた。一応艶めいた声音ではあるので、快感のあるセックスをしているには違いないのだろうが・・・サカキはひとつため息をついて、人様の情事に差し出がましいことをしないよう自戒し、耳を塞ぐように窓を閉め、きちんと鍵をかけてカーテンを引いた。
(ユーインを選んだのはお前だ、クロム)
 若いってすげぇなぁなどと、年寄り臭いことを考えつつ、サカキは広いダブルベッドにもぐりこんだ。