夏の猛獣 −4−


 フリゾリート城の裏手から山に登ると、やがて広々とした花畑に到達する。針葉樹林に囲まれたそこからは、眼下にフリゾリート城の尖塔とマール湖が見下せ、空も大きく開けている。地面は高山植物に覆われ、ところどころに古い倒木や小さな岩は見えるが、おおむね平らで、色とりどりの花が咲き誇っていた。
「わあぁ・・・・・・、綺麗だなぁ」
 イーヴァルと並んでぽくぽくと馬を進めながら、イグナーツはうんと深呼吸をした。高原の清々しい空気の中に、草と穏やかな花の香りがする。
 時々吹く風に山吹色のショールを押さえ、ぐるりと見渡せば、青く高い山々が、まぶしい空に雄姿を掲げている。
「ここでよく、姉上や供の者たちと駆け回って遊んだものだ。母上が、貴族の娘にしては変わり者で、高山植物や、山の天候や地形などに造詣が深くてな。よく教えてもらったものだが・・・・・・もうほとんど忘れてしまったな」
「へ〜」
 イーヴァルが家族のこと、および幼少の頃の話すのは珍しい。やはりこの地は、イーヴァルの思い出が深い場所なのだと、イグナーツは感慨深く思った。
 ピクニックに来たのは、イーヴァルとイグナーツだけではない。昔からこの地で仕える者を含めた供回りが五名ほど、昼食などの荷物を積んでイグナーツたちと付かず離れず馬を進めている。
「もう少し先に、いつも馬を繋いでいた場所があるはずだが・・・・・・まだ残っているかどうか。そこに到着したら、昼食の準備をさせよう」
「うん」
 やがて、小さな石も見えないほど、ふっくらとピンクと紫と緑の絨毯に覆われた場所に到着し、その向こうにポツンと柵のようなものが見えた。
「ああ、ここだ」
 イーヴァルが供を連れて柵の様子を見に行ったので、イグナーツは邪魔にならないよう、馬の速度を落として、もう一度辺りを見回した。
 ここは日当たりがいいが、花畑も終わりに近く、山肌と森も迫っていた。さわさわと木々が風に揺れ、鳥の鳴き声も聞こえる。来た道を振り返れば、意外と勾配があるようで、湖がずいぶん下に見えた。風が吹くたびに、花の絨毯がさざ波を作ってなびいていく。
 ぼんやりと景色を眺めていたイグナーツは、がさがさという草の音に、はっと手綱をつかみなおしたが、次の瞬間には鋭く嘶いて棹立ちになった馬に慌てた。
「どうっ!ど・・・・・・ッ!?」
 馬の足元を、何か小動物が駆け抜けていったのは見えた。しかし、視界の端に入り込んできたのは、灰褐色の壁だった。
 どかんっ、と何かにぶつかった。綺麗な青い空が、ゆっくりと見える。ひとつ瞬きをすると、目の前に地面があった。
(ま、ずい・・・・・・っ!!)
