リュン01
夏の子守唄


 昼間の熱が閉じ込められた蒸し暑い空気が、港町アルベルタを覆っていた。
 重く垂れ込めた雲が、星も月も覆い隠し、波止場に近い宿屋の客室に、密かに忍び込んだ影を、誰も見咎めることはなかった。

 どこからか、もの哀しげな旋律が聞こえてきたが、リュンの気にはとまらない。どうせ、一儲けした豪商たちの宴会に呼ばれた余興に違いなく、闇に生きるリュンには、まったく関わりのない世界だ。
 この客室が目標の宿泊している部屋だと確認すると、リュンは、寝台まで一足飛びで近づける距離にある、ワードローブの影に立った。

 リュンは、アサシンギルドから言われたとおりに目標を屠るつもりだが、己の内に、なにやらざわついたものを感じていた。
 目標は、少々名の通った商人。商売の腕ではなく、悪名の方ではあったが。リュンですら噂を聞いたことがあるくらいだから、それは恨む人間も多かろう。
 良かれ悪しかれ、知名のある人間を手にかけることに、気持ちが高ぶっているのだろうか。
 リュンはひとつ深呼吸して、部屋の外に気を配った。大きな話し声が近づいてくる。
 神経を研ぎ澄まし、完全に気配を消す。そこに刃物を持った人間がいることなど、例えワードローブの前に立ったとしても、気づけるものではないだろう・・・。

 客室の扉が開いて、燭台の明かりと共に、小太りの中年男が入ってくる。
「では、お休みなさいませ」
「うむ」
 わずかな光に照らされたその顔が、大口蛙のような似顔絵にそっくりで、リュンはなかば感心しながら、心の中で肩をすくめた。
 護衛らしき男が扉を閉めると、リュンが請け負った抹殺対象の悪徳商人は、すぐに寝台に横になり、ごおごおと高いびきをはじめた。
 リュンは、そろりと足を踏み出した。
「サイト!」
「!?」
 魔術師たちにしか使えないはずの索敵スキルに、それまで闇に溶けていたリュンの姿があらわになる。
「なんだ、まだ子供じゃないか」
 むくりと起き上がった中年男が、にやにやと首から提げたロザリオを手繰っている。
 すぐにホロンカードの効果だと理解できたが、まさかこれほどあっさり見つかるとは思っていなかった。
「おい!」
 その大声に、扉が勢いよく開き、剣を構えた護衛が飛び込んでくる。
「恨まれている人間を殺すつもりが、自分が恨まれて殺される気分はどうだ?」
 衝撃を受け、混乱したリュンだが、必死で答えを導き出した。
 はめられた。誰に?どうして?
 その疑問が、逃げるという行動を起こすのに、わずかな遅れを生じさせた。
「・・・っ!」
 窓の傍には商人が。扉から入ってきた傭兵二人にと、半包囲され、すぐに刃が振ってくる。
「はぁっ!」
 一回、二回・・・三回までは避けられたが、壁際に追い詰められた。
 左足に焼けるような痛みを感じた次の瞬間、眉間から右頬にかけて、骨と肉を鋼が削っていくのを感じた。
「う・・・ああぁっ!!」
 どっと広がる血の匂いと、強烈な痛み、急激な息苦しさ。そして何より、絶望と悔しさが、リュンに膝を付かせた。
「せめて一瞬で死なせてやる」
 剣先が振り上がったのを、リュンはぼやけた視界で見ていた。
「ダブルストレイフィング!!」
「ぐおっ」
 鋭い音が、さらに続く。がらんと剣が落ち、リュンの目の前に、男の死体が降ってきた。
「ヒール!ヒール!!」
 傷口が急速にふさがっていき、出血で冷えた体に、温かな力がわきあがる。
「流貴っ!・・・きさま、何をする!!」
「恨みを買った人間の顔なんて、その蛙頭じゃ覚えていないだろうな」
 弓を構えた男の顔は、リュンからは逆光でよく見えない。しかし、長い銀髪を結い上げ、刺繍の縁取りが入った、柔らかそうなマントを着ているのはわかった。
「楽士ごときが・・・裏切りおって!」
「人聞きの悪いことを言うな。俺はお前の仲間になっていた覚えはない」
 ハリのある、清清しい声音が、リュンに檄を飛ばした。
「しっかりしろ、仕事人!」
 ヒュウと風を切る矢が、護衛に飛ぶのを尻目に、リュンは痛めた脚に力を込めた。
 リュンを勇気付けるように、軽やかな口笛が楽音に乗る。
「ヒイッ!メ、メマーナイトッ!!」
 短剣を振り回していた商人が、重そうな財布から大量の硬貨を投げつけるが、リュンは自分でも驚くほど、易々とそれをかわした。
「ソニックブロー!!」
 肉と骨を絶つ手ごたえは、いつもどおり。
 重い音を立てて、胴から離れて転がる首には目もくれず、リュンは両手で剣を振り上げた護衛の背に、突進した。斬りつけるような時間はない。
「バッ・・・シュ!」
 厚い胸を貫き通したカタールを引き抜いて、やっと騎士崩れらしい護衛は、振り下ろした剣ともども、床に沈んだ。
 口笛も、楽器を爪弾く音も、聞こえない。
「おい、あんた・・・!」
 抱き起こすと、胴着の胸元がべったりと血に汚れていた。長い銀色の睫が震え、深紅の瞳が潤んだ姿を見せた。
「やった・・・な?」
 その視線が、恨めしげに虚空をにらんでいる生首に向けられているのを見て、リュンはうなずいた。
「あんたのおかげだ」
「あ、にき・・・の・・・、かたき、だ・・・」
 口から溢れ出す血にむせながら、若い吟遊詩人は、リュンに微笑んだ。
「一人じゃ・・・むり、だった。・・・あり、がと・・・」
 満足気に瞼が降りていき、力の抜けた肩が、リュンの腕からずり落ちそうになる。
「は、やく・・・い、け・・・。ひと・・・く、るぞ・・・」
 わかっている。
 だが、リュンにも、もう帰る場所がなかった。
 誰が自分を罠にはめたのか・・・それがわかるまでは、アサシンギルドにさえ、近寄るのは危険だ。
 せめて・・・。
 リュンは、先輩のアサシンクロスからもらった「お守り」に手を伸ばした。しまい込んでいて、自分が危機に陥った時にも、使うのを失念していた代物だ。
 いまやリュンの命の恩人は、半分閉じたうつろな視線のまま、血で汚れた唇が、かすかに震えている。
 リュンは顔を隠すスカーフをはずすと、心の中で詫びつつ、試験管の栓に噛み付いて、引き抜いた。

 漆黒の闇に包まれたアルベルタに、雨が降りはじめていた・・・。