 顔を、頭を守らなくては。腕を折り畳み、できるだけ上体を丸めろ。勢いには逆らうな。坂を転げろ。着地の角度がまだ・・・・・・。
「ぐはっ・・・・・・ッ」
 地面にバウンドした体が、ごろごろと転がる。誰かの叫び声が聞こえたが、耳元でごそごそいう草花の音の方が大きい。
 やがて吹き飛ばされた勢いがなくなって体が止まったが、痛みで息ができないし、目が回って上下の感覚もあやふやだ。草を踏んで走ってくる足音が聞こえる。
「・・・・・・ナーツ!イグナーツ!!」
「ぅ・・・・・・」
 わかってる、大丈夫、心配するな、と言いたいのに、起き上がろうとしていたうつ伏せの体を、そっと仰向けに抱き起されても、息が詰まっていて、ろくに呼吸もできない。
「城へもどって、医者と馬車を呼んで来い!早く!」
「はっ!」
 馬が走っていく音がする。遠くでは他の人間の声がするが、良く聞こえない。痛みに耐えて目を開けると、血の気が失せたイーヴァルの顔があった。
(そんな顔もできるんだな・・・・・・)
 などと呑気に思ったが、まだ近くに自分を吹き飛ばした危険があるはずだと、無理やり深呼吸をした。
「っはぁ・・・・・・ああ、大丈夫・・・・・・。めちゃくちゃ痛いけど、ちょっと、目が回ってるだけだから・・・・・・立てる、はず。うっ・・・・・・」
「こちらに危険はない。無理に動くな。じっとしていろ」
 イーヴァルの手が、イグナーツに付いた草や土埃をはらっていく。そんな優しい仕草に、イグナーツは不謹慎と思いながらも微笑んだ。
「いったい・・・・・・なにがあったんだ?」
 膝枕をされたまま見回すと、少し離れたところで、供たちが馬に乗ったまま、緊張して何かを見つめている。ぐわっと後ろ足で立ち上がったのは、馬に乗った人間よりも背の高い、灰褐色の獣だった。
「え・・・・・・熊か?」
「そのようだ。マール湖にも人家から離れた場所に時々姿を見せると聞いていたが、いままで遭遇したことがなくてな。油断した」
 イーヴァルの声は苦々しく後悔に満ちていたが、ここには二十年近く、ほとんど誰も来ていなかったのだ。熊の縄張りになっていてもおかしくはない。
 供たちはじりじりと包囲の輪を広げ、巨大熊が自分で森に帰るのを待っている。熊に対し、背を見せて逃げるのは厳禁だし、刺激するのはもっと危険だ。
 やがて、熊はイグナーツが乗っていた馬を食い散らかすと、残骸の欠片をひきずりながら、森へと戻っていった。
「あーあ・・・・・・ごめん、イーヴァ。馬が熊のランチになっちまった」
「気にするな。お前が熊の餌食になることに比べたら、なんでもない」
 供たちの手で酸鼻な代物は森の中へと片付けられたが、まだ血の臭いは漂っている。
「陛下、血の臭いで他の獣が集まって来るやもしれません。もう少し安全な場所まで移動しましょう」
「そうだな。イグナーツ、動けるか?」
「なんとか」
 イグナーツはイーヴァルに支えられて、よろよろと立ち上がった。幸い骨は折れていなさそうだが、全身の打ち身が酷く、まだショックが抜けていないのか、頭もふらふらした。
「・・・・・・おぶされ」
「ええっ!?いいよ、支えてくれるだけで!自分で歩く!」
 イーヴァルは不満そうな顔をしたが、皇帝が人を背負って歩いているのに、家臣が馬に乗っている状況は、供たちが精神的に死にそうで気の毒すぎる。
 イグナーツがイーヴァルの手を借りてゆっくり歩きだすと、供たちも馬は降りたが、油断なく周囲に気を配りながら歩き出した。そのうちの一人は、イーヴァルの馬の手綱も握っている。
「ははっ、熊に会ったのなんて初めてだ。あんなに大きいんだな。びっくりしたよ」
「はぁ・・・・・・笑い事ではない。お前は自分がどれだけ吹き飛ばされたのか、自覚がないのか」
「馬から落ちた経験もないけど、よく馬具に絡まらずに綺麗に飛んだな」
「そういう問題ではない・・・・・・」
 イーヴァルは呆れるが、手綱や鐙に手足が引っ掛かっていたら、倒れた馬の下敷きになっていたら、そう考えると、受け身をとれる可能性のある吹き飛ばされた方が、まだましだと思えた。・・・・・・今回は、受け身をとる余裕すらなかったが。それでも、脚をぐちゃぐちゃに潰されたり、熊の爪にかかって死んだりする可能性を考えれば、ずいぶんましな気がする。
「運が悪ければ、頭や首の骨を折って死んだかもしれんのだ」
「ああ、顔と頭はかばおうと思った。空中で」
 まだ渋い顔で何か言おうとするイーヴァルの唇に、イグナーツは笑って指を立てた。
「もういいだろ。休憩できるところまで、しばらくまじめに歩かせてくれ」
 実際、落下の衝撃を受け止めた肩や背中、擦り傷になっていそうな肘や膝も痛かった。転がったからまだよかったが、これが角度悪く滑っていたら、服が裂けて、もっと酷い擦り傷になっていたに違いない。
「皇孫たちを遊ばせる場所が、鋭い石がなくて、たくさん草の生えた、柔らかい地面で助かったよ」
「・・・・・・・・・・・・」
 少し花畑の斜面を城方面に戻り、なるべく平らな場所に絨毯を敷いて座り込んだ。迎えの馬車はまだしばらくかかるだろうと、ここで昼食ということになった。
 イグナーツは痛む両脚と片腕を投げ出し、イーヴァルに寄りかかって、水筒から冷めた紅茶をごくごくと飲んだ。キャベツとひき肉のパイも美味しく食べられたし、アクシデントのショックは治まったようだ。
 思いだすと、いまさらながらに冷や汗が出る気分だったが、イーヴァルに寄りかかってうとうとしていると、すぐにどうでもよくなっていった。
「迎えが来たようだ」
 車輪の音とイーヴァルの低い声に起こされて、イグナーツは目を開けた。
「・・・・・・大丈夫か?」
「うん。だいぶ気分もよくなった」
「馬車に乗れ。俺は馬で行く」
「わかった」
 イグナーツがイーヴァルに押し上げられるように馬車に乗ると、中では立派な口髭を生やした年配の男が待っていた。ラズーリトからの随員で、宮廷医師団のお偉いさんだとイグナーツは記憶している。どうして彼が随員に選ばれたかというと、幼いイーヴァルについてフリゾリート城に来たことがあったことと、皇帝にもわりと強気なことを言える医師だったからだ。
「落馬したと聞きましたが?」
「大きな熊がぶつかってきて、吹き飛ばされたんです」
 医師の顎がかくんと落ちたが、イグナーツは笑って上着を脱いだ。
「腕も脚もちゃんと動くけど、あっちこっち痛いんで・・・・・・よろしくお願いします」
「・・・・・・承りました」
 着地した時に一番打ち付けた肩の後ろが真っ青に腫れていたのと、膝や肘などが衣類の下で擦り切れていたのと、金具に強く押し付けられた足にあざと小さな傷が出来ていたが、他は大丈夫そうだ。
 手当を受けている最中に、イグナーツは「ちょっと失礼」とシャツをかけられた。そのまま医師は馬車のドアを開け、深みのあるバリトンで苛立たし気に叫んだ。
「陛下!鎖をはずすご許可を!!」
 イグナーツは真っ赤になった顔を手で覆ったが、イーヴァルが乗り込んでくる前に、医師が責められないよう必要なことを言うことができた。
「包帯巻けないんだ!俺が外して、俺がちゃんと付け直すから!」
 外からイーヴァルの声が「良きに計らえ」と聞こえ、イグナーツはほっと安堵のため息をついた。
 ばたん、と馬車のドアが閉まったので、イグナーツは指先で乳首に刺さったピアスをはずした。揺れ始めた馬車の中で鎖だけ外そうとして、小さな部品を紛失してしまうよりはいい。
「まったく、陛下のご趣味ときたら・・・・・・」
「は、はは・・・・・・」
 イグナーツは包帯でぐるぐる巻きにされながら、ふと首を傾げた。
(なんか大人しいな)
 いつものイーヴァルなら、イグナーツが自分でやると言っても、身体につけた装飾品は自分以外に触らせない。治療のためにハインツが触ることがあるが、それはイーヴァルが認めているから例外だ。
(・・・・・・変なの)
 しみる消毒液に悲鳴を噛み殺しつつ、イグナーツはゴトゴト揺れる馬車に身を任せた。